8.稽古場が見てみたい
小泉 うめ
臨床心理学の実験で、アンケートに答えてもらうなどの別の目的で実験室に来てもらい、複数の被験者をそこで待機させて、モニターカメラから観察を行うものがある。実際は初対面のそれらの人々が、相手のどこに「視線」を配って、どんな話題で「会話」を始めて、どのように「感情伝達」をして行くのか、その「態度」や「行動」を分析する。複数の人間を一同にすると、人間はそれぞれの個性を発揮しつつ、コミュニケーションを始める。
それを見ることは、全くの素人が演じる即興の心理劇のような感じがするものでもあるが、『イキウメ』の舞台は、その実験室を研ぎ澄まして作品化したような印象がある。登場人物が舞台上に配されることにより、それぞれがキャラクターを設定し始めて、他者と絡み合って行く。人と人とが接触し、時には激しく衝突したり、また時には融和して行く。もちろん演劇は、しばしばそのような箱庭実験的なものであることが多いが、彼らの舞台は特にその要素が強い。
昨年「奇ッ怪・其ノ弐」、「太陽」の演出で、読売演劇大賞ならびに最優秀演出家賞を受賞した前川知大が、しばらく演出を外部に委ねる試みの後、ほぼ一年ぶりに自らの劇団『イキウメ』の演出に戻って来た。現在の『イキウメ』は数ある劇団の中でも、特に安定した劇団力を持っていると感じている。失礼ながら、特別な看板スターはいない。しかし、劇団員はそれぞれ極めて個性的で、演技も上手い。そして、この『イキウメ』ワールドには欠かせない面々ばかりだ。その一貫した世界観作りを、安定したメンバーで継続できていることは、間違いなく『イキウメ』の強みである。彼らがいるからこそ、前川が「書けている」感じがすることを、これまでにもしばしば感じていた。
本作は「図書館的人生」という、これまでに彼らが3度にわたって上演してきた得意の短編オムニバスの「まとめ」の(上)である。
図書館に男が迷い込むように入って来る。誰に聞いても受付の場所も知らず、職員の姿もない。先にやってきていた別の男が、職員のように本の整理をして働いている。
今度は逆に、女が出口の場所を探して聞いてくる。男は今来たばかりの道順を教えるが、女はそれを見つけられなかった。
そのタイトルの通りの解釈をすれば、「図書館」という場所を「人生」になぞらえた物語を予想する。そして、戯曲では、そこにある一冊ずつの本を、一人一人の人生になぞらえていた。そのおびただしい蔵書は、あらゆる人の人生が詰まっている比喩であり、どの道を進んで行くのか、毎日迷いながら歩んでいく人生は、そんな図書館の中で自分の人生の一冊を求めて、さまよい続けているようなものだということであろう。
誰かが本を開くと、そこに書かれている人生が、それ以外の役者によって動き始める。本を開いた者は、その本を読むかのように舞台上の物語を静かに見つめていた。
このような導入に続き、これまでの公演で演じられた「青の記憶」「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン」「輪廻TM」「賽の河原で踊りまくる亡霊」「東の海の笑わない帝王」「いずれ誰もがコソ泥だ、後は野となれ山となれ」の6編がリメイクされて「まとめ」られた。
新薬の治験ボランティアで病院の一室に集まった人々が地震に襲われる。地震の後、状況は一変していた。窓からは青い月が美しく見え、ドアの向こうの廊下はどこまでも続く永遠になっていた。人々は、死んだのか。どこか別の世界にワープしてしまったのか。そして、その手に現れた双眼鏡で、その青い月を見て、自分達が外部から地球を見ていることに気付く。
彼らは、現世では偶然に地震に関わる仕事をしている人たちであると同時に、前世では家族であった。この後、観客は劇場で臨死体験のような時間を過ごすことになる。
『イキウメ』は2003年に活動を開始しており、図書館的人生のvol.1は2006年に発表されている。それは2004年の新潟県中越地震からしばらく経った頃でもある。大地震が周囲の状況を物理的にも感情的にも大きく変えてしまうことを、私たちは先の東日本大震災でも経験した。
主宰の前川知大は新潟県柏崎市の出身であり、その当時、彼がこのような表現をしていることは、今となっては大変興味深い。自らが東京で活動している間に、新潟ではたくさんの人が亡くなり、避難生活を余儀なくされていた。
その時すでに東京で生活をしていた彼にとって、「青の記憶」の中の、双眼鏡で見る「青い月」は、東京からすぐに飛んでは行けいない故郷の存在のようであり、またそれを東京から想う彼の心そのものであるような印象も受けた。東日本大震災からも間もなく2年、劇団としての成果としてだけでなく、環境的にもこれらの短編集を振り返り、「まとめ」る心境に辿り着いたのではないだろうか。
この後も「死生観」を問うような物語が続くが、ここで出てくる「この世界は『生』と『死」の間。どちらかと言えば『生』の一部。」という台詞が象徴的である。虚実、時空、生死の狭間を、観客に興味深く観させながらも、描こうとしているのは、あくまでも今を生きている人間の現実側の問題に終始する。4編のそのような物語を示した後、2編の妙な苦難を抱えながら生きて行く人々の物語で、「生きる」側にスポットを当てている。
飛び降り自殺しようとしている女の前に、二人の男が現れる。止めにきたわけではなく、死に逝く人間の、魂の情報化を担当する男と、肉体を情報化する男だった。
「死」は、ちょうど階段の踊り場のようなもの、「人生」をリセットする場所だと説明する。死が目前にあるのに3人の会話は軽妙で、観客の好奇心をどんどん牽引して行く。
