東京芸術劇場「狂人なおもて往生をとぐ ~昔、僕達は愛した~」

4.いわんや「へなちょこリベラル」をや -僕達は、気をつけて- (高橋英之)

 ぼくは時々、世界中の演劇という演劇は、みんな父親という男性たちに何らかの悪意があるのじゃないかと思うことがある。特に小劇場と呼ばれるような演劇なんかがそうで、どういうわけか、必ず「へなちょこパパ」が出てくるのだ。もちろんぼくは、父性の喪失みたいなテーマがダメだというつもりはないし、出てくる父親たちに同情するわけでもない。ただ、ときに、その批難のメッセージは辛口すぎて、まるでそうした作品を観てる自分自身が責められているような気分になっちゃうほどだ。でも、最近、東京芸術劇場で観た『狂人なおもて往生をとぐ』は、よかったよ。作者の清水邦夫は、昭和元禄阿波踊りを踊ってただけじゃなかったんだ[注1]。

 ラストシーンで思ったのは、「3人の若者たちは、いったいどこに行ったのだろう?」ってこと。1969年の初演当時だったら、それは、狂気を称揚して[注2]、へなちょこリベラルの前世代たちを置き去りにしての、華麗なる革命への旅立ちだったのかもしれない。講堂のバリケードが突破されようが、入試が中止になろうが[注3]、行く先など、まだまだいくらでもあったんだしね。沖縄、熊本、手近なところで新宿西口、そしてもちろん、山荘もね[注4]。彼らの狂気は、まだ“未来”がある時代に支えられていたってわけさ[注5]。

 でも、2015年、演出家・熊林弘高は、革命への興奮冷めやらぬこの時代色の強い作品を、新しい問いかけとして観客に突き付けてきた。単にへなちょこたちのふてぶてしさを痛烈に批判して、溜飲を下げる物語じゃぁない。ましてや、こぶしを振り上げて革命を叫んだ者たちへの賛歌でもない。いわば、気をつけて…っていう注意喚起の問い。

 初演は、傾斜舞台に5つの穴が開いているだけという、斬新な設定であったらしい。舞台美術を担当した安部真知[注6]には、第4回紀伊国屋演劇賞個人賞が贈られているくらいだ。でも、今回の公演の舞台美術(二村周作)は、全く異なる発想での舞台を構成してみせてきたね。非対象の三角形の舞台、下手に大きな柱時計、舞台中央には、つりさげられた大きな球形の電燈。

 舞台は、父親、母親、長男、長女、次男の5人家族による、二重のごっこ遊びで始まる。家族全員が、売春宿のシーンを演じながら、その売春宿の登場人物たちが、あえてまた家族のようにふるまうごっこ。柱時計の中から登場した長男が、この不思議なごっこ世界の原因みたい。長男(福士誠治)は、「7回目は6回目の次だな」と奇妙な言葉を吐く。長女(緒川たまき)も、「2,000人とは、1,999人の次」と調子を合わせ、この狂気の世界に溶け込んでいる。母親(鷲尾真知子)は、「17回目の次は、18回」と流れに乗ろうとはしてるんだけど、ちょっとまだ躊躇がある感じだ。不思議でもなんでもない“真実”のセリフとは相容れないような、異様な“現実”世界が舞台の上に拡がる。

 1969年の公演で、俳優座が準備したパンフレットには、人類学者・山口昌男[注7]が、次のような言葉を寄せている。「<狂気>は人を解放し、意味を喪失した世界を再統合する力を与える」ってね。中心ではなく、周縁にこそ改革の力があふれているという言説で注目を浴びた彼のその言葉は、観客に狂気をポジティブに捉えさせるための補助線だったんじゃないかな。でも、ひょっとすると、当時の観客たちには、そんな補助線などいらないくらいに、狂気はすでに真実に近づくための回路だったのかもしれない。

