ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場「ルル」

3.ルル・欲望の正体(澤田悦子)

 3月3日はひな祭り、女の子の無病息災と良縁を願う行事だ。ひな祭りは、中国の漢時代に女児を3人亡くした男が、3人の女児の亡骸に桃の花を添えて水葬した逸話が起源と言われている。日本では平安時代に行われていた、3月3日に陰陽師を呼びお祓いをさせ、紙の人型に自らの穢れを移し川に流す行事である「上巳の祓い」が中国の逸話と結びつき、ひな祭りとなった。穢れを移す人型が人形となり、江戸時代以降に飾り雛となって現在に至っている。「ルル」は、3月3日に千秋楽を迎えた。ひな祭りの日に、「女」が主役の舞台が終わる。なんとなく因縁めいているように感じるのは、私だけだろうか。

 劇作家フランク・ヴェデキントの代表作、戯曲「地霊」と「パンドラの箱」を(ルル二部作)まとめたものが、「ルル」である。

 貧民街で生まれたルルは、シェーン博士に拾われ愛人となる。シェーン博士は、ルルを初老の医事顧問官のゴル博士と結婚させる。しかしゴル博士は、ルルに若い写真家が言い寄る現場を目撃し、激怒したことがきっかけで、突然死する。ルルは写真家と再婚し、彼の子供を身ごもるが、流産してしまう様子だ。写真家はルルの正体を知り、絶望して自殺する。

 次々と結婚相手が死んでいくルル。そしてルルは、シェーン博士に愛をささやき結婚をせまり、博士は婚約者と別れルルと結婚する。しかし、結婚生活は幸せなものではなく、ルルの周りには、同性愛者のゲシュヴィッツ伯爵令嬢、養父のジゴルヒが現れる。さらにルルは、シェーン博士の息子アルヴァ、軽業師とも関係を持っている様子で、シェーン博士は嫉妬と絶望に苛まれる。モルヒネに依存するシェーン博士は、ルルに自殺を迫るがルルは拒否し、逆にシェーン博士を射殺する。シェーン博士は最後の言葉で、ルルに逃げるように指示する。

 博士の指示に従い逃亡したルルは、パリの売春宿に身を隠していた。ルルの逃亡には、アルヴァ、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢、ジゴルヒ、軽業師が同行していた。5人は自堕落な生活を送っていたが、追手がパリにもやってくる。

 パリから逃亡し、ロンドンで貧しい部屋に住み着いたルルとアルヴァ、ジゴルヒは、ルルが売春して稼いだわずかなお金で生活していた。困窮するルルのもとに、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢が現れ、手を差し伸べるが、ルルは彼女を相手にしない。絶望したゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、自殺しようとするが決心が付かずに逡巡する。ルルは彼女を残し、客を探しに夜の街へと出ていく。その日、ルルの最後の客はジャックという名前だった。ルルはジャックに殺され、女性器を切り取られる。ジャックは、ルルの女性器を瓶に詰め、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢を刺して逃亡する。重傷を負ったゲシュヴィッツ伯爵令嬢の「ルル、私の天使」という悲痛な叫びで舞台は終幕する。

 ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場の「ルル」は、東京芸術劇場プレイハウスのステージ上に、特設で設えられた舞台で上演された。特設舞台は、木造の馬蹄形で客席は6段になっており、中央が舞台になっている。第一部は、馬蹄形の舞台中央にステンレスのテーブルが置かれ、周囲をルルのポートレートが囲んでいた。二部では、中央にはバスタブが置かれ、周囲を鏡が取り囲んでいた。

 演出家のシルヴィウ・プルカレーテよれば、「観客席の設定、舞台セットは医学部の階段状の解剖教室から発想を得ている。かつて解剖学の授業では、学生たちはそこから教授が解剖をするのを見学した。実際、これはある種の人体解剖、(つまり「ルル」のことであるが、)を間近で観客が目撃するというアイデアである。観客はこの「解剖」や「被験者」をすぐ近くで見る必要があるために、とても狭く小さい階段教室のようなセットにした。この状況において、観客はちょうど目撃者になる。」とのことだが、私はこの「ルル」が、人間の欲望を解剖し、正体を見極めようとする舞台に思えた。

