五反田団+演劇計画2007「生きてるものはいないのか」(クロスレビュー)

「生きてるものはいないのか」公演チラシ「演劇計画」は京都芸術センターの演出家発掘・育成プロジェクト。五反田団の前田司郎さんは同プロジェクトの「京都芸術センター舞台芸術賞2004」を受賞(「家が遠い」)して昨夏、オーディションで選抜された17名の俳優たちと1ヵ月のワークショップを経て「ノーバディー」を上演。今年はその延長上に新作「生きてるものはいないのか」を発表しました。
五反田団は結成以来、脱力系とも言われる柔らかな手法で「いま」に即した演劇を実現してきた劇団です。前田さんの戯曲は岸田國士戯曲賞の候補になり、発表した小説は三島由紀夫賞や芥川賞にノミネートされるなど活躍の場を広げています。今回の舞台は、いかに―。(クロスレビュー 第2回 掲載は到着順)

▽藤原央登(劇評ブログ『現在形の批評』主宰)
★★★
ワーク・イン・プログレスながら卓抜した出来だった『ノーバディ』の課題から。
1つ、空間の区画を狭め密度を高めた結果、死体を掻き分けるアクションと共に18人の死体(を演じる俳優)が累々と舞台空間を支配する光景が強調され、オブジェとして十分見るべきものへと仕上がった。
2つ、一人目が死ぬまで30分を要するという長さの問題。以後、全員がただ死ぬ奇異さを際立たせる為の作劇上の前フリ(伏線)ははずせない。時間の壁の代替案が、随分と増えた笑い。典型的なキャラ作りが徹底された日常的人物が綾なすアンサンブルの笑いは、作劇上の前フリの効果に寄与する。
が、過剰な笑いに奉仕する死は不条理でなくギャグだ。死体をいじり、その反応すら笑いへ回収する演出は、「死ぬ演技」が孕んだ演技思想すら霧消した。
とりあえずの生者が「底流する人間」という現代人の諸相を看守させた少女の身勝手な妄想から、普遍的な死に怯えるウェイトレスへの変更は「前衛」から「娯楽」へのそれである。(10月20日 ソワレ)
・『ノーバディ』劇評:http://www.wonderlands.jp/archives/12128/
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujiwara-hisato/

▽木村覚(美学・ダンス批評)
★★★★
原因不明の災いが支配する街で、最後に残される一人を除き全員が次々 死ぬ。上映時間1時間45分のほとんどが彼ら一人一人の死 のドラマに費やされる。死んでゆく者、それを看取る者、最期の大舞台 は例外なく一回限り。しかし、その悲惨は例外なく滑稽である。逝った 後の身じろぎしない、演劇を頑なに拒み続ける死体が、床を次第に覆っ てゆく。その脇で、生きている者は演じることから降りたくても降りら れず、死につつある者も演じることから逃げられない。生きるもドラ マ、死ぬもドラマ。一つ一つの死に様に、爆笑しつつ目頭から涙がにじ む。人間の生とは、かくもいじらしく情けなく、惨めで「芝居がかった もの」なのか。逃れがたく人生とは演劇(他人へ向けたパフォーマン ス)である(そして、恐らくそうであるが故にひとは演劇を見に行くのである)。そのことを、こんなにも真っ直ぐ舞台化出来てしまう前田司郎という存在に、彼の現在の到達地点に戦慄をおぼえた。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kimura-satoru/

▽田口アヤコ(COLLOL主宰、劇作家・演出家・女優)
★★★
幕切れ、暗転へ向かうなかの生音を、観客に臨死体験をさせる仕掛けとして評価したい。より効果を上げる工夫はある気がするが、舞台上の全員がなんらかの原因で死んでいく、という仕掛けについては、ちょっと気の利いた台本書きなら誰でもちょっと面白いことは書けるだろうし、ワークショップ等でのフリーエチュードでもネタはつくってゆけるだろうから、とくに目新しいことはなし。現代の大学生達のふらふらした身体とコミュニケーションのとり方のサンプル採取としては興味深い。それに比べ、医師、病院事務員、喫茶店店主、母親、婚約者、等の身体の詰めが甘いところが惜しい。よりコント的になったとしても、医師らしい身体、事務員らしい身体、喫茶店店主らしい身体等々、職業と役割に応じた身体を突き詰めていって欲しかった。これは俳優の問題ではなく、演出の問題であると思う。病人(らしい)入院患者少女が病人にあまりみえないのも残念。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/taguchi-ayako/