 暗転の後、<狂気>を排出した柱時計は、横に倒されている。そこに、次男のフィアンセが闖入者として登場する。フィアンセを演じた門脇麦は、その能天気ぶりが好演だった。ごっこの“常識”を知らない彼女のあたりまえの発言に、観客までもが危ない気分にさせられる。極めて普通なのにトリックスターという存在感を、門脇麦はしっかりと出してくれていたと思う。もっとも、スカートの中から見える赤いパンツがよかっただけかも、なんだけど[注8]…そんな本当のことをいうと、また、「舌かんで死んじゃいたいわ」とか言われちゃうね[注9]。

 横倒しの柱時計の中から、狂気の源泉としての長男が登場し、その支持者としての長女が、家族ごっこの中から、かつてこの家族に起こった事件を再現しようとする。大学教授の父親が、失意の中で帰宅する。心配そうに見つめる母親にも、いたわるような長男の声かけにも答えず、父親は、一家心中を試みた。長女が苦しみ、母親が倒れ、…やがて、塾から帰宅した次男が4人を発見して、家族は全員命を取りとめる。正気であった長男が描かれることで、この事件そのものが、当時大学生であった長男が狂うよりも昔の話だったことがわかる。舞台では、天井からの大きな球形の電燈が、激しく動き出し、家族たちがそれを止めようとした瞬間に、衝撃的な光と音で、舞台が凍り付いて、暗転。

 作品の中には、この一家心中未遂事件の再現だけではなくて、何度も、親が子供を殺してしまう、見捨てるという話が登場する。それは、かつて対戦国からも批難され、戦前の日本に存在していた「間引き」や「身売り」。戦後、民主主義国家となった日本に、もはや存在しないハズの子殺し[注10]。それが、一家心中として再現されることで、何も変わってない旧世代の深層にしみついてしまった古い体質が表現されている。と、そのように、1969年の観客たちは、自動的に感じたのかもしれない。しかし、今回の上演では、むしろ、能天気なフィアンセの存在を通じて、旧世代だけではなくて、もはや舞台の上の全てが、“ごっこ”に過ぎないことだけが、観客の目には映ったんじゃないかな。

 休憩をはさんでの、最終幕。舞台の上には、もはや柱時計はなくて、天井からの大きな電燈の下に、長女が作り続けた造花が散らばっている。それは、まるで、狂気がすべてをこじ開けてしまったあとの世界のようだ。父親の実像も、こじ開けられる。教育学を専門とする大学教授は、“事実”として道徳教育の方針に反対し[注11]、学部長選で落選し、教科書の編集委員からも外されたこと。そのショックが、一家心中未遂につながったらしいこと。しかし、狂気がこじ開けた最も重要なことは、そのような戦後のリベラル的な態度を見せていた父親が、実のところは、古臭い旧弊を愛することから逃れられない人間だったという“真実”。これを、的確に指摘するセリフがあったよ。

 長女「でも、日本のパパとママは、ことの外、親孝行という甘い囁きが好き」

 つまり、この父親は、「へなちょこリベラル」でしかなかったってこと。1969年当時の戦後民主主義が指し示す「正しい」言葉は弄するんだけど、その実態は、秩序と権威を愛し、子殺しを平気で行う、背骨のない存在だったと。このことは、父親がよく歌っていた歌の歌詞を、長男と長女が、思い出すシーンに如実に立ち上がる。

 長男「きのう召されたタコ八が、弾丸にあたって名誉の戦士、タコの遺骨はいつ帰る」
 長女「タコの遺骨はいつ帰る…」
 長男「骨がないので帰らない」
 長女「骨がないので帰らない」

 そして、長男と長女は思い知る。自分たちの父親には、背骨などないことを。おそらく、1969年の観客たちは、その指摘に快哉を叫んだのではないかな。でもね、2015年の観客は、この歌のすぐあとの歌詞に、父親(中嶋しゅう)が、絶妙の苦笑いで続いていたことを、見逃さなかったにちがいないんだ。

