東京芸術劇場「狂人なおもて往生をとぐ ~昔、僕達は愛した~」

1.狂人だらけのこの世の中(中村直樹)

 ここはどこなのだろう。風俗店かと思いきや、ある大学教授の家の中。お客と従業員と思いきや、一つの家族。柱時計と照明器具と役者しか存在しない世界は靄がかかっているようにはっきりしない。ここは夢なのだろうか。はたまた現実なのか。観客である私はその狭間に落ちていく。そして心に浮かぶ。これはいったいなんなのだろうと。

 『狂人なおもて往生をとぐ−昔、僕達は愛した−』は1969年に発表された清水邦夫の戯曲である。この戯曲を熊林弘高の演出により、東京芸術劇場のシアターウエストで2015年2月10日から2月26日まで上演された。東京芸術劇場は過去の名作を若手の演出家に演出させるという『Roots』という企画を行っている。三浦大輔による『ストリッパー物語』に次ぐ第二弾として熊林弘高を選んだ。熊林は『おそるべき親たち』、『秋のソナタ』と東京芸術劇場で立て続けて成功させてきた。そんな彼が過去の戯曲をどのように立ち上げるか、それが試される作品であった。

 ピンクの照明に溢れた世界に役者の中嶋しゅうと役者の鷲尾真知子がいる。
「彼の望むとおりピンクの照明を入れた」
舞台の下手側にある柱時計が開き、役者の福士誠治が現れた。ピンクの照明に満足した福士が言うには、ここは風俗店で鷲尾は娼婦。そして中嶋は鷲尾を目当てに毎日のように通う上客だそうだ。そこに造花を持った役者の緒川たまきとイライラした役者の葉山奨之が現れる。福士は緒川を物好きな娼婦、葉山を風俗店の客として扱う。福士自身は鷲尾に養われているヒモだという。
「ゲームをしよう」
 中嶋の提案は『家族ごっこ』だった。中嶋が『父の善一郎』、鷲尾が『母のはな』、緒川が『長女の愛子』、葉山が『次男の敬二』。福士自身は嬉々として『長男の出(いずる)』を演じるのである。
『ゲーム』が進むにつれ、彼らは本当の家族であることが分かる。そして狂ってしまった出のためのロールプレイだと分かってくる。なるほど、彼らの視点から出の台詞は狂人のものとしか思えない言動だ。自分の家族のことを一時的な逢瀬と言うだなんて。

 彼らの関係は、敬二のフィアンセであるめぐみ(門脇麦)の登場で変わっていく。彼女は『常識のない』ことを自認する電話オペレーターである。地方から上京した彼女は敬二と結婚することで、大学教授の義理の娘となることを望んでいる。嫌がる敬二を振り切って、父に、母に、愛子に、そして出と会うのである。
「面白そう!」
 出の言う『ゲーム』に興味を持っためぐみは、家族を演じるゲームに参加するのだ。しかし人数が多いので配役が変更される。敬二が『父』、めぐみが『母』、善一郎が『長男』、はなが『長女』を演じるのだ。その『ゲーム』は順調に進んでいく。しかし雲行きが怪しくなり、最後には『父』、『母』、『長男』、『長女』は毒入りの紅茶を飲んで死んでしまうと言うものだった。

 めぐみは怒りに燃えるが、敬二の様子がおかしい。それは本当にあった過去の出来事だったのだ。大学教授の善一郎は政治的信条により大学内で孤立した。その結果、教科書検定委員という権威まで失う羽目となった。そのことに挫折を感じた善一郎は無意識のうちに電車のなかで女生徒に痴漢をしてしまう。そのことでさらに打ちのめされるのだ。団欒する家族。父を心配する長男。母が持ってきた紅茶。それを飲み苦しみ出す父と母と長男と長女。塾から帰ってきた敬二が彼らを発見して事なきを得たが、打ちのめされた父は自殺を決意したのだ。それもただ死ぬだけではない。家族とともに心中しようとしたのである。出と愛子は父から殺されかけた。敬二は父から見放されたのだ。その結果、出は学生運動に手を出した末に狂ってしまい、愛子は家から出られず、敬二も善一郎とは違う道を歩き出す。そこには大学教授のハイソな家庭というものはない。それぞれがバラバラであり、父の収入というものによってどうにか形作られている集団でしかない。一時的な『ゲーム』を演じている家族はまさに金で買われたと言えるだろう。まさに売春宿ではないか。

「私は健康な女よ。馬鹿にすんでねぇ!」
めぐみは腹を立てて外を飛び出していく。それを敬二が追いかけていくがどうもおかしい。目が据わっているのである。父と母はベッドの中で新たな家族の物語を妄想するために寝室へと下がっていく。舞台に残された愛子と出は愛を渇望する。その果てにお互いを求め合うのだ。売春宿の中で新たな愛を見つけたのだ。翌朝それを知った父と母は絶望する。父と母の理解を超えたのだ。
「人を殺してきた!」
 そういう敬二はめぐみを殺してきたという。
「一緒に行こう!」
 出と愛子と敬二は手を取り合って外の世界に飛び出していくのである。