 舞台のプロローグ、猛獣使いが紙袋を被った登場人物を紹介した。ある者は「虎」。ある者は「熊」。そして、ある者は「ラクダ」。ビニール袋に包まれたルルは、蛇として紹介された。蛇は旧約聖書のアダムとイヴ一説に登場する、アダムとイヴをそそのかし、知恵の実であるリンゴを食べさせる動物である。知恵の実を食べた2人は楽園を追放され、アダムは労働の苦しみ、イヴは出産の苦しみを与えられた。蛇は、2人をそそのかした罰として地を這う生き物になった。

 ルルが蛇であるならば、彼女は欲望をささやき続ける宿命を持っている。罪を犯すようにささやき、自らに罰を与えられてもささやきをやめることができない。この舞台で、不適切な関係を罪だなどと指摘するのは野暮だろうが、ルルの行為の先に見えるのは神に対する視点である。神様は私を見ている。欲望する人間の姿を知っている。それは観客も例外ではない。

 ルルは常に何かを欲している女だ。ゴル博士と結婚しているときは「若さ」を欲しがり、写真家と結婚すると「成熟」と「知性」を欲しがる。「貴方を愛している。私はあなたと結婚するの。」と言ってシェーン博士と結婚するが、彼女は満足できない。博士の息子の独白によれば、花嫁衣裳のルルと愛し合っている。彼女は軽業師と浮気し、ジゴルヒとも関係している。

 現状に満足できず、常に何かを求める。それは、現代に生きる私たちの姿だ。現代は、高度に発展した消費社会であり、情報化社会でもある。私たちは形のある物質だけでなく、価値や情報をも消費する日常を生きている。常に何かを消費し、欲望し続ける。資本主義経済の宿命は、欲望を駆り立て消費者を拡大し続けることが、義務付けられていることである。ルルは欲望し続ける私たちそのものだ。しかし、ルルだけが常に欲しがっているのではない。「ルル」の舞台では、登場人物は常に欲望し続ける。「もっともっと、欲しがれ」「手に入れられないものなどない。」「全ては金銭に換算して消費できる。」私たちの周りには、そんな言葉が装飾されて並べられている。現代社会に生きている限り、私たちは欲望から逃げることは出来ない。

 第二部で、ルルは逃亡の果てに惨殺される。それは、私たちの社会が崩壊に向かう姿と重なる。欲望のままに社会が発展し、このままでは維持できないと何年前から言われているだろうか。エコもリサイクルも主義主張ではなく、そうしなくてはならない事実になった。「持続可能な社会」は、実現可能なのか。藤原章生の本のタイトルではないが、社会は少しずつ、資本主義の終わりの始まりに向かっているような気がしてならない。

 ルルはシェーン博士に自殺を迫られたが、逆に博士を射殺した。創造者を破壊し、欲望の赴くままに生きるルルは、コントロールできない私たちの現実社会そのものだ。グローバル化が進み、バタフライエフェクトはSFの世界ではなくなった。私の欲望が、誰かの生活を脅かしているのかもしれない。

 終幕、ルルは女性器を切り取られる。舞台上では直接的な表現はなかったが、ルルの衣裳の下腹部と太ももの内側に血がついていたことからも、推測できる。

 なぜ、ルルは女性器を切り取られたのだろうか。私には、ルルの欲望が女性器に集約されているように思うのだ。彼女は女であることが、相手の欲望の対象となり、自らの欲望を満たすための装置となっていた。切り取られることで、彼女は欲望を満たすことが永遠に不可能になった。

 しかし、欲望そのものはなくならない。「ルル、私の天使。」彼女の存在が、物質ではなくなっても、私たちは存在という情報を消費できる。ルルは天使となることで、さらに消費できる存在になった。ゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、ルルを求め続けるだろう。二度と手に入らない存在になった彼女に、欲望し続けるだろう。そしてゲシュヴィッツ伯爵令嬢の欲望は、永遠に満たされることがない。ルルの欲望の正体、それは彼女の存在そのものであり、正体を暴くことは不可能なのだ。

 3月3日は、ひな祭り。女の穢れを祓う日だ。穢れは、永続的・内面的汚れであり、他人にも感染する。ルルの欲望は穢れだ。3月3日に終わった舞台、彼女の穢れは払われただろうか。醜く愚かで愛おしいルル。ふとした瞬間に彼女のしぐさがよみがえる。思い出すたびに、新しい彼女が発見できる。私は彼女の魅力に夢中だ。彼女の欲望の虜だ。私は、彼女の穢れに感染してしまったのかもしれない。

 (2月28日 14:00観劇)

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