イキウメ「The Library of Life まとめ*図書館的人生(上)」

6.人類は大別してジグソーパズル好きとそうでない者に分けられる。そしてジグソーパズルもまた一種類だけではない
  大泉尚子

 500ピースのジグソーパズルが三種類あるとする。その全部のピース1500個をばらし、中から500個を選んで改めて嵌めていくと、あら不思議、もとの絵とはまた違う、さらに手の込んだ絵が浮かび上がる。絵柄は複雑だが、全体としては実に均衡がとれて巧みな構成。「The Library of Lifeまとめ*図書館的人生(上)」からはそんな印象を受けた。

 劇作家・演出家の前川知大が主宰する劇団イキウメは、結成10年。その間に、オムニバス形式の短篇シリーズとして「図書館的人生」の「Vol.1 死と記憶に関する短篇集」(2005)、「Vol.2 盾と矛」(2008)、「Vol.3 食べもの連鎖」(2010) 三本を上演してきた。本作は、その総集編とでもいうべきものの上巻。
 筆者はVol.2とVol.3を観劇し、Vol.2は、ワンダーランドの初日レビューでも取り上げている(http://www.wonderlands.jp/archives/16255/)が、見覚え聞き覚えのある話がポロッポロッと出てきた。なるほど、三作のうちの短編いくつかが組み合わされているのだ。
 パンフレットには、演じられた6つの短編が挙げられているが、それを参考に舞台を辿ってみよう。

 装置の色は、黒とグレーを基調としたシックなモノトーンに統一。奥には天井までの書架がずらりと並び、前面には低い本棚やデスク・椅子が置かれている。曲線はおろか、斜めの線もほとんどない、きわめて安定感のあるがっちりしたセット。デスクや椅子などは可動式で、場面転換も滑らかだ。小道具として、車椅子が随所で使われているのが珍しい。バックにはピアノの不協和音や、いかにも機械で作りこんだようなポワーンとした人工音が聞こえてきたりする。

 男が図書館にやってくる。中には車椅子の閲覧者の姿も。ところが、入ってきたのはいいが受付や職員が見当たらない。居合わせた人に聞いても、伝聞のみの頼りない話ばかりで、確たる答えは得られない。しかもこの図書館、いろいろな人々の人生が綴られた本ばかりを収蔵しているらしい。

1.青の記憶
 とこうするうち、そこは病院になっており「治験ボランティア」や耐震調査をしにきた男、看護士ら5人が地震に見舞われる。揺れが収まっても、時計は止まり携帯も通じない。昼間だったはずなのに、窓からはなぜか青い月が見えており、部屋の外にはずっと廊下が続いているばかり。何かの拍子にどこかにワープしたのか? あるいは秘密の実験なのか?

2. ゴッド・セーブ・ザ・クィーン
 同僚を殺してしまい、今にも身投げしようかとしている女の前に2人の男が現れる。警官ではない。彼らには、人の来世のシュミレーションも人体まるごと移植も可能らしい。女にすばらしい来世(=初の女性天皇!?)があるから…と勧めると、彼女は最終的にOKし、車椅子に乗せた死体の男に乗り移って生き長らえることに。

3. 東の海の笑わない「帝王」
 感情が妙な具合に体に表れてしまう男。例えば、楽しいと右手が激しく動き、悲しいと背中が痙攣して反ってしまうとか。それを新婚の妻にどうしても言い出せないのだが、妻の方は夫の無表情やつかみどころのない行動に悩む。だが、思い切って告白した後は、より絆が深まり、雨降って地固まる―。

4.いずれ誰もがコソ泥だ、後は野となれ山となれ
 自分なりの美学とポリシーを持つ万引き男が、懸賞マニアの女に惚れた。「俺と付き合え」と迫り、家に住み着いている。ところが、街には素人や掟破りの万引き犯がはびこるわ、女は普通の男がいいとデートに出掛けるわとうまくいかない。男やその仲間たちの行動やいかに?