 これは『停滞』の物語である。そして『断絶』の物語である。装置の少ない簡素な舞台上で繰り広げられたこの作品は観客の中で作られるイメージをどんどんと刷新していく。風俗店かと思いきや、ある大学教授の家の中。お客と従業員と思いきや、一つの家族。めまぐるしく変わっていくイメージに頭の中はかき乱される。何が本当なのか、何が嘘なのか。それすら分からない。そう思う第一の理由は時間の流れであろう。柱時計から現れる出は時を越えているように思える。過去からの使者といえようか。そして倒された柱時計は出の棺桶のようであり、時の棺桶のようでもある。停滞した『時』そのもののようである。その中に囚われている彼らの生活は、観客の時間の流れとはかけ離れている場所で展開しているのである。ラストで振り子のように動き出すピンクの照明は、まさに動き出した『時』を見るようだ。舞台装置の使い方が見事だと言えるだろう。

 これは『敗者』の物語である。そして『抑圧』の物語である。善一郎は信念を持っている。その信念は名が示すように彼の善良さから発しているものである。その信念を打ち砕かれたことにより、自身の弱さが彼自身を苛むのである。中嶋がキャスティングされているのは、やはり絶妙なのだ。頑固そうではあるけれど、力強く見えない風貌が善一郎という役にあっているのだ。だからこそ、大学教授の給金という唯一の収入源で家族を喰わせてやっているという傲慢さが漂っているように見える。まさに『売春宿』である。そしてその金の力の及ばないめぐみを門脇麦が演じる。彼女は「常識の足りていない」ことを自認している。だから善一郎の家族の内部に入り込む。そして彼女の持つ健全で健康的な色気が善一郎たちの家族が『売春宿』であることを際立たせているのである。

 では、めぐみは『勝者』なのだろうか。いやそうとも言えない。彼女は東北の田舎から出てきた存在である。そして敬二と結婚して大学教授の義理の娘となることを望んでいる。それを知ったら同僚がどう思うのだろうと期待している。彼女自身もより高みに登りたいという信念があるのである。田舎者であるという抑圧があるのだ。

 これは『反逆』の物語である。そして『解放』の物語である。裏切られた出と愛子は父に裏切られている。敬二は父に見捨てられている。彼らは親子という枠組みの中、父という役割の男に抑圧されているのだ。出は父への愛があったからこそ裏切りを許すことができない。そして母への愛情が残っているからこそ外に出ることができない。『狂う』という

方法でしか『反逆』することができないのである。出は狂人である。その言葉のわからなさに翻弄されていた。だが父に裏切られたことだと分かってきたとき、それは強がりのようにも取ることができる。それは愛されたいからなのである。舞台上であれだけ暴れ回っていた出の狂態がラストではとても静かなものへと変わっていく。福士誠治はそれを見事に演じていたと言えるのではないだろうか。

 これは『昔』の物語である。そして『今』の物語である。1960年に岸信介によって結ばれた日米安全保障条約に関する闘争があった。その日米安全保障条約の10年という期限が切れようという1969年にこの戯曲は発表された。
「日本はアメリカ軍と共に戦うべきだ、いやアメリカ軍と距離を置くべきだ。」
 そのような考えが学生たちに、世の中に蔓延していた時代である。では、今はどんな時代だろうというと、
「日本はアメリカ軍と共に戦うべきだ、いやアメリカ軍と距離を置くべきだ。」
 集団的自衛権を巡り全く同じようなものが世の中に蔓延している時代である。岸信介とその孫である安倍晋三によって引き起こされた空気感が重たく漂っているのである。熊林は戯曲の持っている1969年という空気感をうまく再現したと言えるだろう。そしてその空気感に抑圧されている人々というものを描いていると言えるだろう。

 それにしても彼らは誰に『負けた』のだろう。『抑圧』されているのだろう。それが目に見えないのである。明確な敵というものが存在していない。空気のようなのだ。もしかすると存在していないのかもしれない。もしかすると空想の産物なのかもしれない。その『かもしれないもの』に翻弄されているだけなのかもしれないのだ。だが確実にそのようなものに誰もが負け続け、抑圧され続けなければならないのである。そのような状況はまさに『狂おしい』のだ。出のように狂人になってしまいたくもなってくる。そもそも『狂』という文字には『自分の意見に頑なな』という意味がある。今の世の中を見回してみるとtwitterやfacebookなどでは自らの頑なな意見を述べている。その意見は意見を異にする他者に受け入れられない。そして意見を異にする他者の意見を受け入れない。説得もすることもなく、説得されることもなく、意見を共にするもの同士で集まり、意見を異にするものたちを思うがままに攻撃するのである。まさに『狂っている』のだ。出が自分たちの家族を『売春宿だ』と断じるようなものではないか。
「世の中、狂人だらけだなぁ」
 ふとこんなことも思ってしまう。だが誰もが負けたくない、抑圧されたくないから『自分の意見に頑な』なのである。譲れないものがある限り、人は誰でも『かもしれない』ものに負け続け、狂人となりえるわけだ。その意味で私も狂人なのである。だが、私は同時に凡人でもある。いくら『狂おしい』思いが暴発しそうであっても狂態をさらす覚悟ができないのだ。だからこそ凡人の身代わりとなって狂人となる存在が必要なのである。
「舞台上の福士誠治はまさに私の身代わりとなって狂ったのだ。」
 ふとこんなことも思ってしまうのである。

 これは『狂人』の物語である。そして『狂人』になれない『凡人』のための物語でもあるのだ。
(2015年2月14日19:00の回観劇)

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