ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場「ルル」

5.運命の女(ファム・ファタール)はいずこ?(大泉尚子)

  “ファム・ファタール(運命の女)”―男にとって出会ったが最後、人生を狂わされる存在であり、言い換えれば稀代の悪女。代表格のクレオパトラ、サロメ、カルメンなどは、歴史や物語を鮮やかに彩る人物像でもある。ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場『ルル』のチラシには、「21世紀を震撼させる悪女(ファム・ファタール)」の文字が踊り、金髪碧眼で赤く分厚い唇を持つ妖しい女の肌も露な肢体。果たして現代のその女はどんな様相を呈しているのだろうかと期待が募る。

 さて観客が舞台に上がるのは、そうひんぱんにあることではない。まして、上方から見下ろすというのはなおさら。『ルル』では、そんな数少ない体験をした。
 劇場の客席を通り抜けて舞台へ、さらに、そこに設けられた急な階段を上ると、かなり傾斜のきつい階段状のベンチ座席が現れる。人と行き交うのに注意を要するくらい、通路も前後の間隔も狭い。
 この特設の客席は、全体がU字型の擂り鉢状になっており、その底に当たる部分が舞台のようだ。中央にはスチール製の大きなデスクが冷え冷えとした鈍い光を湛えている。舞台上のU字の曲線部分の辺りに2か所、俳優の出入り口らしきもの。それに対する側は、かなり幅広いスペースが黒い幕で閉ざされている。

 暗いイントロをバックに黒い大幕が開け放たれると、上方にはバイオリンなどを奏でている3人の女性ミュージシャンが陣取り、その下には、顔に紙袋をかぶった人物たちが坐っている。飛び出してきたシルクハットの男が言うには、これは獣の登場するサーカスで、自分は猛獣使いだと。
 虎・熊・猿と紹介されて紙袋を取って顔を出すのは、獰猛そうなあるいは小賢しそうな顔つきだったり、超巨体だったりはするが、れっきとした人間の男たち。それに続いて「蛇」「災いの種」と称されて現れるのは、あたかも死体のようにぐにゃりとなった身体をすっぽりとビニール袋に包まれた女。主役の登場はこんなふうに意表をつく形で行われたのだった。

 ところで、ルーマニア語で上演される本作には日本語のイヤホンガイドがつく。字幕を読むストレスがない上に、セリフの抑揚がない、いわゆる棒読みなのがニュートラルで、想像力を邪魔せず観客にとっては有難い。と言いつつも、耳に気をとられての観劇では理解が損なわれるのも必至で、海外公演に言葉の壁が付きまとうのは悩ましい限りだ。

 粗筋を辿ってみよう。社会の最下層に生まれた彼女(オフェリア・ポピ)は、シェーン博士(コンスタンティン・キリアック)に引き取られ育てられるが、ゴル博士(クリスティアン・スタンカ)という年老いた高官と最初の結婚をさせられる。ところが、生まれついての奔放さゆえか、人妻でありながら次々と他の男、さらには女までをも翻弄し籠絡する。不倫の末の結婚は、写真家シュワルツ(ミハイ・コマン)やシェーン博士と続き、愛人や思われ人に至っては、軽業師・シェーンの息子の演出家アルヴァ(アドリアン・マティオク)・レズビアンの伯爵令嬢と留まるところを知らない。
 夫たちはみな、妻のせいで非業の死を遂げる。ゴル博士は、写真家との密会に出くわしてショック死し、シュワルツは、庇護者シェーン博士との愛人関係などのディープな過去や本性を知り、喉を剃刀で掻っ切って自殺。シェーンは、婚約を破棄してまで強行した結婚だったが、息子までを巻き込むあまりの乱脈ぶりに悩まされてモルヒネ中毒に陥り、果ては妻にピストル自殺を迫った挙句、揉み合って反対に射殺されてしまう。
 罪を逃れた逃走生活の中でも、彼女と愛人たちとの関係は腐れ縁的に続くが、尾羽打ち枯らしたとどのつまりは売春で糊口を凌ぐ。ついには、お客の「切り裂きジャック」の手にかかって、自身も非業の最期を遂げることになる。