魂の情報化を担当化する男が来世をシュミレーションする。今自殺をすると来世はコートジボワールのコーヒー工場の息子だそうだ。また60歳まで生きたら来世はどうやらすごいことになると言う。早く魂をリセットさせて仕事を済ませたい男と、「すごい来世」を迎えて欲しいと思う男の間で対立が起こる。そして、その女は自分が殺した男の身体に乗り移って、生き残る道を選ぶことになる。この女の来生は、初の女性天皇になるらしい。
ある寺の地下室で男たちが実験を繰り返している。そして終に完成したその装置で、男たちは時空を超える。どうしても自分の来世が見たいと、最初にそれに乗るのは、その前の物語で自殺寸前で、身体を入れ替えて生き残った女である。そして、教えられていた通りの自分来世を見てそれに納得しながらも、最後に絶叫する。「来世、超めんどくせぇ」。
来生は必ずしも人間とは限らないようだ。他の男たちの来生は更に波乱万丈である。輪廻というものを考えさせながらも、それを笑いに変える。最後に56億7000万年先に行った坊主は、その来生を見て昇天する。
この舞台を観ていると、彼らの稽古場が目に浮かぶようだ。演技の内容は、随所に稽古場から生み出されたのであろう発明が見てとれた。
「輪廻TM」では、寺の地下室に集まった男たちがタイムマシンに見立てて使うのは、普通の「車イス」である。それ一つで話をどんどんエスカレートさせて、コウモリやイノシシの来生へと旅をする。
「賽の河原で踊りまくる亡霊」では、賽の河原で積み石する亡者とそれを金棒で破壊する鬼のやり取りを「段ボール」と「ゴルフクラブ」で演じる。鬼は、最初に持っていた金棒を「軽くて便利だから」と軽く笑いをとって、チタン製のゴルフクラブに持ち替えるが、これはむしろゴルフクラブの方が先にあったアイデアではないだろうか。金棒は、その前に本物が登場していた方が面白いだろう、という感覚で用意されたようでさえあった。
「東の海の笑わない帝王」では、喜怒哀楽を通常のそれとは全く異なる「身体表現」でしか表現できない男が現れる。
「いずれ誰もがコソ泥だ、後は野となれ山となれ」の『万引きで生活している男と懸賞で生活している女の恋』というようなお題は、いかにもこの劇団はエチュードで試していそうである。
このような思いで舞台を観ていると、やはり劇団としての充実をとても強く感じる。もちろんこれまでに毎年のように様々な賞を受賞している前川の筆力には卓越したものがあるが、それと相まって、日々の稽古場で様々なことが実験されていて、色々な発見が繰り返されているのがイメージできる公演内容である。
その稽古場の積み重ねによって、作られていたのが過去3回の「図書館的人生」という短編集であったのであろう。
そして、今回それらが「まとめ」として、相互にリンクしながら重ね合わさり、短編集から大きな物語へと融合し始めている。演じられている物語が途中で別の物語と往来する。次の物語の中に前の物語の登場人物が現れ、その因果が種明かしされる。ある人の人生が、別の人の人生の脇役として存在している。本を読み進めて行く過程で、この人はあの本の中にもいた人だ、ということになる。
約2時間20分という長丁場ではあるが、長編の戯曲を観たというよりは、それが構築されて行く過程を観るような印象がある。一編の戯曲としては、まだ接合部に不安定なところを感じるが、それは当然であり、むしろ作家がプロットを組む過程を覗くような感覚が楽しめた。
そのため本作は、過去の「図書館的人生」よりは、やや難解な印象があるかもしれないが、同時に観る者の想像力を、より一層に掻き立てるものでもある。
『イキウメ』は客入れ・客出しには、静かなピアノ曲を流していることが多い。なるべく平穏な心理状態でこの演劇体験に触れるチェックインと、そこから日常への穏やかなチェックアウトを用意している。また劇中は過剰に大きな効果音を使って、それで演出を補うようなこともほとんどない。
まるでSF映画によくあるような、宇宙人が、彼らと接触した記憶を残さずに、地球人の脳内に何かを植え付けて行くような静かなアプローチである。但し、確実に観る者の心の奥底に何かを残し、劇場を出るときには微妙な変化させることを狙っている。
余談ではあるが、隣りのシアターウエストで公演していた『ポツドール』は、劇場の外まで響くような爆音で客入れ・客出しをしていた。演目は無言劇である「夢の城」であるにも関わらず、思わずそのビートに合わせて頭を振り体を揺すりながら入場したくなるような雰囲気であった。
一方、シアターイーストの『イキウメ』には緩やかな川の流れに乗って吸い込まれるように、静かに客が入場する。それは、まるで既に洗脳された人々の行進のようでもあった。
このコントラストが、2つのシアターに向かって立った瞬間に、あまりにも両極端で両方の内容を知っていると、思わずその場で微笑してしまったことを記憶している。
冒頭に述べた心理学の実験では、基本的にその終了後には被験者に実験の真の目的を説明して、そこで得た情報をデータとして扱うことに対して了承を取る。被験者は、自分の心のどこを調べられたのかを知り、それを納得してそこから解放される。
今回私たちは、彼らにどこを触れられ、何を調べられたのだろうか。
2013年5月には、「The Library of Lifeまとめ*図書館的人生(下)」が公演される予定である。『イキウメ』に何かを記憶として植え付けられた観客たちが、再び必然のように、この劇場に作られた図書館に集うことになるのだろう。
(11月25日13:00の回観劇)