▽伊藤亜紗(ダンス批評)
★★★★
五反田団ほど役者が床に寝ている割合の高い劇団は他にないような気がするが、今回は最後、ほぼ全員が床に寝ていた。寝ていた、というか死んでるのだが、死に方があまりにラフで(お腹が思い切り上下してるのは絶対わざとだ)、とにかくこの芝居が怒濤の死ぬ演技二十手(約)のバリエーションを見せるための時間だったのであり、決してパンフに書いてあったような「死の問題」ではなかったことを知らされる。「死ぬ演技」とはいえ派手に痙攣したり倒れたりするわけだから、それは体の問題でもあって、最後だんだん重要になってくる「死にぎわの一言」が、刑務所から出所したばかりの兄貴の死においては腹を地面にうちつけるあまり聞き取れなるあたり、本気で笑いすぎて観客という立場がふっとんだ。笑っているとき、すべての台詞の語り手、すべての演技の演じ手が前田司郎に感じられ、こんなギミックを思いついてしまった!こんなシチュエーションに自分のつくった世界を追いつめてしまった!という彼の劇作家=ワールドメイカー=神としての盛り上がる気持ちに感染している。この神からの感染だけがリアル。内容面での現実の生や死との関係を考慮にいれず、感染力を裏打ちするこまごましたドラマツルギーに関して評価した。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ito-asa/

▽水牛健太郎(評論家)
★★★★
前田司郎は「何ものかの到来を待つ人」だと思う。前田の世界では、非日常も外部も超越性も、すべてはすぐそこ、私たちのすぐ隣にある。作品の核にあるのは、ふだん隠れているそれらとの出会い、その戦慄と期待だ。
徹底してゆるい日常的な空気をまとった登場人物たちは、突然自分たちが非日常の中にいるのを発見する。それでも動きや会話のゆるさは変わらない。日常と地続きの異常事態の中で、一人ずつ登場人物が死に、人間の世界が消え失せようとするとき、最後の一人は、闇の中に何ものかの音を聞く。
隠れているものの表出の瞬間を捉えようとして、前田は人間を消してみたのではないか。人間が一人を除いて全て消えれば、彼に対して現れるものは、人間世界の外部にあるものに違いないのだから。本質において宗教的とも言える前田の資質が前面に出た作品である。

▽山下治城(舞台芸術のフリーペーパー「プチクリ」編集部&プロデューサー)
★★★★
舞台でいつもの五反田団のように、ユーモラスで何気ない日常が繰り広げられるのかと思ったら、突然、人が苦しみ出す。そして「死」にいたる。「死」ということが「生」と隣り合わせであり僕たちの周りに存在しているのだという「記憶」を喚起させる。「その人の本質」がそのまま現れる「死」の瞬間ほど人間臭いものはない。あまりの突然さと不条理さで、思わず笑ってしまうシーンもある。同時に、「死」は物理的なことなんだな、と思う。「死」を悲しいものにするのは、残されたものの記憶がそこにあるからなのだ。死んだ人に対して、残された者たちが嗚咽し涙するのを見て、僕たちのココロのダムが決壊する。死んでいった人たちに対する残されたものたちの「記憶」の集積が悲しみに変化する。最後の一人が舞台の上でたたずみチカラのない笑いをする。その寂寥感とともにこの「世界」は終わりを迎える。前田司郎の新しいステージが始まった。