 以前「サザエさん」の都市伝説というのが流布し、サザエさんの息子タラちゃん以外は一家惨殺されるというオチもあったが、「マイ・フェア・レディ」のそれ版かと見まごう転落譚である。

 とはいえ、陰惨なだけの話ではない。生演奏に乗せての登場人物たちの狂乱振りは、サーカスの喩え通り、ムンムンとした動物臭を漂わんさんばかり。
 第一その身なりからして剣呑極まりない(衣装デザイン:リア・マンツォク)。男たちたちや伯爵令嬢は、黒い外套やスーツなど比較的フォーマルな装いに身を包んでいるのに対して、ルルはといえば―。裸同然のビニール袋詰めに端を発して、フワッフワのピエロ襟の真っ白なネグリジェドレス、黒いブラジャーとパンティ、暗い赤のサテンっぽい部屋着とインナーウェアのオンパレード。お洒落なパープルのコートを羽織っても、パックリ開いた胸元には大っぴらにブラを覗かせ、これでもかと艶かしさを強調する。
 途中で出てくるメイドの衣装も下着っぽいし、彫像のように佇む使用人らしき黒人の、ほとんど露出した肌に幅広の帯を巻いた衣装は、アラビアンナイトさながら奴隷ルック(?)にも見える。
 それらの歴然たるギャップは、物議を醸したというマネの「草上の昼食」のごとく、見る者を知らず知らずのうちに高ぶらせ、その神経を逆撫でする。

 それ以上に、性的“ほのめかし”という言葉では可愛らし過ぎるというくらいあからさまなシーンも豊富だ。訪ねてきたホームレスらしき養父が首からぶら下げたアコーディオンを彼女が弄ぶかのように伸ばしたり縮めたり、また、ホワイトアスパラを男の目の前に垂らして食べさせたり、さらには、立っているアルヴァに抱きついて足を絡みつけ、くるくる回って二人でハアハアと息を荒らげたり等々、たっぷりと見せつける。

 冒頭の白いファンシードレスで写真を撮られるくだりでは、なぜか手に髑髏を持ち、子供のようにはしゃぎまくる彼女。乱交パーティのような宴会の場面では、ふざけてなのか着衣のままバスタブに漬けられ、赤い服にあしらわれた黒いファーが見るも無残にぐっしょり濡らされたりする。喧騒と猥雑がごたまぜになり、そこに顔を覗かせる不吉な予兆はみるみる亀裂を広げていくのだが、それであるがゆえに、さらなる狂騒が求められるのか。破滅に向かうからこそ強い光芒を放つ生命力が垣間見えるようだ。

 そしてそれを、見下ろしている自分を含む観客たち。急勾配の座席がそのことを常に否応なく意識させ、舞台に繰り広げられている熱量と同じくらいの冷ややかな感じが付きまとって離れない。ポスト・パフォーマンス・トークで、演出のシルヴィウ・プルカレーテが、この客席の構造は医学校の解剖教室をイメージしたものだと言っていたが、さもありなん。
 そういえばローマの貴族は、奴隷同士や奴隷と獣との闘いを、こんなふうに円形劇場で見たのではなかったか。高みの見物を決め込んでいると、お前は一体何様なのだと言う声が、擂り鉢の底から反響して聞こえてきそうな席でもある。

 さてそれで、ファム・ファタールとは一体誰なのか? ルル? 本当に?
 彼女は、男たちにさまざまな名前で呼ばれる。確か「ネリー」とか「ミニオン」とか「イブ」とか。貧民街で生まれ拾われて育てられ、本当の名前は知らないのだと言う。12歳からカフェで花を売り、シェーン博士に学校に生かせてもらって成績は一番だった。次から次へと男を渡り歩くが「愛以外はいらない」なんていうセリフを吐いたりもする。自ら男の運命を弄んでいるのか、あるいは彼女自身も運命に翻弄されているのか。