5. 輪廻TM
 廃寺に入り込み、ホームレスか賽銭泥棒のように見えるが、その実、臨死体験や輪廻について研究している男たち。来世や前世が見えるというマシンを開発し(これがなぜだか車椅子)、早速試運転に出掛ける。そこで見たものは―。

6. 賽の河原で踊りまくる「亡霊」
 鬼と奪衣婆、3人の亡者がいる。そこは賽の河原。鬼は亡者に、辺りにある黒い箱を積み上げるように命じる。折角積み上げても、金棒や、そして金棒は重すぎるからとゴルフクラブ(!?)で容赦なく崩しまくる鬼。それでも黙々と積む亡者もいれば、意味がないとヤケになる亡者も。奪衣婆が「上がり!」と叫べば亡者は先に進めるのだが、なぜ上がりになるのかの法則性は謎。そしてまた鬼も、実はといえば現状に行き詰まっていたのだった…。

 ラストはまた場面が図書館に戻り「物語を進めないと」のせりふで暗転=幕(→下巻に続くということか…)。

 小題はパンフにあったものをそのまま記したが、これまでの連作で付けられていたものと同じ。1.2.5.はvol.1に、3.と6.はvol.2に、4.はvol.3に出てきた話。本作に登場する十人の俳優は、各話でいろいろな役につき、多くて一人四役をこなしているが、以前と同じ役を演じている場合とそうでない場合があった。
 そして、便宜上書いてはみたけれど、これは全く粗筋とはいえない。図書館の場面は、最初と最後だけではなく、この作品の一番外枠となって折々に出てくる。また、これまで各短編は独立した形で演じられてきたが、今回はそれぞれが断片化して細かい入れ子状になっているし、合間にはこれ以外のモチーフも現れてと、かなり錯綜が激しい。番号も、少しでも先に出てきたものから挙げてつけたつもりだが、パンフとは違っており、そういうわけなので順番というのもあまり意味がない。
 その点では、先のジグソーパズルの喩えは不正確で、ピースの数は元よりはるかに増えているし、個々の形もリアス式海岸のように複雑な線をもち、最終的により細密なものに仕上がっているといえるだろう。

 それらの繋ぎ方、交錯のさせ方が実に絶妙。数々の場面転換では、装置を動かしたり、暗転したりしてはっきり切り換わる箇所もあるが、それ以外にも、何らかのツールを媒介に異空間に突入してしまうこともあれば、いきなり入り混じってしまうところもある。
 前者のツールとは、たとえば「双眼鏡」。はじめは窓から月を見るのに使っていたのだが、なぜか登場人物たちは双眼鏡を持つと訛り出す。これは1から6までに入らないモチーフなのだが、双眼鏡をきっかけに、前世で、田舎に住む両親+兄二人妹一人の家族だったことを思い出すようだ。
 後者の混じり合うところとは―。安井順平演じる6の「鬼」の鬱憤は、もう一役4の「万引き男」のものでもある。安井はやりきれなさを演じながら、自在に鬼と万引き男を行き来する。また、3の夫役・浜田信也が6で、なかなか「上がれない」亡者になると、妻役の菊池明明は、箱を積むのを手伝ったり、心配そうに見守ったり。何のツールの媒介もなく、俳優の身一つでの往来には目を見張るものがあった。
 こうした手法によって短編間の境界は溶解し、再演という言葉を遥かに超える新たな不可思議空間がジワジワーッと滲み出す。これは、本作の大きな特徴とも言えるのではないだろうか。

 ところで、最初にジグソーパズルに喩えたのにはもちろんわけがある。これまで述べてきたことと多少矛盾するように聞こえるかもしれないが、敢えていうとすれば―。
 このシリーズに限らず、イキウメの作品のもつ独特の奇妙な味わいや、そして本作での、はじめて見た人はやや混乱してしまうのではというくらいの錯綜ぶりにもかかわらず、ふと、最後にはどこかできちんと嵌まってしまうのではないか、つまりは整合性という突き当り・行き止まりに出くわすのではないかという危惧を感じてしまう。
 別の言い方をすれば、今回の複雑に絡み合ういくつもの話は、この図書館に並べられた人々の人生、前世や来世を含むそれだといってしまえば、スッキリハッキリ説明が付きはするが、むしろその腑に落ち方は無念にも思えるのだ。
 10年を経て築き上げられた演出の妙、役者・スタッフ陣の演技や技術の確かさとチームワークは見事で、短編群も荒唐無稽でありつつ、いずれも高いクオリティを保つ。前川自身も製作発表の記者会見で「作品自体はどれも『笑えてちょっと怖い』という…テイストをそろえて」「CDで言うところの”ベスト盤”にしたい」と意欲を語っている(北九州劇術劇場HP。http://www.kitakyushu-performingartscenter.or.jp/event/2012/1216ikiume-report.html)。
 ところが、その力量や均質性は大きな魅力でもあり得るが、同時にそれこそが、どんなに精緻ではあっても所詮、平面状のパズルなのではないかという一抹の疑問や物足りなさにつながるような気もしてしまうのである。

