10. 熱いあの場所が呼んでいる(でんない いっこう)
“なぜ ルル に自殺を求めるのか” 本気で!?
ルーマニヤ語を日本語に訳したイヤホンで抑揚のないセリフだったが、それを聞いていたはずだけど、シェーン博士(コンスタンテイン・キリアック)の表情からは 嫉妬 が少しも感じられず、それは 恐怖 のようだつた。自分の常識で暮らす生活を飛び越えて行くルル。
ピストルを受け持たされて、自殺する方法をいろいろ試してこめかみへ当ててみたり、口を大きく開けて銃口を向けてみたりする。
出来るわけもない。今や盛りの己れに対し、する必要もなく、土台、無理を承知の要求は 何を狙っていたか。
猛獣使いのはずの博士は貧しい生活の中から真っ当に育てたつもりだった。でもそれはつもりだけで、猛獣のままだつたのだ。結婚して内うちで飼おうとしていたが、収まる術もなく、博士自身を蝕んでゆく。育てた慈しみと、裏切られる切なさとで モルヒネに頼ってしまう博士。
もう終りにするしか無い。自分はこれ以上耐えていけない。ルルに殺されることによって終りにするしかないと。博士は自分が居なくなれば、ルルは自立した生活を送れないことは分かつていたはず。自分一人に治まらないルルに対して 手綱を引けない。
そして後ろから撃たれ、<逃げろ!>と 最後の愛が言わせる。60万フランあると金庫の鍵を渡す。知っていたのだ。殺されるということを。わかつていたんだ。
ルーマ二ヤ国立ラドウ・スタンカ劇場『ルル』は東京芸術劇場プレイハウス内特設ステ―ジで幕を開けた。
すごい芝居だった。映画でなら有り得るだろう作品だが、ライブとして演劇として観た事がない。 性のわざとらしさ、ここでセクシアルを表す行為としての性ね、芝居がかつた共通言葉としての性行為ね、パターンだね、と思う気もなく、なんと不道徳なとか、節操がないとか、思わないで、増して隣の夫婦の寝室を覗き見るような感じでもなく、少しも嫌らしくない。 欲望としてのセックス。自分の魅力としての自信の肉体。そして誰もがその虜となる。ただ吸い込まれるように流れていくものを見つめ観た。
日本的な性的描写は源氏物語絵巻のように、ひっそりと、思わせぶりに~あなたの範囲で想像して~という長い着物の裾で全部を見せない方式の感じなのだが、正反対であつた。
その女優の名はオフエリア・ポピ。
演出家のシルブイウ・プルカレーテは、『ルル』はこのポピのために制作した舞台だと語った。前作では悪魔の役だったので可哀想だから、今度は楽しい いい役をやらせてあげようと思ったそうだ。でもまた妖女でしたけどね。ああ こんな関係って なんてすばらしい!