▽山田 寛(会社員)
★★★
「生きてるものはいないのか」と言われてみれば、現代の私達はすでにゾンビだ。死を忘れているから。
「脱力系」とも言われる五反田団の作品人物は、この「自己決定」の時代に「自己決定なんて重くて難しくて、そう簡単にできないよ」という私達の気分を象徴している。「死のことを考え」ると、自己決定のできなさは更に浮き立つ。私達はあまりに死を忘れて、いざ死に向き合ったら誰もどうすべきか自己決定などできないのではないか、ということをこの作品は考えている。死は当たり前にすぐ隣に存在するという事実を演劇的に現出させることで。最後に、独りを避けていた男が、他のすべての登場人物の「死体」に囲まれて、どうすればいいか分からずうずくまる。その景色は、私達生者の忘れている本来の風景だ。私達生者は夥しい死者に囲まれている。その終幕の景色を見て、私達観客一人一人の胸のうちにどんな感情が去来するか。それがこの作品の意義と思う。

▽芦沢みどり(戯曲翻訳)
★★
自殺、安楽死、脳死、戦争や災害による理不尽な死などなど。今の時代の死を語るとしたら、切り口はいろいろあるよね。と思って観ているとその期待(?)は見事に裏切られる。総勢18人のキャストのうち17人は芝居が終わる頃には死に絶えて、残る1人だって間もなく死ぬ。なにゆえに? 理由は結局わからない。セリフは今風の言文一致体で書かれてユーモアがあるし、酢コンブの扱いは巧みだし、河岸のマグロみたいに舞台いっぱいに並んだ死体は壮観だ。つまり死体がブツに見えるんだよね。たしかに「今この瞬間も僕たちは死につづけている」(ちらしより)し、生きてるものはゴキブリだろうと地球だろうといずれ死ぬ。でもこれが死だろうか? そう思わせるのが作者の意図なら、それでもいい。でもこういう死はゴキブリに任せたら? オレたちにも五分の魂はあるぜと反論されるかも知れないけれど。死を扱う手つきが即物的で不気味だ。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ashizawa-midori/

▽山田ちよ(演劇ライター)
★★★
人と係わりたい、という思いは強いが、自分の欲求を犠牲にしたり、自身の考え方を変えてまで、相手に近づこうとはしない。こうした態度が現代に広がっているのを感じさせるとともに、不条理な死が迫る、という状況の激しい変化を付けることで、このような関係のおかしさ、怖さなどを示す。死というテーマより、関係性のドラマとしての面白さが目立った。「人が次々に死ぬ芝居」はほかにも見たことがある。そういうくくりの中でも、人との係わり方を浮き上がらせたところが独自性と言えそうだ。
死に際に何と言うか、という話には最初、引かれた。死が繰り返されるのを予想する観客を、裏切る仕掛けとしても機能した。だが、結局、死に際の言葉を並べるだけで、その話から掘り下げていかないので、不満だ。20人近い人々のワークショップを基につくる舞台では、話の深さより広がりが大きくなるのはやむを得ないのか、とも思った。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yamada-chiyo/

▽広沢梓(神戸大4回生)
★★★★
何の理由も語られること無く登場人物が死ぬ。遺言を言う間も無いほど突然、そしてそれが世界規模で起こっているのだと言う。演劇において死を語る際の関心事は、いかにこの理由を語るかであった。だが、ここには死ぬ理由がない。だから死という出来事そのものがクローズアップされてくる。のた打ち回って見た目の派手さを演出する者や、とんでもない最期の言葉を残す者などの次々に繰り出される死は、バラエティに富んだ一発ギャグのような様相を呈してくる。彼らはこの異常事態に驚く程ドライな反応を見せる。観客も次々に発生する死に対して鈍感になる。死とはその程度のものだ、ということか。
苦しむ演技を必死でするほどに、「死んだ」後の彼らの腹部は激しく上下する。演劇における嘘が最も露呈する瞬間をそのように描いて笑いを誘う。このとき、演劇は独自のリアリティを獲得している。だが、その点では笑いが狙われて冗長であると感じることもあった。

