5.図書館は異界の入口(澤田悦子)
図書館は異界の入口、人ならざるものが潜む場所だ。本がたくさんあるという意味では本屋も図書館も同じであるはずなのに、図書館には独特の雰囲気がある。いつ訪れても、温度が低くて熱気がない。本棚に囲まれた空間は静寂に包まれ、いつも空気の薄いような気がする。映画の「ベルリン天使の詩」でも天使は図書館に佇んでいた。
図書館に彼岸のメージが浮かぶのは、前川知大の言う「過去現在未来に存在するあらゆる人生が、書籍として蔵される」ためだろうか。それとも本に存在するあらゆる人生が、何度も始まって終わる場所だからだろうか。
「The Library of Life まとめ*図書館的人生(上)」は、イキウメのライフワーク的な短編集、「図書館的人生」シリーズをまとめたものである。今回は「①青の記憶、②輪廻TM、③ゴット・セーブ・ザ・クイーン、④賽の河原で踊りまくる「亡霊」、⑤東の海の笑わない「帝王」、⑥いずれ誰もがコソ泥だ、後は野となれ山となれ」がピックアップされていた。「①青の記憶、②輪廻TM、③ゴット・セーブ・ザ・クイーン」は、2006年に初演された「図書館的人生 短編集vol.1」の作品で、「④賽の河原で踊りまくる「亡霊」、⑤東の海の笑わない「帝王」」は、2008年の「図書館的人生vol.2盾と矛」から選ばれている。「⑥いずれ誰もがコソ泥だ、後は野となれ山となれ」は、「図書館的人生vol.3食物連鎖」の短編からの一編で、2010年の作品だ。発表された時期、内容ともにバラバラな6作品を、図書館の本を読むという行為で短編集にまとめている。6作品は単体で存在するのではなく、増殖するDNAの二重螺旋のように、パーツごとに別れて新たに組み合わされ、互いに絡み合いながらひとつの新しい作品として生れ変わっている。舞台は、男が異界の入口である図書館を訪れる場面から始まった。
過去現在未来に存在するあらゆる人生が、書籍として蔵される無限の図書館を訪れた、安井順平が演じるある男。彼が天井まで届く黒い本棚から選び出した黒い背表紙の本を開くと、病院に治験を受けに来て地震に襲われる5人の男女の物語が始まる。物語は途中で唐突に終わり、違う本の物語が始まる。舞台の上の読み手が最初の男から違う人物に移ると、本に書かれた物語は、万引きのプロである男の話と懸賞で生活する女の話になる。ふと気がつくと、図書館を訪れた最初の読み手の男は、本の物語に登場する人物になり、物語の登場人物を演じていた男女が、図書館で自分の本を探している。読み手によって変わる物語が進んでいくと、6の物語に何度も登場してくる人物が複数いることに気づく。ある物語では主役、ある物語では脇役、与えられた役割も役者も違うのに同一人物であるとわかるのは、過去の記憶の断片が共通しているからだ。
登場人物の持つ記憶の断片に気づくと、ある疑問が湧いて来る。図書館に彼岸のイメージが浮かぶのは、本に書かれた人生が書かれた時点で過去のものであることを、私が知っているからだ。物語に書かれる人生は、終わっている人生なのだ。この図書館にも、未来の物語の書かれた書籍は存在せず、登場人物は全て、終わった人生を生きる彼岸にいる人々で、読んでいる本は、登場人物それぞれの過去の物語ではないのか。本を読むことで彼らは「再生する人生」を演じているのではないか。しかし疑問に答はでないまま、物語は続きを示唆して終わる。
この作品は、役者を入れ替えて同一人物を演じる、読み手と物語の登場人物が入れ替わるなど構造が複雑である。しかし、舞台上の謎多き図書館で本の読み手と本の登場人物を入れ替えながら進んでいく物語に違和感はなく、次の読み手によって新たな本が読まれているのだと理解できる。
誰にでも一度は、同じ本を読んだ友人と登場人物に対するイメージが一致しない経験があるだろう。ベストセラー小説を映像化するとき、誰が主役を演じるのか、演じた主役は原作のイメージ通りだったか、が話題になる。万人が満足する小説の映像化が出来ないのは、本の登場人物が、個人のイメージによって具現化されるため、読み手によって印象が大きく変化するからである。この作品の構造は複雑だが、物語の進行が自然なのは、本に書かれた物語を「再生する」時には、登場人物は読み手によって変化するという本質的な特徴を舞台で表現しているからだ。
舞台装置も、本の読み手と本の登場人物を入れ替えながら進んでいく物語を、自然にするために効果的に使われている。黒で統一された四つの本棚が舞台奥に配置され、場面転換に使われている。舞台上の存在感のある本棚が動くことで、暗転を使わない場面転換が可能になっている。また、図書館にある机や椅子、高いところの本を取るための移動階段や背景になっている黒いダンボールも、物語の進行によって違うものに見立てられるようになる。ある物語では、移動階段はビルの手すりになり、テーブルは屋上になる。ある物語では、黒いダンボールは亡者の積む川原の石になるなど、舞台上の道具が見立てられていくことで、本の中の物語が自然に舞台上の現実である図書館を侵食していく。
イキウメのコンセプトは、「生きながらにして彼岸を覗く」である。劇団名が表すように、生きながら埋められることで見える世界が、舞台上では作られる。そのためどの作品においても、必ず現実の社会を生きる人間の視点を持つ登場人物が存在した。しかし「The Library of Life まとめ*図書館的人生(上)」では、現実を生きる人間の視点を持つ登場人物は存在していなかった。この作品には、「再生される人生」に生きる人々のみが存在する世界が描かれていた。
「再生される人生」、それは演劇そのものだ。舞台では、毎日誰かの人生が始まって終わりを迎える。何度も再生される人生が、舞台には存在している。観客は、再生される人生を読む読者だ。しかし観客が観る舞台は、一度きりの人生の物語なのだ。昨日と完全に同一の物語は、2度観ることが出来ない。舞台上の彼らは、昨日と同じ人生を生きながら、新たな訪問者を観ている。訪問者との一瞬の邂逅と、舞台上で毎日繰り返される唯一無二の人生。本を読んでいるのは、観客なのだろか。それとも舞台上の彼らなのだろか。
「再生される人生」の物語は、異界の入口を通じて、舞台で演じられる現実である図書館を侵食し始めた。本の中に存在する彼岸が現実になり、イキウメの創造した舞台のそのものを、物語として綴じようとしている。過去を書き終えた本の作者は、次に何を書くのだろう。この疑問は、「The Library of Life まとめ*図書館的人生(上)」では解決されない。次の「The Library of Life まとめ*図書館的人生(下)」が楽しみだ。
(2012年11月22日19:00観劇)