物語は、{蛇}だといって透明のビ二―ル袋が担がれてくる。丸まった形状のもの、布で包んであるのではなく、白い女体。ダッチワイフの人形か、生きてるように見えない。
これが「ルル」。そして長いステンレスのような机に置かれる。舞台装置はその机とテーブルライトぐらい。写真家のスタジオと設定され「ルル」が生々しく生きてくる。
ポピの「ルル」は思つたより太い二の腕で、ほっそりしたスタイルのいい「ルル」というわけではない。しかし 美しい肢体と肌、可愛らしい唇で「ルル」を演じていく。
「ルル」の人間の欲望、性の衝動が周りの男たちの人生を狂わせていく。初老の医事顧問官は心臓発作で死亡し、カメラマンは純粋にルルの肉体を愛し、騙されたと思い絶望して首切り自殺をする。そして育てたシェーン博士がルルをひきとる。
ポピの演技は何だろう。 捨て身の芝居というのでもない。 演出家のプルカレーテは労働だと言う。手を抜かないで一生懸命演技をしている、という事は伝わってくる。
「ルル」は男性の作り出した希望の女性。男性にとって都合のよい、可憐で、可愛くて、肉感的で、性欲を充分に満足させてくれる女性。しかし、「ルル」は自然にそうさせてしまうのではなく、しつかり自分の特質を捉えており、常日頃、クリームを塗り、香水を身につけ, マ二キュアをし,精進しているのである。そして当然の流れとして精進の成果を確かめたくなる。征服してしまえば、すぐに次の成果を求め、自信に繋がつていく。
「ルル」は 人に恋しているのではない。自分の最大限の魅力はどれ程の効果と成果があるのか、試さずにはいられない肥大な自己愛のみである。 自分の魅力が何であり、その力の強さを知っている「ルル」。それには男の権力と保障される経済の上に成り立っていて
男社会の中でこそ、生き永らえたということではないだろうか。
客席は馬蹄形をしている。これは作家のフランク・ビエ―デキントが作品の第一稿で指示したものでプルカレーテ演出ではそれを踏襲したとの事である。机は死体を解剖するもの、そして観客席は医学生がそれを観察する所、プルカレーテはより近くで目の前で観てもらいたいという目的でもあつたと言っている。
私は最後列、つまり一番上の段で観ていた。ルルの行動を人体解剖のように凝視するという 観察者 にはなれなかつた。何しろ舞台がいつものように平場で一方方向の客席から観ていたならば、あの性衝動を形式化したものと感じながら、物語を追っていたに違いないからである。だが 上から観るのである。膝の前にはずぅと 続いた板が建てられていて狭い。のに のめりながらルルを観てしまうのである。
ふと客席に目を向けると、それは顔だけが、ほの暗い照明の中で浮かび、膝の前にある手すり台の上に生首が並んでいるようだつた。私の正面では死者の生首がみつめて居る。
きつと向こうからもそう見えるだろう。死者がみつめる芝居? 今までの多くの男どもが~~多くの女どもが~~また 繰り返している。まだ 繰り返している とみつめられている。永遠に続く物語。 いつの世も 何の時代でもある 男と女。幾千年と続く男と女の歴史のように、繰り広げられる物語のように、 延々と。 あなたもかと 言わせているようだ。
濡れた赤いひらひらのストールで色が滲んで薄いピンクになった白のシュミーズ。それは2幕で パリの賭博サロンの中の浴槽から次の場面で ロンドンの場末の貧民街の一室に転換する際に衣装として着せられたもの。ストールは着けたままだった、濡れたまま、そして それは血のしたたりを思わせた。
そこでは ルルが落ちぶれて藁敷きの部屋にアルバァと養父シゴルヒと暮らしている。シゴルヒが求められて手を差し出した。ルルは<冷たい手ね>という。養父は<熱いんだね、おまえは。>と返す。
アルバァ(アドリアン・マティオク)はシェーン博士の息子であるが病に冒されていて顔は白く塗られている。目の周りは黒く 頬がこけて見えるように赤茶で彩色。
衣装の延長のようにも思える。様式として手っとり早く分かりやすい見せ方だが アルバァは素顔のままの表現でも良かつたのではないだろうか。
「ねえ、あんた達は自分で食べることを考えたこともないの。自分の食べる分ぐらい、自分でどうにかしたらどうなの。」 逞しいルルも垣間見える。
ルルは行きずりの男に傷つけられても、もう一度熱い場所へと誘っていく。闇雲にルルの熱い場所が欲している。
ルルは欲望のままに生きたけれど、最後に 血だらけの肉の塊の一片と化して 透明な瓶に入れられ偏執狂の男に持ち去られてしまう。瓶の中からも いつまでも呼ぶだろうか。
私にはもう一つの声、レスビアンのゲシュビイッツ伯爵令嬢の最後の「ルゥ~~ルゥ~ ルゥ~~ルゥ~」と呼ぶ声が 美しい響きをもっていて またとても物悲しく いつまでも切なく 胸の中に一筋の血の流れのように残っている。
(2013年2月27日 19時観劇)