 父親「タコの親たちゃかわいそう」

背骨がないのは、なにも父親だけじゃぁない。その息子も娘も、また背骨などなかった。狂気が暴いたさらなる“真実”。

 舞台の上は、混沌の度合を増してくる。長男と長女は、禁断の抱擁と接吻に溶けてゆく。次男は、タコの再生産にしかならない女と見限ったフィアンセを殺してきたという。で、その3人が、奇妙な平静を保とうとする父親と母親を見捨てて、旅立って、いよいよラストシーン。天井からの電燈が揺れる。母親は部屋を片付け始める。こんなときに、いったいなにを片付けるんだって話なんだけど、電燈の揺れは、さらに激しくなり、ピンク色に点滅している。父親は、ことさら平然と新聞を読んでいる。天井の電燈は、もはや、狂ったように、暴れ出す。まるで、その柱時計からあふれ出た狂気が、ついに空間全部を覆い尽くすかのようだった。

 1969年ってのは「日常性」に対する嫌悪感があふれ。「非日常」こそが、新しいなにものかを作り出すためのカギなのだと、そう信じられた時代だったと思う。このラストシーンは、おそらくは、一種の希望の雰囲気をまとっていたのかもしれない。でも、2015年の観客たちは、すでに知っているよね。そうした狂気が、ただのチャイルディッシュな、お祭り騒ぎでしかなったことを。だいたい、「関係の絶対性」[注12]などといって旧世代との決裂の旗を掲げた人間は、知らない間に川久保玲のおしゃれな服を身にまとって、「よせやい」と言って笑っていたんだしね。

 結局、去る者たちも、残る者たちも、“ごっこ”遊びにまみれているだけだった。そして、それは、清水邦夫があらかじめ作品の中に埋め込んでいた構造だというところが、すごいな。「個を確立せよ、背骨のある人間たれ」などと叫んだところで、所詮は、骨などないタコ。「手近なところからぶっ壊せ!」とこぶしを振り上げていた狂気ごっこのタコ。みんな、くるくると回っていただけなんだ。僕達が気をつけないといけないこの真実を、しっかりと抽出することに、今回の上演は成功していたと思う。

 こぶしを振り上げて山荘にこもったり殺し合いをはじめじちゃったりしたタコたちもが、この作品の題名の通り往生を遂げたのだとすれば、もちろん、荒れまどう狂気の中で、ありもしない矜持だけをたよりに静に朽ち果てていく「へなちょこリベラル」も、みごと往生すべきだと思うよ[注13]。少なくとも、2015年のへなちょこリベラルとしては、先人として、丸山眞男が天国でひっぱたかれたりしないで[注14]、立派に往生していることを、祈るのみだね。
(2015年2月21日14:00の回観劇)

【注】
[注1]“ごっこ”: せっかくキャンセル待ちして勝ち取った大劇評家・扇田昭彦氏が講師の回でもあり、制限字数内で、正統派な劇評で…と思って書き始めたのですが、作品が“ごっこ”ということもあり、この原稿自体も“ごっこ”で追いかけさせてもらうことにしました。これまで自由なスタイルを許してもらったワンダーランドの、最後の劇評セミナーで、もう1回だけ“遊ばせて”下さい。本作品初演の1969年に『中央公論』5月号に掲載されて、ヘルメットかぶったり、ゲバ棒持ったりすることはできなかった「へなちょこ」たちにエールを送ってくれた庄司薫の名作『赤頭巾ちゃん気をつけて』をベースにした“ごっこ”遊び。ちなみに、「昭和元禄阿波踊り」というのは、小説の主人公の友人が、当時流行していたアングラ的なものに対する嫌悪感を吐露する表現として使っていたもの。

[注2]狂気の称揚: 日本には、古くから、「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」(『閑吟集』)のような詩的な高揚を誘う言葉もあった。芥川龍之介の『河童』など、多くの文学者も狂気や狂人をテーマとして扱ってきた。そういう下地の上に、人類学者や民俗学者たちが掘り起こしてきた、狂気や狂人の来歴は、狂気にどこかポジティブな雰囲気をまとわせ、「変わろう」とする時代と共鳴させる動きがあった。大江健三郎が『われら狂気の生き延びる道を教えよ』(1969年)は、まさに正気と狂気のあいまいさを伝える書だったのだろう。一方で、同時期には、もっと冷静に、狂気がいかに知の対象となり管理されていったかを俯瞰した分析もあった。例えば、ミッシェル・フーコーの『狂気の歴史』(原著1961年/邦訳1975年)のような論考の登場も忘れることができない。いずれにしても、本作品の初演の頃は、狂気というものに注目が集まっていた時代であった。

