東京芸術劇場「狂人なおもて往生をとぐ ~昔、僕達は愛した~」

5.「往生」したのは何だろう。(宮武葉子)

娼婦の館にたむろする若者 出(いずる)は、娼婦やそこに出入りする客たちに怒りやいらだちをぶつけ、挑発する。彼らは出をうまくあしらっているかに見えるが、実は、彼らはみな家族だということが次第に明らかに…。精神を病んだ出は妄想の世界に住んでおり、その妄想に家族はつきあっているのだった。なぜ、彼は狂気に追いやられたのか。家族が抱える秘密とは…?

 「狂人なおもて往生をとぐ~昔、僕達は愛した~」(作:清水邦夫、演出:熊林弘高)のチラシに書かれているあらすじである。いわば、見る前から明かされている部分だ。
 ということは、あれだ。この公演はミステリーだ。
①青年の狂気の原因
②①を生んだ家族の秘密
の2つが解き明かされる話なんだろう。①が②によって生じたからこそ、家族は主人公の妄想に付き合って「娼館ごっこ」をしているに違いない。表現形式はどうあれ、見せられるのは謎解き話だ。
 よく考えたら、これまでに見た唯一の清水邦夫作品「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」も、そう簡単な内容ではなかった。油断してはならなかったのだが、うっかりしていた。

 さて、舞台である。
 幕はなく、斜めに張り出した舞台が露出している。上から大きな丸いペンダントライトが下がり、下手の方に柱時計。上手に大きな箱(大人2人が座れるぐらい)、その周りに造花のポピー。靴が3カ所に置かれている。男性用革靴、パンプス、サンダルとスニーカーが一足ずつ。舞台上にあまり物を置かないというのは、もとの戯曲の指示のようだ。登場人物が穴から出入りするという初演の演出は、会場の都合か、今回は採用されていなかった。
 役者たちが登場し、靴を履く。芝居が始まる。「公演」と「ごっこ遊び」の両方である。

 主人公の出は柱時計の中から登場する。閉じ込められていたのか、と一瞬思う。囚人をたたせたまま眠らせない拷問部屋みたいだと、チラッと思った。この柱時計は、戯曲のト書きには登場しない。後の場面で、出が引き倒された柱時計の中に横たわるが、その時、時計は寝台のようにも棺桶のようにも見えた。熊林演出はすっきりと美しい一方で、このようにかすかな禍々しさを感じさせるところが魅力的である。

 彼は攻撃的でよく喋る。ずっとイライラしている。狂気というが、彼の言葉はそれほど支離滅裂でなく、ときに本当のことも混ざる。といって正確ではなく、微妙に間違っている。多分、このズレが周囲の人間を苛立たせ、困惑させ、苦しめているのだろうと思う。まるで意味をなさない言葉なら、聞き流すこともできるだろうに。
 父親の善一郎は軽口を叩きつつ、事態の改善を半ば諦め、半ば期待しているように見える。母親のはなは無理に息子に付き合いつつ、彼を心から案じている。姉の愛子は出に協力的で、弟の敬二は反発している。といっても、すぐに負けてしまう辺りがふがいないが、兄弟には10の年の差があると設定表にあるので、対等なケンカは出来ないのかもしれない。それにこの時代、まだ日本の長男は特別扱いだったのかもしれないし。
 みんな、特にはなが、腫れ物に触るように出を扱うのをもどかしく思う。が、これはおそらく彼の狂気に家族全員が関わっているせいだろうと納得する。何度も出てくる「ルール」という語の中身も、おいおい明らかになるだろうと思う。

 やがて敬二の婚約者めぐみが現れる。よし謎解きの始まりだ。外部の人間が来たからには、密事が暴かれるに違いない。偉そうな出の言動にいささか疲れていたので、ここで気を取り直す。
 めぐみは一家の人たちとはだいぶ異なる。エネルギッシュで単純で、自分のいいたいことだけをいう感じである。遠慮なく秘密のベールを剥ぎそうだ。期待が高まる。

 すると、一同は「敬二とめぐみの未来予想」と題して、かつてこの家で起きたことをごっこで再現しはじめる。予想外の展開ではあったが、これで過去のいきさつが明かされるのだろうと思った…けれども、こちらの予想に反して、それは出の物語ではなかった。善一郎の話だった。しかもこの話、それっぽく見えていささか奇妙である。
 大学教授である善一郎は、終戦から僅か10年で復活してきた道徳教育に反対を表明し、職場内で孤立した。結果、学部長に落選し、教科書の編集委員まで断られる。特に後者は大きなダメージとなり、彼はストレスから痴漢行為を働いて捕らえられる。これが善一郎の古傷である。ここまではいい。
 その後、善一郎は紅茶に毒を入れるという手段で一家心中を図り、失敗するのだが、この時、敬二だけが不在なのである。

 待て待て、家族が一人欠けた状態で心中するだろうか。仮にも親が一家心中を企てるのであれば、全員揃うまで待たないか? 百歩譲って、善一郎がまともな精神状態じゃなかったとしても、末っ子を見おとすというのはあんまりではないか、父親として。敬二はこの時学習塾に行っていたという。おおよその帰宅時間は分かったはずだし、そんなには遅くもならなかっただろう(なんといっても昭和の話だし、子どもは今のように遅くまで外にはいなかった、と思う)。あとちょっと、待ってやろうよ。実際、敬二は自分だけ蚊帳の外だったことをずっと気にし続けているのだ。
 だが善一郎は敬二の帰宅を待たなかった。彼を除く4人は毒を飲んだが、結局誰も死ななかった。毒の後遺症すら残らなかった。それから10年ほど時が経っている。善一郎はその後も大学教授であり続けたようだし、職場内トラブル→痴漢という「事件」がどれほどの重みをもつものなのか、どの程度深刻だったのかが今ひとつ分からない。

