東京芸術劇場「狂人なおもて往生をとぐ ~昔、僕達は愛した~」

2. 今も、僕達は愛している(箕浦光)

 昔、家族が社会の縮図であることを単純化できた1960年代の話。まず現在と家族の考え方の違いに違和感を抱く。昔の価値にとらわれることを嫌うくせに、実際にはとらわれ、嵌まっていく家族を描く。家族は社会の縮図でもあっただろう。それらは初演のときの社会情勢の中で魅力的に映ったのではないだろうか。しかし後戻りはない。あまりにも今の価値観とかけ離れた時代の芝居を、なぜ再演なのか。果たして観客に耐えられるのであろうか。

 家族についての芝居は沢山あり、別に変わった芝居ではない。家族を描くことはその時代を描くことになる。現在は以前より価値の多様化が許容され、それぞれのつながりが見えにくくなっている。そのため単純化することは難しい。家族という共同体が成り立っているかも怪しい。しかしそのことを含めて、家族とは何かを表現しようとしているなら、単純化された時代の家族の芝居は再演の価値があるのではないかと考えた。時代が変わっても、今も現代と通じる何かを表現できるかだ。それを自分に納得させて、芝居に目を凝らす。本当かどうか。芝居が始まった。

 この芝居の背景にはステロタイプ化された前提がある。確固とした理想としての秩序が尊ばれ、道徳の枠組みを破ることはタブーである。家族は絶対であり、倫理・教育はその基本となるものであると信じられている。芝居はそれをふまえて、役者同士での配役の交換、同じ内容の繰り返し。流れの中での突然の場の転換を繰り返す。家族関係の複雑さの表現として展開し、何層も重ねて行く。家族以外の他者の関わりは、弟の恋人にのみ割り振られている。

 しばらく複雑な進行で意味不明な状態が続く。同じ芝居の中の台詞のみが人物や場の内容を教えてくれる。役者は6人。父、母、兄、姉、弟と弟の恋人。舞台の場が娼家なのか、家なのか。どちらにも転換できる場と役者の台詞。変幻自在で混乱させられる。しかし徐々に悩みを持った家族の物語だと種明かしがされる。父は娼家の客であり、教育者であり、家そのものであろうとする。母は娼家の経営者であり、家族から少し疎外された母である。兄は家族を混乱させ、家族とは何かを問いただす狂人。姉は娼婦であり、家を実際に陰でまとめようとする柱である。弟は全く目立たない独りボッチの客であり、他の家族に被害感をもっている。そして弟には恋人がいる。

 このカメレオン的展開の配役や場の転換は何のためか少しずつ判っていく。娼家は家族の複雑さへの導入。家族の中での葛藤のやりとり。配役のなかで弟の恋人だけは家族と社会をつなぐ役割を持ち、家族とは違う視点を現そうとしている。今風に深く考えずに損得で行動する恋人。他の登場人物との行動のすれ違いは避けられない。単なる悩める家族からみれば異物としてある。家族は強固である。そして家族の餌食になる。

 全体に兄の狂気が場の転換のキーとして働いている。狂気は現実と虚構を越境する装置として使われている。兄の行動がその場を娼家であったり、家庭であったりと変えていく。頭を殴られた結果という。まず観客は狂気という兄の設定を強制的に受け入れなければならない。しかし現代では、このような狂気は神話の中でしか存在しない。狂気という設定はこの芝居が作られた時代にはリアリティがあったかもしれないが、現在の状況に置いては不自然にうつる。過去の人々が共同幻想として思い描くロマンとしての狂気は、今は存在しなくなっている。狂気はより具体的な事件としてしか現れなくなっている。狂気を単に精神疾患と置き換えてしまうと面白さがなくなる。そのことが舞台設定のスタイルの古さより、芝居の時代の移り変わりを強く感じさせてしまう。

 ここでは観客が芝居の狂気を受け入れることができるかがポイントとなる。芝居の流れは狂気を押さえるための家族の様々な行動としてある。家を維持していくことの重要性。それが家族の連帯として現される。狂気をふまえた上で、構成の巧みさは、観ているものに緊張感を与え、観客は自分がどの状況に置かれているのかわからなくなるという、不思議な体験をする。それはこの芝居の奥行きを広げ、芝居の展開に好奇心を抱きつづける原動力となる。

