イキウメ「The Library of Life まとめ*図書館的人生(上)」

4.広がる感覚と美しい生き様
  竹之内 葉子

 最初、当日パンフレットに寄せられた作・演出の前川知大の文章を読んだとき、とても「未来的」な感覚があった。そこには、「偶然の奇跡的なセッションを記録したレコード針を落とすことで、奇跡は繰り返される。(中略)針を落とす。誰もが再生することで、自分が存在することの奇跡を毎晩証明している。」とあり、毎日が希望に溢れたもののように感じられたからだ。毎日を退屈に過ごすことは簡単だ。私だって毎日遊び暮らせる訳もないので度々同じ場所に働きに通う。毎日イベントがあるような生活もできるはずがない。ただ1日のうちにちょっとした発見があると1日のイメージがガラリと変わってしまうことはある。だから、毎日を退屈に過ごすか楽しく過ごすかは気の持ちようによるものだということは実感としてもちろんあった。しかし、その毎日生きていることを「奇跡」とまで言い切るこの言葉には私は舞台を見る前からとても生き生きとした印象と期待を持っていたのだった。さらに、タイトルの「図書館的人生」という言葉からも、何もない人生など存在しない、全ての人間がそれぞれの人生の本を持っている(また、本になるだけの価値を持っている)という印象を持っていた。

 物語は6つの短編が途切れ途切れに、しかし数式のように明快に繋がれて一繋がりの作品となっている。1つ1つの話の内容はバラバラだが、すべての話が整えられた一定のリズムによって切れ切れに語られていき、最後のイコール(=)に向かって演算が次々と行われていくかのように展開していく。そこから見えてくるものは一言では言い表せない、何か社会的なもののようでもあり、もっと人生寄りの何かのようでもあり、逆にもっと身近でたわいないことのようでもあった。1つの重要なメッセージに導くのではなく、全てフラットに同じ高さで語り、観客がバラバラに好きな場面に共感できるようにできている。

 ここまで書いていて、この平面的に広がる情報の構図は今のインターネット社会の情報の構図に似ていると感じた。それは今の若い世代にとてもマッチするものだろう。例えば、学生時代から私自身もインターネットに触れ、趣味に関する情報を手当たりしだい集めたものであった。そして好きな音楽も歴史もジャンルも関係なくYouTubeで聞き、好きだという感覚だけでブックマークをして聞きたい時にだけ聞く。そんな聞き方がもう普通になってしまった。それが良いことかどうかは別として、今でもそれは続いている。もちろんそのアーティストについて詳しいことを知りたいとも思うのだが、詳しく検索するという作業によって出てくる大量の情報を想像すると、特に洋楽などはどこか面倒で1つ1つのアーティストというよりは1つ1つの曲単位で深く考えずに聞く事が普通になってしまった。このように、情報のインプットを重ねて育った私にとって、どこか情報というものは、まずは切り離して関連付けせずにそのまま並べて考えてしまうところがある。そのため、スピーディーで明快、代わる代わるたくさんの情報が溢れる中で全体を見ていられるこの舞台はとてもすんなりと頭に入ってきた。深く理解をするのに一定の時間は掛かるかもしれないが、見ていて不思議な爽快感と今度は何が出てくるのだろうというワクワク感が常にある。

 その舞台の中で展開される話というのは、少し現実から座標がズレた、感覚としてはひょっとしたら、絶対にあり得ないのだがどこかには実はあるのかもしれない。しかも、もしかすると意外に自分のすぐ近くで起こっていることなのかもしれないと思わせるような話である。時に自殺したい女の話、時に万引き犯と懸賞女の話、他にも地震に遭い謎の体験をする話、賽の河原でなぜかゴルフクラブを持った鬼の話、表情のない男の話、来世と輪廻の話など設定だけでもいかにも面白そうな話たちである。