 演ずるオフェリア・ポピには、女優にはあまり用いられない“怪優”という称号を差し出したくなる。ビニール袋から顔を出した時の(アレッ、美人じゃない!)という第一印象が鮮烈だった。
 事前に劇場で行われたレクチャー「演出家シルヴィヴ・プルカレーテ」では、同じくラドゥ・スタンカ劇場の『ファウスト』の映像を見たのだが、そのメフィスト役の印象が強すぎたせいもあるかもしれない。両性具有の悪魔や老人の男までを自在に演じ分けるポピは、到底、美人などという小さい枠に収まるタマではなかった。
 映画界で言うなら、さしずめケイト・ブランシェットだろうか。エリザベス女王から見るからにブッサイクな中年女まで、作品ごとに全く異なる表情を物にして、美人なんだか不美人なんだか全く判別がつかず、オリジナルの顔は一体どれだ!?と驚愕させる女優である。
 加えて、ポピの桁外れた身体能力。デスクやソファなど、少々高いところにもこともなげにヒョイッと飛び乗り、ブリッジも気合も入れず軽~い感じできれいに決めたりもして。最初に猿と紹介されたのは、確か写真家役のコマンだった気がするが、彼以上に小猿のように身軽に動き回る。
 チラシやポスターの写真からは、喩えて言えば、マリリン・モンローに深い知性を注入し、東欧の濃厚な泥臭さをまぶしつけたような妖艶な“美魔女”を想像していたのに、随分イメージが狂ってしまった。だが、その年齢や性別を軽々と超越するかのような柔軟なスケール感には並々ならぬものがある。

 そして物語の世界に戻っても、眼前に悪女たるファム・ファタールが現れたとは、どうしても思えない。ネグリジェドレスの彼女は、生まれや育ちが悪かろうがそんなことにはおかまいなしに無邪気に髑髏で遊び、人の人生をどうこうするような志向性は持ち合わせていないように見えた。
 男たちはそれぞれ自分の好きな名前で彼女を呼んだように、自らの望む女性像を彼女に求めたのではないか。そして、決してその実像を見据えようとはしなかった。極端にセクシーな装いも彼らの欲望や幻想を映す鏡だったのかもしれない。
 その証拠に、終盤ボロボロのドレスを着ていても、至る所に雨漏りのする藁を敷き詰めた納屋のような場所に住んでも、彼女はそのことを悲しんでいるようにはちっとも見えなかった。売春婦に身を落としても、それまでと同じように周囲から求められる役割を果たしていたではないのか。
 そういえば、先にふれたマリリン・モンローを思ったのにはもう一つわけがあって、途中で主人公の彼女の写真の同じものが何枚も掲げられるのだが、あれが、アンディ・ウォーホールのカラフルにコピーされたモンローとイメージがダブるというのはこじつけに過ぎるだろうか。大量に生み出され消費されるファム・ファタール。オリジナルを求める手はむなしく空を切るのみ…。

 最初の方の場面から何回か、舞台袖から女性たちの悲鳴=複数の声が聞こえていたのだ。特にストーリーとの明らかな関係は示されなかったのにもかかわらず、いや、だからこそあの悲鳴は耳に残った。あたかもこの作品の通奏低音のように。
 観客席ひとつにもあれだけの仕掛けを施したプルカレーテの一筋縄では捉え切れない演出は、ありがちな悪女ものを描き出したに留まるとは思えない。もしかしたらあの声は、自分が望んだわけでもないのにファム・ファタールという言われなき重荷を背負わされた女たち(=主役の彼女のみならず複数の)の口から漏れたものではないか。いないはずの女性たちの悲鳴が響き、存在しなかったファム・ファタールの幻がこの手をすり抜ける、それこそが私の「ルル」だったのかもしれない。

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