▽片山幹生(早稲田大学非常勤講師)
★★★
劇の前半は前田司郎特有の洗煉された笑いのセンスを楽しむ。若い世代の日常生態の弛緩や間抜けぶりが超写実的にに描写され、絶妙のリズムによってコミカルに提示される。完成されたスタイルで再現される複数のエピソードの合流を暗示するような手がかりが前半にはほとんど与えられておらず、終着点の見えないままの進行の不安定感がある種のサスペンスを作り出していた。役者が素でやっているのかと錯覚してしまうほどのリアルな咳き込みから、唐突な死の場面が始まる。一瞬にして芝居の空気を変化させたこの転換は見事だった。しかし以降延々と続く突然死の悶絶場面は、演出のトーンの軽やかさゆえに、シュールなドタバタギャグの趣きが強くなってしまった。その不条理性ゆえに観客を硬直させ、戦慄させてしまうようなグロテスクな仕掛けが欲しかった。後半部の単調さは物足りない。何人目からは生き残った人数を数え、芝居の終了時刻を見積もっていた。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katayama-mikio/

▽小澤英実(東京学芸大学専任講師)
★★★★★
演出の巧みさでは他の追随を許さない五反田団。これまで、その巧すぎなところがあざとくて私にはダメだったのだけれど、今回で完全にノックアウト。プロットも演出も、完璧なまでに素晴らしい(すみません、差をつけるために、前回の『ニュータウン入り口』でつけた四つ星を一個消させていただきます…)。スマスマあたりのコントにもみえるアホらしささえ、ぬるい地獄に生きている私たちの閉塞感を見事にとらえる必要不可欠なものにみえる。歌舞伎に近い様式美のうちに溜めに溜め、もー限界っつう一瞬に噴出される激情はまるで射精のよう。噎せ返るほどの生々しいエロス、逝く/イクときの苦悶。でもそれは、男たちの生殖に対する不安を漂わせるホモセクシュアルなものだ。ひとりひとりの全存在が、死の瞬間に情けないまでに集約され、さらけ出される。舞台の上は累々とした屍で覆われる。生きてるものはいないのか?-舞台の上で死ねば死ぬほど、観客がそこで生きてくる。死に笑うほどいや増す観客の不安。だが、そこで死んでいる者たちの腹はわずかに上下している。血は立ったまま…ならぬ、彼らは生きたまま死んでいる。それは演劇である。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ozawa-hidemi/

▽山関英人(演劇ジャーナリスト)
★★★
人は誰でも死を迎える。不条理、だ。しかし、死がほぼ同時に多発すると、恐怖、に変わる。五反田団の舞台では、その情況を都市伝説として、生々しく描写した。都市伝説という劇中のエピソードが現実化して、都市伝説ではなくなる、という過程も「初体験」だったので、刺激的だった。そして、17人の登場人物が舞台上で、亡くなる「最期」には圧倒された。文字通り、死屍累々、の情景だった。
ところが、死者が次々に現れ始めると、知らず知らずのうちに、死者を待つ、心の準備ができてしまった。死が予告されているような意識が生まれてしまって、最期に到達するまでの時間が非常に長く感じられた。
死が始まる前と後とでは、エピソードを創る手法に変わりがないように見え、特に、意外なことばが、なにげなく会話の中に挿入される手法は、無意識に反応するほどだったのに、死を待つ準備ができてからは、その流れが重石(おもし)のようになってしまって、場面が弾けないように何度も想えた。役者の登退場と立ち位置-中でも、最後の兄妹の再会の場面-にも違和感を覚えた。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yamazeki-hideto/