[注3]講堂、入試の中止: 1960年代の政治の季節の中で、ひとつのクライマックスとなったのが1969年1月の東大安田講堂の攻防戦。講堂を占拠する全共闘の学生たちに対して、大学当局の要請で機動隊が突入。安田講堂が催涙ガス弾と放水に包まれ、学生たちが投石や火炎瓶で応戦するテレビ中継が、長く人びとの記憶に刻まれた。東京大学はこの年の入試を中止して、大きな話題になった。後年、この入試中止は、佐藤首相が政権アドバイザーとして集めた学者グループが、大学紛争に無関心な一般社会の耳目を集めて、早期事態収拾を図るために練り上げた政治戦略であったことが明らかになっている。そして、その中心人物の一人が、劇作家でもあった山崎正和・阪大教授であったというのは、非常に興味深い。[参考:毎日新聞社編『1968年に日本と世界で起こったこと』(2009年/毎日新聞社)]

[注4]沖縄、熊本、新宿西口、山荘:1969年3月/佐藤首相が「核抜き、本土並み」での沖縄返還の方針を表明(1972年に返還)。1969年6月/水俣病訴訟提訴。1969年5月/新宿西口の地下広場で毎週土曜日開催されていた「フォークゲリラ」に5~10千人が集まる中、警視庁が道路交通法により集会を禁止。1972年2月/あさま山荘事件。[参考:前出『1968年に日本と世界で起こったこと』ほか]

[注5]“未来”がある時代: まず、1969年アポロ11号月面着陸や1970年大阪万博のような、わかりやすい出来事があった。高校進学率は、戦争直後の30~40%をはるかに超えて、1970年頃には80%を超え、それはやがて「ほぼ全入」とまでいわれるレベルに達する。戦前の比率が10数%でしかなかった恋愛結婚は、ちょうど本作品が初演される1969年頃に約5割を占め、いまや9割に及ぶ。人口や所得の増加だけでなく、世の中には、まさに“未来”を感じさせるものが溢れていた。つまり、反抗や反発のあふれる時代の背景には、大多数の人間たちを動かすもっと大きなトレンドがしっかりと存在していたわけだ。

[注6]安部真知(1926~93): 一般的には小説家として知られる安部公房(1924~93)の妻。安部公房は、ラジオ・テレビ・映画・演劇と、小説以外のメディアも縦横無尽に渡り歩き、独自の演劇集団アベスタジオも立ち上げたが、その際、妻でありすでに舞台美術家であった安部真知の才能を、「夫以上」と評価する声すらあったようだ。[参考:木村陽子『安部公房とはだれか』(2014年/笠間書院)]

[注7]山口昌男(1931~2013): 本作品初演時(1969年3月)東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助教授。アジア・アフリカ・南アメリカなど世界各地でフィールドワークを行い、「中心と周縁の理論」の提唱者として著名。俳優座プログラムに掲載された『狂気の民俗学』では、ローマ神話・スラブ神話・原始宗教・ギリシャ・アフリカそして日本の民俗の中での狂人の占めた位置やイメージを語り、最後に、「<狂気>を街頭に溢れ出すことを許した劇場は、街頭との緊張関係においてその創造性を保証されている」と、本作品の上演を行った俳優座を持ち上げている。

[注8]赤いパンツ: フィアンセ役の門脇麦は、かなり頻繁に、かつ大胆にスカートの中から赤いパンツを見せていた。無論、これは1969年初演当時であれば、ミニスカートで一世風靡したツイッギーを思い起こさせただろうし、なにより、この作品の中でのフィアンセの“常識”のなさを表現している演出であるのは明らかなのだけど、…非常に大胆なサービスぶりでした。共演していた長女役の女優さんが、脚本の指定よりさらに保守的で、背中も見せない「脱がなさぶり」だったの好対照。