 ここで思い浮かんだのは、舞台作品ではなく小説である。小野不由美の「魔性の子」(1991)と「十二国記『黄昏の岸 暁の天』」(2001)の関係。
 「十二国記」は、古代中国をイメージさせる壮大なファンタジーシリーズで、その名の通り十二の架空の国々の物語。神仙・奇獣から悪鬼魍魎までが跳梁跋扈する擬似歴史体系もののジュブナイルだ。「魔性の子」は、郊外の私立高校を舞台とするジュニアホラー小説だが、「十二国記」の外伝とも位置付けられている。(いずれも人気が高く、アニメ化された)
 ウィキペディアによれば「『魔性の子』は十二国記の本編が異世界を異世界側の視点から見たファンタジー小説として描いてあるのに対し、異世界(十二国記)が現実世界の人間社会に干渉したときの恐怖を、現実世界側からの視点でホラー色の濃い物語として描写している」。
 この十二国と現実界とは異次元に存在するが、時空の乱れにより人や動物が行き来することが稀にあり、その人の記憶が消えることも甦ることもあり得るという設定。

 さて、「魔性」の主役である高校生の高里要は、幼い頃神隠しに会い、1年後に戻ってきたが、その間の記憶はない。その後なぜか、彼を傷つけた者は例外なくひどい目に会うという摩訶不思議な事件が続き、周囲から疎外されている。彼自身も他人になじむことなく孤立することを選び、わけもわからぬままに昔を懐かしく思っている。が、要の想いとはかかわりなく、怪現象は続き、それどころかエスカレートして凄惨な出来事が相次ぐ―。
 「黄昏」は、それとは陽画と陰画のような関係にあり、要が神隠しにあった1年間、十二国のひとつ戴(たい)という国にいたことが明かされる。彼はそこでは、人間ではなく神獣の麒麟(きりん)であり、泰麒(たいき)いう名前をもっていた。麒麟とは、頭脳明晰で言葉も話せる半人半獣的な生き物。世襲制でない王制の十二国の世界で、新しい王を見つけ出せる唯一の存在でもある。泰麒(たいき)にもまた、波乱に満ちた行く末が待っていた―。

 要=泰麒以外にも、複数のキャラクターが共通して登場するのだが、二つの物語のテイストは非常にかけ離れている。要の周りで起こる怪現象は、実は、戴から泰麒とともにやってきた妖魔や獣の、彼を守ろうとした過剰反応(!?)だったということがわかってくるが、その描かれ方は「魔性」と「黄昏」では全く違う。なおかつ「黄昏」を読んだ後でも「魔性」の冷え冷えとした怖さは決して損なわれないし、「魔性」を読んでも「黄昏」の融通無碍なファンタジー性はちくとも減じない。むしろ両者の相対的な関係によって、その世界は奥行きとダイナミズムを得、面白さは2倍と言わず複合的にそれ以上にも増す。
 パズルに喩えれば、ピースの数はさほど多くないが、横から見ると四角だったものが視点を変えて上から見ると円だった、つまりは円柱のピースだったわけで、このパズルは立体だったのか!という驚きがある。

 こういうことが舞台で起こせないかというのは、まさに荒唐無稽なというより、無茶振りな望みなのかもしれない。けれども、底力のある作・演出家、劇団だからこそ、無理な注文も付けたくなろうというもの。浜の真砂は尽きるとも欲どしい観客の願望は尽きることがない。

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