▽野村政之(劇団・劇場制作)
★★★★
死ぬフリのオンパレード。死にまつわる思考を抽出するにはあまりにおめでたい「フリ丸出し」の、呼吸する死体の列。解釈しようとすれば解釈者の能動性ばかりが先行するし、といって、ばらばらで関係性のうすい演技は、観客として受身で居続けるにはあまりにも疎だ。にもかかわらず、興味を失わず見続ける事ができる、新たな不可思議な経験だった。
なぜ見続けられるのか?…とりつく島がないのだが…とりあえず「視線の能動性と受動性のバランス」といってみる。これまで五反田団は自然な演技の解像度の高さで、語りたがる私たちにとって十分な事をしてきた。その「解像度」は、本作を見た後でいえば、日常をベースに創作した場合に、能/受動のバランスを維持した結果であっただけなのかもしれない。口語演劇で半ば規範化した「自然」を離れ、なおも変わらぬ空気を醸す技量に驚くとともに、五反田団の可能性の広がりに注目したい。

▽北嶋孝(本誌編集長)

十数人が舞台で次々死ぬのに、思わず笑ってしまうときがある。その滑稽が不謹慎どころか自然なありようと思えてしまうほど作劇術も演出もうまい。累積する「他人の死」を描くコンセプトも、醒めた現代から無理なく抽出できるだろう。しかしある瞬間から、微妙な居心地の悪さを感じてしまった。「死」があまりにも巧みに描かれ、いつの間にかその風景を眺めている「姿」に気付いたからだ。しかし、その「姿」を自覚できる手がかりがほとんど見当たらない。
それぞれに個別の「死」があるなら、この舞台のように若者だけが死ぬわけではなく、すべてが原因不明で痙攣死するわけでもない。死者との「距離」によって痛みや悲しみが、ときには笑いも空白もまぜこぜになって心身を揺さぶるときがあるだろう。「風景化」が現代の通奏低音であっても、「死」は起伏と濃淡のある「生き物」として出現するのではないだろうか。もともとがへそ曲がり。作者の才能と芝居の出来映えに感嘆しつつ、対峙と動揺のうちに「死」を刻みたいと願い、あえて星一つにとどめた。乞容赦。合掌。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kitajima-takashi/
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド臨時増刊号、2007年11月15日発行。購読は登録ページから)

【上演記録】
五反田団+演劇計画2007「生きてるものはいないのか
作・演出 前田司郎
▽東京公演:こまばアゴラ劇場(2007年11月3日-12日)
▽京都公演:京都芸術センター フリースペース(2007年10月18日-21日)

出演:
浅井浩介
上田展壽(突劇金魚)
大山雄史
尾方宣久(MONO)
岡嶋秀昭
駒田大輔
鈴木正悟
立蔵葉子(青年団)
長沼久美子
新田あけみ
野津あおい
肥田知浩(劇団hako)
深見七菜子
松田裕一郎
宮部純子
用松亮
森岡望
荒木千恵(同志社小劇場)/中村真生(青年団)※ダブルキャスト

スタッフ:
舞台監督:浜村修司
舞台美術:@gm
照明:高原文江(真昼)
照明オペ:山口久隆(S‐B‐S)
宣伝美術:木村敦子
演出助手/井上エミ(欠陥ロケット)
制作:榎戸源胤・和田克己
票券管理:三橋由佳
企画:橋本裕介・丸井重樹
企画制作/稽古場提供 京都芸術センター
助成 アサヒビール芸術文化財団/平成19年度芸術創造活動重点支援事業
料金:2000円

▽関連シンポジウム 「死」の表現をめぐって
10月21日(日) 京都芸術センター講堂 ※入場無料
パネリスト:扇田昭彦(演劇評論家)前田司郎(演出家)松井周(劇作家・演
出家・俳優/「サンプル」主宰・青年団)
司会:森山直人(演劇批評家/京都造形芸術大学 准教授)

【関連情報】
前田司郎インタビュー(演劇計画2007)
演劇計画2007とは(演劇計画)
五反田団webサイト
・wonderlandクロスレビュー第1回 遊園地再生事業団「ニュータウン入口」インタビューランド #5  前田司郎(五反田団主宰) 聞き手=梅山景央

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