 事件の何が、いったい誰の傷になっているのだろう?
 子殺し未遂のために、父親は長男長女に頭が上がらない?
 なんで次男だけ仲間はずれにされたのだろう?
 さらにいえば、結局失敗に終わる心中を思い立つために、理由が2つも必要だったのだろうか。痴漢云々のエピソードはなんのために挿入されているのだろう?
 というツッコミが、頭の中でぐるぐる回る。

 さらに、家族のやりとりの間で、出が精神疾患ではなく、脳機能の障害を持つこと、それが学生運動に起因するものであることがさりげなく明らかになる。「ポリ公の棍棒で頭を殴られて狂うなんて真平だ」敬二はそう叫ぶのだ。
 …つまり、家族の秘密と、出の狂気は関係がないということだ。
 ええっ、そうなの?
 じゃあ秘密って、ゲームのルールって一体何?
 この人たちは一体何をしているのだろう?
 すっかり話を見失い、困惑する。

 立腹しためぐみは帰ってしまい、敬二は後を追う。出と愛子は抱き合い、それを目撃したはなは恐れおののくものの、何をすることも出来ない。善一郎は目をそらす。曰く「眠っていてよかった」
 やがて戻って来た敬二はめぐみ殺しをほのめかし、3人の子どもたちは親を置いて出て行く。
 残された善一郎は、普段通り新聞を読む。はなは子どもたちにも夫にも納得していないが、やはり自分からは動かない。
 そうして芝居の幕は下りてしまうのだった。

 ここまで来ると、狂人が誰なのかが分からなくなる。子どもたちか? 親の方か?

 煙に巻かれたような心持ちである。
 それでいいのかもしれないし、単に受け手の理解力に問題があるだけなのかもしれない。作品が書かれた45年前の日本社会と深くリンクしているという説もあったが、戯曲を読んでもその辺りのことは全然理解できなかった。

 唯一分かったのは、愛子が勝ったということだけだ。彼女は見事、欲しいものを手に入れた。
 彼女は初めから娼婦の台詞に愛の言葉を紛れ込ませ、途中で周りの無責任を責めて激し、最後には出を抱きしめる。普通ならタブーとして退けられるだろう思いを、彼の病に乗じて叶えたように見えた。都合のよいことに、出は彼女を家族と認識しないのみならず、娼婦であると考えている。恋愛方向に話を持って行きやすいシチュエーションである。愛子がごっこに協力的なのは、それが彼女にとって都合がいいからだろう。変わってしまった出を治そう、元に戻そうという家族のベクトルから、彼女一人が外れている理由は明らかだ。
 あるいは、狂人とは本当は出ではなく、弟を愛した姉の方を指すのだろうか。

 もとの戯曲で、愛子は出の4つ下の妹という設定である。それが、今回の舞台では姉に変更されている。恋愛あるいは性関係において、問題なのは年齢でないということは承知しているが、愛子が「妹」から「姉」に変わったことによって、「女が事態をコントロールしている」感がより強くなったという印象を受けた。
「近親相姦」が古今東西描かれ続けている、危うい魅力を持ったモチーフであることは確かだが、現実社会においては「ロマンス」よりむしろ「性的虐待」に近い位置にあるもののように思われる。「兄と妹」よりも「姉と弟」の方がまだしも受け入れやすいと感じたのは、力ずく感が多少なりと薄まるからだろう。

 彼女は出を手に入れた。
 愛子が弟たちとともに出て行った後で響いたクラッシュ音はもとの戯曲にはないものだが、交通事故、終わり、死、破滅といったマイナスの事態を連想させる。ただ、仮にそうであったとしても、おそらく愛子の満足感は損なわれないだろうと思う。むしろ、野望は完成したともいえる。出はもはや元の姿には戻らないし、他の女に盗られることもないのだ。
 そう考えると、否、初めから最後まで、敬二という人物はまことに気の毒である。

 往生したのは誰だろう?
 宗教的にはともかく、救われるという意味で、成仏したのは愛子の恋愛だろう。逆に、立ち往生しているのは善一郎とはなだ。彼らは子どもたちより「まっとう」で、追い詰められて一時的に常軌を逸することはあっても、完全に道を踏み外すことはなかった。普通はそうだと思うけどね。かくして、両親はなす術もなく残される。が、彼らは困惑しつつ、しぶとくその場で生き続けるだろうとも思う。

 緒川たまきの愛子は、おとなしやかに見えて不可思議で、色気はあるが下品でなく、はまり役であると思った。中嶋しゅうの善一郎は、現在の道化ぶりが似合っていてよかったが、それだけに、追い詰められて心中を考えるようには正直あまり見えなかった。鷲尾真知子のはなは、いかにも常識的で無力な、でもいざとなったら何をするか分からない怖さをも秘めた日本の母らしい。出役の福士誠治は怒り、敬二役の葉山奨之は鬱屈、めぐみ役の門脇麦は勢いの表現が巧みであると感じた。

 参考 『清水邦夫全仕事1958~1980 上』(河出書房新社1992)
(2015年2月20日19:00の回観劇)

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