 進行に伴い、本当は兄が主役ではないのがわかってくる。兄の狂気のゆえに、連帯を深めようとする家族。実際には兄ではなく、父に混乱させられ、家族は自分達の位置を見失なっていく。古い価値を新しい手法と勘違いしている父が理想とせざるを得ない家族を体現し、それに家族が混乱させられていくのが明らかになる。父は秩序そのものであるが、秩序を守れない張本人でもある。秩序があるということは、絶対的正義が存在することになる。そこから外れると人は悩み困惑する。家族は秘密めいた悪徳を共有しながら、表向きは平静さを保つことを強いられる。見せかけは皆善人である必要性がある。しかし現実の世界は違う。一番の苦悩は父の思いと家族の現実が一致しないことである。家族は同じ価値観を共有させられ、振り回されることになる。

 社会をしばる秩序が、家族をしばる秩序であり家族自体を呪縛し、家族で完結させてしまうしかなく、行き止まりになってしまう。芝居では広がりを持たすため弟の恋人を媒介としてデフォルメして凌ごうとしている。そこを肯定的に受け止めるか違和感を持つかが、現代の問題として受け止められるかのカギになるように思える。しかし彼女は単純に巻き込まれてしまう。家族の価値観が新しいものも封じ込める。それが現実だと。家族の葛藤は、混乱の度合いが極限まで行き、破滅に向かって、なだれ込む。

 複雑そうに見えて単純。暗い芝居だが、その構成の複雑さ故に、観ているものに、重ねて異なる印象を植え付ける。構成の妙がこの芝居を存立させている。役者は駒にならないように、演じる必要がある。それが最低必要条件となる。役者はある程度の緊張感と脈絡を提示できれば成功と言えるのではないか。あとは演出家に任せるしかない。しかし演出家は狂気の処理、弟の恋人の立ち位置、中途半端のままに観客に投げてしまう。具体的に言えば、狂気の表現を整理して、弟の恋人を、他の何かにつなぐ役割に徹底すれば、現在の家族に通用するような表現ができたのではないかと、もったいなく感じたのだが。

 枠組みがはっきりしていた時代を振り返ることで、多様的な現代を考えてみろと言うことができる。しかし再演をノスタルジーでない芝居として観ないようにすることは難しい。今の社会の秩序は理想でなく具体的なものとして現れる。解決するのは思考でなくスキルとなってきている。理想を生活に落とし込むのではなく、生活は身の回りの積み重ねである。家族の形も変わる。連帯の形も変わる。そして秩序は時代に即して変化する。現代は成熟してきているのかもしれない。この芝居が作られた時代には、この芝居は社会に対する大きな問題として注目を浴びたと思われるが、今は違う。

 様々なものがバイキングのように提示された芝居。全てを消化することはできないが、家族であることの複雑さは上手く整理されていたと思える。秩序と言った幻想の正しさは、現実の前に崩壊する。逆説的に人が皆善人である必要性がないことが、このような形で提示される。この芝居は何が変わらないかを確かめよと囁く。舞台のスタイル。いや家族であったという事実。そう家族。変わらないのは「昔、僕達は愛した」という家族の事実だと考える。しかしその事実は重い。家族の複雑さ、それは形が変わっても、今の家族の中にもあると信じさせる連帯の構図。家族としての葛藤、思いやり、裏切り、それが家族ではないか。家族は断ち切れるものではない。嫌でも愛すことが必要であり強要される。それは「昔、僕達は愛した」ことであり、これからも続くことである。すなわち「今も、僕達は愛している」とはっきりと言えること。家族に希望をつなぐこと。いつまでも続くこととしての家族。それが再演の意義ではないかと考えた。

 観終わって、芝居には様々な見方を要求されるのだと思った。観て面白いこと。しかし面白さも色々あるのだと考えさせられる。再演と聞くと、時にスタイルの古さに惑わされて失望も多い。あまり良い経験がない。今回は少し身構えて芝居を観た。多分そうでもしなければ駄目だろうという感覚があった。芝居も過去のものを参考にして新しいものを生み出す。人は経験し、社会の中で育っていく。いつもは目の前のことで一杯になる。目の前の現実は強い。しかし実際に目の前で起こった物だけが、本当の事実ではない。先人の経験はこれからの未来を照らす指標となる。過去を尊重することで、未来がある。この芝居はこれに該当するのか、今はわからない。あまり気楽に観ることができる芝居ではなかった。しかし色々考えさせられたことは確かだ。そういう意味で印象に残る観劇であった。
(2015年2月15日13:00の回観劇)

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