東京芸術劇場「狂人なおもて往生をとぐ ~昔、僕達は愛した~」

8.狂人―その名はハムレット(石井はるか)

 ―この芝居は『ハムレット』のようだ。
 私が今回の公演から得た答えはその一言に尽きる。そしてここに、私は二重の意味を込めている。ひとつは、この作品が『ハムレット』のような「解釈の多様性」を持っているということ。そしてもうひとつは、今回の公演が『ハムレット』を翻案した作品であるように受け取れたことである。

 清水邦夫作品は、どれも書かれた時代背景が映りこんでいる。『狂人なおもて往生をとぐ』に関しても、全共闘運動や新左翼の政治活動など、揺れ動く日本の姿がにじみ出たような作品だ。そのため誰もがこれを「過去の作品」として、当時に思いを馳せながら見てしまうことだろう。それも、当時を見聞きしたこともない若い世代までもが。しかし、40年余り経過した現代の日本でこの作品を上演する場合に、そんな観点で観る必要がどこにあろう。そのような視点で観てしまえば、この作品は途端に時代錯誤のつまらないドラマへと転落してしまうのだ。なぜなら、過去の作品というのは時間が経つほどに当時ならば細かな説明を加えずとも感じ取ることの出来た臨場感が失われるからである。たとえば、主人公が狂人となってしまったきっかけは「警官に殴られた」ことだそうだが、現代ではまず「警官に殴られる」ということ自体が極めて稀だ。しかも、「気が狂ってしまうほど強く」である。実際、この芝居を観て何人がそのような事情をすんなりと受け入れることができるだろう。だからこそ、私たちは現代を翳しながら作品を眺める必要がある。
 戯曲自体がいくら過去のものであっても、私たちは現代を生きている。とくに、観たことも聞いたこともない「当時」を想像しながら観たところで何になるというのか。私たちは私たちの、いまここに生きているからこそ持てる視点で作品を観るべきではないだろうか。

 「『ハムレット』という劇は海綿に似ている」と自身の著書で語ったのはヤン・コットである。彼は『ハムレット』について、「様式化するか、わざと古風に上演するかしない限り、この劇はすぐさまわれわれの時代の問題を吸い込んでしまう」と述べている。これは、見方次第で政治劇にも歴史劇にも心理劇にもなり得るという解釈の多様性を指しているのだが、私はこの作品にも同じものを感じた。
 様々な解釈を可能にするには、作品自体が芯を持っていなければならない。特殊な物語でありながら普遍へとつながる深みや重みがなければ、多様な読みは生まれない。しかし、『狂人なおもて往生をとぐ』はそれらを持っている。私たちが少し視点をずらすだけで、時代錯誤のドラマがたちまちその色を変えるのだ。

 そのような考えのもと、視点を変えて劇を眺めてみると、私の目にはこの芝居がだんだんと『ハムレット』の翻案劇のように見えてきた。

 物語はひとつの家庭内で起こる。その家には父・善一郎と母・はなと3人の子供が住んでいる。子供たちは上から長女・愛子、長男・出、次男・敬二だ。出はある日、警官に殴られたことがきっかけで気が狂ってしまった。自分の家を売春宿と信じ込み、母と姉を売春婦、父と弟をその客だと思い込む。治療のために出の前では「売春宿で家族ごっこをしている」という設定で過ごそうと善一郎が提案し、家族はそれに乗らざるを得なかった。そんな中、敬二が婚約者を家に連れてくる。婚約者が入ってきたことで、危うい状態で保たれていた家族ごっこの均衡は崩れ出す。過去に起こった一家心中未遂が暴かれ、愛子と出は姉弟でありながら身体を重ね、敬二は婚約者を殺す。そして、姉弟三人は大きな音とともに姿を消す。彼らは心中してしまったのかもしれない。残された夫婦は後を追うこともできず、破綻した彼らの家庭からそっと目を背けるのだった。