 その中で特に気になった話が「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン」である。話としては自殺したい女とそれならばその体と残った寿命を回収したいという怪しげな男2人の話である。女は死にたい訳ではないがもう後戻りできない事情を抱え死ぬしかないと言う。男達は死ぬのならその体を有効活用させてもらいたいと迫る。結局それは何人かの体と魂をとっかえひっかえして丸く収めることになるのだが、それは出来事として私の目の前で実際に起こる。それはもちろん演劇を見に来た私の目の前で起きるのだが、これが虚構である確証はよく考えればどこにもない。そのような考えを想起させるほど、目の前で起こったこの場面には何か不思議な力を感じた。これはよくよく考えてみたら、舞台装置が最初の図書館のような状態をそのまま使いまわして全ての話が進んだからというのもあるだろう。何か明らかにあり得ないものを模した装置がなく、あくまで俳優の上手さによってSF的世界観を作りこんでいた。そしてそのSF的設定で非現実的な世界観を遊ぶというよりは、シリアスな現実を炙り出しているような舞台である。

 そう、どこか前川知大の舞台はシニカルな感覚があるのだ。軽やかな感覚といえば確かにそれもあるのだが、どちらかというと皮肉的に物事を見ている感覚の方が強い。それは他人に対してはもちろん自分に対してさえ向けられている。余り感情に浸らず、何か重いテーマであっても悲しみにくれるというよりは悲しみにくれている自分でさえ客観的に少し醒めた視線で眺める。私自身が、普段つい悩むようなことがあったとしても悩み悲しんでいる自分にすぐ辟易し、すぐ次にどうするかを考えようとするというところがあるせいでもあると思うが、このカラッとした質感がとても心地良かった。『東の海の笑わない「帝王」』の夫・至にしても、感情表現が表情でできないというつらい状況でありながらその場面は悲しいと体が海老反りしてしまうという設定でコミカルに描かれる。もちろんそれはつらくないということを言いたいのではなく、悲しい状況で悲しむことだけが手段ではない。こうすることによってより内に抱える悩める人間の苦悩とそれを取り巻く状況が見えてくる事だってある。

 そして、なによりここまで共感できるのは出演している俳優の佇まいや動作にいわゆる誇張された劇的な表現がないからというのもあるだろう。昔、舞台写真を実習で撮ったことがある。その時はそのような演出だったのだと思うのだが、どの瞬間を撮っても劇的なポーズと表情で演劇を撮ったなと一発でわかってしまう写真になった。こういうものなのだと私も納得していたのだが、どこかその演じている人らしさが写真に余りない気がして寂しいものがあった。それに比べると今回の舞台は非現実的な設定の中に超人的でないありのままの人間がいて、とても俳優が魅力的に見える。加えて観客心理としても見ているこちらと余り隔たりが感じられない。出ている俳優の性格がとても多面的に見えたのだった。きっとこの舞台を撮ったならば人間が多面的に撮れるだろう。

 最後に、この演算のイコールで出てくる答えとは何なのかである。それは美学を持ち、強く生きる人間ではないだろうか。ラストにかけての「いずれ誰もがコソ泥だ、後は野となれ山となれ」に出てくる畑山が万引きの美学を語っている時、万引き者の畑山は万引きという明らかにやってはいけないことで生活しつつ「物事にはルールがある!」と説いていた。そもそもの万引きという行為が反社会的行動でやってはいけない事なのだがあくまでここで言うルールとは自分の中でのポリシー、自分に課すルールということで、世間一般のルールは当てはまらない。その時に妙な納得感を得た。周りに影響されるばかりではなく自分の道を歩いていかねばならないという言葉が頭に浮かんだ。その時に前川知大の舞台が、メッセージをあからさまに掲げずにスマートに色々な可能性を提示しつつ人生論を説いてくれる現代版の坂口安吾のようだと感じた。構成としては現代的で複雑な作りをしている中で、強く自分の道を進む人間の姿が描かれ、我が道を突っ走ってしまう人間にとっては心強い気持ちになる。そして、賽の河原の鬼が言っていたように「考えるな、感じろ。」なのだ。自分の本当の声を聞き、自分の信じる「より良いもの」を目指して生きていけばいい。最初にパンフレットを見て感じた「未来的」な感覚は最後まで裏切らなかった。
(11月16日19:00の回観劇)

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