ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場「ルル」

2.ルルの退廃、あるいはエロティシズムの幻滅(片山幹生)

 今回のルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場による『ルル』公演で、何よりも(舞台の上演内容よりも)印象的だったのは、風変わりな観客席の設計である。今回の公演では東京芸術劇場の中ホール(プレイハウス)の舞台上に特設ステージが設置された。特設ステージは馬てい型に配置された六層のひな壇状の観客席が、細長い演技の場を取り囲んでいる。傾斜がかなり急な観客席の各列の前面は板によって前後が区切られ、その板は観客の足元から腹のあたりまでを隠していた。馬てい型客席のUの字が開いているほうにはカーテンが引かれ、その奥にも演技の場となる舞台空間がある。Tの字の舞台の両脇を、Uの字に配置された観客席で取り囲むかたちになっていた。

 この特異な観客席が何を模したものなのか、観劇時には私にはわからなかった。裁判所の傍聴席のようにも思えたし、サーカス・テントの中のようにも思えた。サーカス・テントを連想したのは、劇のプロローグで、会場が見世物小屋に見立てられ、そこで猛獣遣いが劇中人物たちを動物にたとえて紹介するスタイルだったからだ。観劇のあとのツィッターのやりとりで、この観客席が何を模していたのかを私は知った。16世紀末から18世紀のヨーロッパ各地の大学医学部にあった解剖学劇場Theatrum anatomicumがそのモデルだったのだ。解剖学劇場は、解剖の実習(あるいは外科手術)のための建造物だが、ときには入場料をとって一般人もその様子を見学することができたらしい。中央の解剖台の様子を観察できるよう、解剖台を中心にそれを取り囲むかたちで階段状に見学席が設置されているその建築は、劇場の名で呼ばれるにふさわしい。当時の解剖学劇場は多くの図像に記録されているほか、現在でもパドウァやボローニャに残っていて、見学することができるという。

 客席が解剖学劇場の見学席だとすると、中央の演技場でものものしい存在感を示していた巨大な金属製テーブルは解剖台(あるいは手術台)であり、観客は邪悪な好奇心をもって、グロテスクな解剖のありさまを見世物として見守る悪趣味な見学者ということになる。

パドウァの解剖学劇場
【写真は、パドウァの解剖学劇場(http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Th%C3%A9%C3%A2tre-anatomique-Padoue.JPG?uselang=ja より)】

 残念ながら実際には、観劇時には私は、客席の設計を解剖学劇場と結びつけることができなかったのだが、この奇妙な劇場空間の仕掛けが作り出す禍々しい空気に気分は高揚し、作品への期待は一気に高まった。
 原作をほぼ踏襲した象徴的なプロローグはよかった。幕があがり、客席から隠されていた奥の舞台が露わになると、生演奏の音楽とともに怪しげな見世物小屋の香りが濃厚に立ち上る。出演者は彫りの深い碧眼の西洋人の役者たちなので、雰囲気は満点だ。解剖学劇場と見世物小屋、そして『ルル』を結びつけるという着想はすばらしいし、美術はこの着想を見事に具現していて、観客の好奇心を強く刺激するものになっていた。

 しかし劇空間のアイディアこそユニークではあったが、劇の展開と演出のなかでこのアイディアは十分に生かされていたようには私には思えなかった。2時間半を超える上演時間、退屈することはなかったが、芝居自体は存外にオーソドックスで、日本の新劇あたりでもこれくらいの芝居はやりそうな気がした。タイトル・ロールを演じた金髪の女優、オフェリア・ポピはコケットで、その演技は説得力あるものだったが、ルルを演じる女優ならば彼女程度の水準は必要とされるだろう。《宿命の悪女(ファム・ファタル)》の一典型であるルルは、女優にとって人物造形の工夫のしがいがある役柄ではあるが、それほど難しい役柄だとは私には思えない。またポピのルルは、私の思い描いてたルル像とはずれがあったのだが、そのズレを埋め合わせるほどの強烈な個性的魅力を私は感じなかった。私がイメージしたルルは、空虚な性的記号としての女性である。男たちは彼女にそれぞれが自分勝手な性的幻想を投影し、最終的にはその幻影のなかで自滅していく。ルル自身は受動的で無垢な存在だ。ポピのルルは、私からすると過剰に肉感的で扇情的に感じられた。

 『ルル』の原作は、第一部「地霊」と第二部「パンドラの箱」からなり、仮に全篇をそのまま上演すると上演時間はゆうに5、6時間は必要となるだろう。プルカレーテ演出・脚本による今回の版の上演時間は、休憩を除くと2時間半ほどに圧縮されている。第二部「パンドラの箱」の前半部がとりわけ大きく省略されていた。テキストレジはかなり粗く、原作を知らない観客には不親切であるような印象を持った。ルルという性的象徴に振り回される幾人かの通俗でかつエキセントリックな人物たちの混乱ぶりがドラマの軸となるはずだが、ルル以外の人物造形が弱く、各人物の個性、人間関係が明瞭に描き出されていなかった。

 一幕でルルが男たちの面前でこれみよがしに身につけていた下着を脱ぐ場面がある。そのあと、画家シュヴァルツとルルが二人きりになり、欲情したシュヴァルツがルルに襲いかかる場面があるのだが、そこでルルの着ていた白いドレスがめくれあがって下半身が露わになった。私はこの場面をかなり近くで見ていたのだが、そのめくれあがったドレスの下にルルが肌色のスパッツを身につけていたのがはっきりと見えてしまった。いくらなんでもルルのような女がそんなダサいものをスカートの下にはいているなんてありえないではないか! この肌色のスパッツを一幕で見てしまったせいで、一気に私の気分は盛り下がってしまった。この後、いくらルルがなまめかしい視線で男たちを誘惑しても、白けてしまった気分は回復しない。『ルル』の原作者、ヴェーデキントの国、ドイツの劇団であれば、ルル役の女優がよもや全裸になることを拒むことはあるまい。いやルーマニア、あるいは日本の役者であっても、下着を脱ぐ場面を先に舞台上で見せておいて、実はその下に肌色スパッツをはいていたなどという生ぬるさが許されていいわけがない。私にとってルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場による『ルル』についての評価は、一幕のこの場面ですでに、ほとんど結論が出てしまっていたのだった。
(2013年2月27日19:00の回観劇)

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