 公演は、休憩を挟んだ二部構成となっている。舞台上には基本的に物が少なく、中央に大きな振り子のような球体が吊り下げられていた。また、人が入るくらいの大きさの柱時計が置かれている。ただの柱時計ではなく、その扱いは長男の部屋の要素も備えていたように見えた。物や音楽・効果音が少ない分、照明を使って道を表したり部屋の様子を変えたりと、観やすいつくりになっていた。

 芝居を細かく思い返すと、『ハムレット』との共通点が多いことに気がつく。家族の解体、劇中劇、狂気。この作品本来の面白さは、家族ごっこをしているうちに家族が崩壊してしまうという皮肉にあり、それは人の目に喜劇として映るだろう。しかし、熊林演出では言葉の掛け合いの面白さは目に付くものの、物語は重々しく進んでいく。皮肉な悲劇の体裁なのである。
 出は警官に頭を殴られた衝撃で狂ってしまったという。この狂気が「ごっこ遊び」の発端となり、家族は緩やかに崩壊していく。ハムレットは父王の亡霊を見たという。狂ったふりをして宮中を巻き込み、クローディアスとガートルードに劇中劇を見せて事の真相を探ろうとする。しかし、だんだんと狂気は伝染し、自身も狂気の中へと取り込まれていく。狂ったふりだと言いながら、もしかすると彼は父王の亡霊を見た時点で狂ってしまっていたのかもしれない。となれば、やはりハムレットにおいても家族の解体は狂気を発端とするのかもしれない。
 そのような目で今回の芝居を見つめると、出とハムレットが重なってくる。彼らは自分を追い詰めるものを狂気によって炙り出すこととなった。ハムレットは父王殺しの真相を、出は一家心中の真相を。しかし、だんだんと自らの狂気に周りを巻き込みながら取り込まれていく。どちらが本当なのか、嘘なのかが曖昧になっていく。そうして家族全体に狂気が蔓延し、行き着く果ては身の破滅だ。

 しかし、ここで気になるのは二つの物語の結末の相違である。ハムレットのほうは、血のつながりを持つ者はみな死んでしまった。ところが『狂人なおもて…』に出てくる家庭では、両親だけは生き残ってしまう。他国の王子・フォーティンブラスによって新体制へと切り替わっていくだろうデンマーク国に対し、この一家はいまだ闇を抱えた人間が息づいている。善一郎とはなは悲痛な声を上げる。
「わたし達は、自殺には免疫性を持ってしまった。」
日本という国はこれからも変わらずにいまのような状態でずるずると続いていく―そんな呟きが聞こえてきそうなラストであった。

 熊林演出の『狂人なおもて往生をとぐ』を、私はそのような物語として解釈した。このような考えに至ったのも、「いまのこの日本」だからこそだと感じる。時を経て、さまざまな作品と比較しながら観劇することができるようになってから上演されると、私たちは違ったものの見方ができるようになる。作品から時間的に距離が開いたからこそ見えてくることもあるのではないだろうか。いや、むしろそのように過去の情報や他の作品にアクセスし、参照しながら観ることこそ、いまを生きる人々らしい解釈を発見することができるように思えるのだ。当時のことを思い返しながら観た人々にとっては、これは残念な、期待はずれな上演に終わったのかもしれない。しかし、私にとっては「このような考え方も出来る」「このような見方もできる」ということを発見させてくれた貴重な上演だった。そのような意味で、素晴らしい公演であったと言わせていただきたい。

 最後に役者の演技について少々書き残しておきたい。まず、愛子役の緒川たまき。それぞれの役者が振り当てられた役に対してバランスよく演じていたが、姉として接しながらも女性の色香を漂わせて弟の欲望を掻き立て、誘惑するという難しい役どころをうまく自分のものにしていたように思う。それから弟の婚約者役、門脇麦。彼女は平坦になりがちな悲劇的ムードに上手く波をつけ、観客の視線を繋ぎとめるキーパーソンとなっていたように思う。シェイクスピアの物語には道化がつきものだが、彼女はその役割を果たしていた。この作品以外での彼女の活躍を観てみたい。
(2015年2月14日14:00の回観劇)

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