7.「人生」のない図書館
小田幸子
「図書館」は、ありとあらゆる言葉が眠っている場所だ。誰かが本を取りあげてページをめくると、眠っていた言葉は外にあふれ出し、閉じると消え失せる。夢みたいに。または、人生のように。それは、本当に有ったことなのだろうか?
前川知大、作・演出の『図書館的人生』は、人の一生を一冊の本として捉える。その場合、「過去現在未来に存在するあらゆる人生が蔵される無限の図書館」(当日パンフレット)とは、人が誕生以前に存在していた場所、消滅後に戻ってくる場所、地獄や極楽ではなく、多くの霊魂が浮遊している「中有」のような場所であろう。「どんな物語(人生)でも、読まれている間だけ存在する」という本のありかたに加えて、この「中有」の如き立脚点を手に入れたことによって、舞台は時間と空間をやすやすと越えていく。輪廻転生も、繰り返しも、中断も、同時進行も、荒唐無稽な物語も、すべてを可能とするのが、『図書館的人生』の舞台空間なのだ。
『図書館的人生』は、2006年に開始したオムニバスのシリーズ物で、既にvol.3までが上演されている。本年、2012年11月~12月公演の『The Library of Life まとめ*図書館的人生㊤』(以下、『まとめ㊤』と呼ぶ)は、vol.1~3からの選り抜きを、題名通り「まとめ」た上巻に相当する。今回は六編を集めるが、「…物語は溶け合い、ひとつの長編として生まれ変わろうとしています」(挨拶状)を参照すると、個別的エピソードの集積を通じて「ひとつの物語」が立ち上がるのが目標ということになる。
『図書館的人生』を見るのははじめてだ。しかも、短編の集積という予備知識がないままに臨んだ。できるだけ説明抜きの状態で見たいと思ったからである。
導入部には引き込まれた。天井まで届く書棚と脚立、机と椅子、カウンター等が置かれている。椅子に座って本を読む人、棚から本を取り出す人、歩いている人、静かな午後のお馴染みの情景。そこへ、男がひとり少しあわてた様子でやってくる。「受付カウンターはどこですか?」と男は聞く。ところが、そんなものは無いらしいのだ。出口を探している女がいる。かなりあせっており、男に尋ねる。男は、自分が入ってきた方向を教えるが、戻ってきた女は出口なんか無かったと言って走り去る。ここに居る人々は全員がお客で、図書館員は一人もいないようだ。そのうえ、変なことを言う人がいる。「あなたについて書かれた本をよめば、そこに全部書いてある」とか「探している本がいつまでたっても見つからない」とか。ここは、通常の図書館ではないのだ。本の探し方はおろか、どうやって入ってきたのか、どうやって出て行くのか、さえわからない。言葉だけではなく、この図書館は人を閉じ込めてしまう。
このシーンが効果的なのは、「現実にして非現実」・「有限にして無限」という図書館の不思議が、「謎」の形で提示されているためである。そして直ちにここが、悪夢の世界か死後の世界であるかの如き印象を抱かせ、日常世界にいた観客を一気に物語の中へ巻き込んでいく力を持っている。謎を仕掛け、冒頭から早いスピードで観客を不可思議な世界へと誘う。前川が最も得意とする手法といえよう。やがて、いつのまにか場面は病院の一室となり、人々は大きな地震に襲われる。揺れが収まって窓を覗くと太陽が月に変わっており、ドアの外には、左右に先が見えないほど長い廊下が続いている。時空の変動が生じたらしい。「青の記憶」と題する短編の開始である。わたしは、それに気付かなかったが、展開に何ら違和感を感じることなく見ていた。突然場面が病院に変わっても不自然ではない、というより、場面や人物が変化して、不思議なことが次々起こることの方を、むしろ期待していたのである。物語が連続していないとわかったのは、もう少し後だった。そして、次第に退屈しはじめた。
一貫したストーリーはない。「六つの奇妙なお話」が、断片的に、断続的に展開し、一人の役者は色々な作品の色々な登場人物に成り変わる(一役だけもいる)。瞬時に次々と変転する光景に、観客は宙ぶらりん状態となり、今度はあの物語の続きだなどと、忙しく頭を働かせる必要にせまられる。にもかかわらず、六編がごちゃごちゃに混じり合うことはなく、整然と併行していく。注意深く見ていると、誰かが本を読み出すと同時に物語が始まるなどの仕掛けがわかったりする。『まとめ㊤』の特徴と面白さは、数種のパーツに分断された六篇の物語が、自由な組み合わせのもとに、きれぎれに進行していくことにある。構成と演出と展開の巧みさが勝負どころといえよう。