[注9]「舌かんで死んじゃいたいわ」: 庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』の中で、主人公の彼女・由美が、不満・抗議を表明するときのお決まりのセリフ。このセリフが出てくると、しばらく絶交状態が続くことになるらしい。

[注10]日本の子殺し: 日本では、戦前まで、間引きという形での産児制限が行われてきた地方が現存していた。その理由は、経済的な理由や、世間体によるもののほか、俗信によるものもあったらしい。旧刑法では、親が子を死なせる犯罪にはほぼ全てに傷害致死罪が適用され、殺人罪が適用されるケースはほとんどなかった。これは子の行動や法律行為を完全に制限できる親権や懲戒権を逆手に取ったもので、子が親の所有物であるという意識が背景にあったものと思われる。[参考:Wikipedia「子殺し」の項/松崎健三(成城大学民俗学研究所所長)論文「堕胎(中絶)・間引きに見る生命観と倫理観‐その民俗文化史的考察‐」(日本常民文化紀要 21, 119-175, 2000-03)]

[注11]道徳教育への反対: 今回の観劇の直後に、真っ先に思いだしたことは、実は、「道徳の教科化」のニュースだった。2013年12月の懇談会報告『今後の道徳教育の改善・充実方策について』、そして、2014年10月の中央教育審議会の答申『道徳に係る教育課程の改善等について』を受けての政治的な動きに対して、東京芸術劇場が、あえて今回の作品で問題提起を挑んだのか…と思った。真偽のほどは分からないが、初演当時は1966年に出された中央教育審議会の答申『後期中等教育の拡充整備について』、なかんずくその<別記>として発表された「期待される人間像」が大きな議論を呼んでいた。作品の中にも、「期待される人間像」に言及するシーンがあるのだし、なにより、父親が教育学者の設定になっていることは、作者・清水邦夫が「道徳教育」をこの作品のひとつの重要なテーマとして考えていたことが明白だ。

[注12]関係の絶対性: 戦後、埴谷雄高(1909~97)・谷川雁(1923~95)と並んで反体制御三家とされ、学生たちの間で必読とされた評論家・吉本隆明(1924~2012)が、著書『マチウ書試論』の中で使った言葉。「秩序に対する反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である」…というような力強い詩的な言葉に、当時の多くの学生たちは、意味もなく奮い立たされたようである。しかし、この言葉が指し示している概念は、正直いって、いまひとよくわからないです。ちなみに、小説家・吉本ばななは、吉本隆明の次女。[参考:吉本隆明『マチウ書試論・転向論』(講談社文芸文庫/初出1954年]

[注13]往生: 浄土真宗の開祖・親鸞が、『歎異抄』の中で唱えた有名な言葉が、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。総本山・西本願寺が徒歩圏内にある場所で育った人間にとっては、小さい頃から何度も叩き込まれたこの奇妙なロジックは、説明せよと言われれば、スラスラとできてしまうのだけど、…いまだに、実に不思議な論理。「背骨のある人間たれ」みたいな言葉につい頷いてしまって、自助自立のかけ声に何の違和感も抱かないような「へなちょこリベラル」には、およそ理解を超えた論法なのだけど、…ま、救って頂けるなら、救って頂きたいです。

[注14]丸山眞男(1914~1996): 1944年、東大助教授のまま二等兵として召集され、朝鮮半島に送られた。このときの軍隊での体験が、「自立した個人」を目指す、リベラル思想を展開するきっかけとなったといわれている。1960年代後半になると逆に、欺瞞に満ちた戦後民主主義の象徴として全共闘の学生などから激しく糾弾され、心労と病気が重なったことで、1971年東大を早期退職。1997年には、当時フリーターだった、赤城智弘が『「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。』(月刊誌『論座』2007年1月号所収)を発表して、再び話題となった。なんにせよ、ひっぱたかれることの多い、御難の「へなちょこリベラル」の象徴的存在。

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