ただし、ここには観客の受容能力も大いに関与しているはずだ。現代の多くの観客は、時空のワープにしろ、別物語の同時進行にしろ、あるいは、物語の断片化や過去と現在の交錯などもに慣れ親しんでいる。観客は成長しているのだ。そのうえ、当日パンフレットに各編の題名と内容を略記し、配役一覧表も付けるなど、気を配っている。とてもうまく、わかりやすく仕上がっている『まとめ㊤』の手法は、うまく仕上がっている分、実はさほど新奇でも、実験的でも、前衛的でもなく、奇妙で洒落たエンターティメントといった趣だ。それに、手法の巧みさだけで以て作品を評価するわけにはいかない。大切なのは、この方法を用いて「何が実現されたか?」である。
この点に関して、わたしの評価は否定的である。
第一に、全体を貫く太い軸なりテーマなりが見えてこなかったこと。輪廻転生の物語としてゆるやかに関連しているといわれればそうかもしれなが、やはり各篇の独立性は強い。「新たな物語」がしっかり起ち上がってこなければ、せっかくの解体と再編が、手法でしかなくなってしまう。
第二に、個々の物語がどれも浅かったこと。内容が物足らないのである。「賽の河原で踊りまくる『亡霊』」をとりあげ、具体的に述べることにしよう。死後世界の古伝承を背景にしたこの一篇は、先述した「中有的な図書館」に似つかわしい題材であり、また後半部に比較的長く演じられて強い印象を残した。
亡者は三途の川で奪衣婆に衣をはぎ取られた後、黄泉の世界に赴くという。死んだ子供は賽の河原で父母のために石を積んで塔を作るが、積み上げたとたんに鬼に突き崩され、泣く泣くまた石を積む。また、亡者は閻魔大王の裁判を受け、地獄・極楽行きが決まる。作者は、日本人ならどこかで聞いたことがあるこれらの伝承を取り混ぜたうえで、奪衣婆は亡者の極楽行きを決定ずける若い女性として、鬼は鉄棒のかわりにチタン製のゴルフクラブを武器とする腰痛持ちの男として造型する。亡者たちが積み上げるのは、黒い箱であるが、うまく積み上げたと思うと鬼に突き崩されてしまう。「何か」がうまくいくと奪衣婆が「ピッー」と笛を鳴らして終了するのだが、「何か」がなんであるのか、全くわからないため、彼らは試行錯誤を重ねつつ箱を積んでは崩される不毛な行いを続けるしかない。鬼は「求めるな、受け入れろ」、「考えるな、感じろ」、「目的や、やりがいなど無い」というようなことを言う。最後には全員苦行から解放され、おそらく極楽へ向かう。
この物語で作者は何を表現したかったのだろう?
まさか「人生とは目的も終わりも知らされぬまま、ひたすら行為を重ねて行く不毛なゲームなのだ」的な、ありきたりで説経臭いことではあるまい。たとえ、派遣労働をはじめとする昨今の日本の閉塞感を重ねあわせて読み取ったとしても、単に「読み取れた」だけであり、その先がない。エピソードが軽いだけではなく、役者の身体感覚も遊んでいるかのようである。軽い箱をいくら積んでも、崩されても、そこから「むなしさ」や「痛み」が伝わってくるわけではないのだ。わたしが芝居の中で最も見たいのは、人間の心理や葛藤である。が、内面は描かれず、古伝承を現代風にアレンジして、面白おかしく演じるところで止まっている。考えてみれば、この「軽さ」こそが、『まとめ・㊤』全体を貫く基本トーンにほかならない。ついでに言えば、箱積みのアイデイアが、ポール・オースターの『偶然の音楽』に良く似ているのも気になる。
女の魂が男の体に入り込む「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン」や、感情表現を常人とは別の身体表現で行う夫を描く「東の海の笑わない『帝王』」も、タイムマシンで過去に行くと自分が虫であったという「輪廻TM」も、万引きの美学を主張する「いずれ誰もがコソ泥だ、後は野となれ山となれ」も、アイディア止まりといった印象が否めず、独自性にも乏しいように思われた。まとめる際に施されたであろう削除によって、個々の物語が十分展開されなかったのかもしれないが、関連性も全体の主題も淡いまま、手法だけが浮上した、というのが正直なところである。「軽妙に構成されたSF風な作品」が好きな人なら、これで満足なのだろう。
卓抜なアイディアと、わくわくするような物語展開が、作者前川の身上であると思うが、そこに、深みが加わった時に魅力は倍増する。たとえば、本作と同様短編を連ねた『奇ッ怪、其壱・其弐』(ただし、イキウメの公演ではない)には、一貫する主題のもとに微妙な人間心理が描かれていたし、昨年の『太陽』では、スピリチュアルな世界観の魅力と危うさが、鮮烈な対立項のうちに浮上していた。ずっしり手応えのある前川の作品がわたしは見たい。
(2012年11月27日 東京芸術劇場シアターイースト)