FUKAIPRODUCE羽衣「サロメvsヨカナーン」

9.そして私は途方に暮れに(大泉尚子)

 「そして僕は途方に暮れる」…劇中歌ではない。FUKAIPRODUCE羽衣の舞台を見ると決まって私の脳内に浮かぶ大沢誉志幸の歌のサビ。これまで何度か見てきた羽衣は、決して得意な劇団ではない。だが、観客の口コミも審査の参考にするという「CoRich舞台芸術まつり!2012春」のグランプリなどを受賞し、複数のレビュアーからも高い評価を得て破竹の勢いが感じられる。
 で、劇団は少々苦手でも、プロデューサーでもある深井順子は素敵な女優さんの印象が強い。小柄ながらねっとりした動き、湿り気をたっぷり含んだ声で、エロティックとかセクシーというよりも「お色気」という言葉が似合う。
 一度、別の劇団の公演で言葉を交わす機会があった。舞台の印象とはまた異なり、爽やかな木綿の手触りの女性でさらに好感度がアップしたが、胸の内では(ごめんなさい、私、羽衣はわからないんです)と手を合わせていた。
 ところで今回の「サロメvsヨカナーン」、途方に暮れたのは私だけではなかった。舞台上にも一人、途方に暮れて佇んでいる人物が…。もしかしたら、ここから入っていけるかもしれないと、ほんの微かな光を感じたのだった。

 幕が開くと7つものミラーボールが回り、天井から何本も釣り下がる紐状のものには透明なキラキラがいっぱい。オープニングは雨のシーンで、キラキラはきっと雨粒なのだろう。以降、ラストまで雨の場面が断続的にいくつも出てくる。となれば傘も大事な小道具。「夜目遠目笠(≒傘)の内」というくらいで、傘の下の女性が色っぽいというのは通り相場だ。冒頭、相合傘の男女は「サロメ」「ヨカナーン」と呼び合う。
 といっても、見ているうちすぐ気付くのだが「サロメ」と「ヨカナーン」は一組だけではない。七組ものペアがいる。
 その関係もさまざまで、街一番の歌手とヒモ、小さい子どもがいてダンナは飲んだくれの夫婦、不倫3年目のカップル、ボーリング場に行く中年男と若い娘などなど。そんな二人が、部屋で、しけこんだホテルで、ボーリング場のトイレで、旅先でイチャイチャ…どころか、しっぽり、ずっぽり、ぐっちょり(!?)を各種バリエーションで繰り広げる(こういうのが漏れなく出てきて際限もなく延々と続き、それ抜きで考えられないのが羽衣なのだが)。そんな雨の夜の物語たち。

 そこにからむともなくからむのが、タクシー運転手とお客。パブで歌手のサロメの歌を聞いたお客は、丘の上の家に帰るためにタクシーを拾う。ところが運転手に「お客さんとは話が合う」と一方的に決めつけられ、10分で着くところを、一晩中街をぐるぐる回られる。それもボラれるわけでもなく「料金はもういいよ」なんて言われながら、結局元の場所に戻されてしまう、と不条理にも気の毒極まりない。しかもタクシーといえどもそこには何の小道具もなく、二人は歩きながら演じているから、そのトボトボ感はいや増す。
 この客、はじめから実に心細げで、セリフもぼそぼそとよく聞き取れない。途中で、アレッ、これを演じているのは枡野浩一ではないか!と気付く。「かんたん短歌」などで知られる若い人に人気の歌人で、五反田団の「生きてるものはいないのか」「生きてるものか」にも出演していた。

 羽衣はヘタウマなどとも言われるが、この人を見ていると、劇団の役者たちが決して下手なわけではないのがよくわかる。演技もだが、「妙ージカル」と称してふんだんに盛り込まれる歌やダンス。たとえば群舞にしても、テンポやタイミング、足の上げ方の向きや角度など、合わせる気はまったくなく、技術的なところはてんでどうでもいいように見えて、その分各人のもつ個性や癖を生かして味に仕立てている。それなりにテイストもトーンも揃っていて、ひとつの“らしい”雰囲気を醸し出しているのだ。枡野という異分子が入り込むことで、そのことがよく感じとれた。
 で、枡野が全然ダメなのかというと正反対で、何で僕はこんなところに…といういたたまれなさが全身に溢れ、その存在感のなさは雨の透明さにも通じて、ある種の浮遊感を出していた。この芝居のキーパーソンは、むしろ運転手と客だと私には感じられたし、冒頭でふれた羽衣の狭き門を私にこじ開けてくれたのは、言うまでもなく枡野演じるお客である。

 さて、見終わっての思ったのは「えっ、一体どこがサロメなの?」ということ。私は、原作であるワイルドの「サロメ」をきちんと読んだことはなく、有名なこの話の大枠をぼんやりと知っているだけだ。
 でも、タクシー運転手のセリフには自分は「この街の王」というのがあり、上演台本を見るとエロドという名前がついているので、サロメの義父ヘロデ王を模しているのかなぁと、そんな検討はつく。聞けばセリフにはずいぶん引用的なというか、モチーフを重ねていた部分が多かったのだという。
 ただ問題は「サロメ」と「ヨカナーン」の関係性。ヘロデは義理とはいえ娘であるサロメの美しさに劣情を抱き、彼女は、惹かれているのに自分を一顧だにしないヨカナーンの首を義父に所望し、生首に接吻までする―。その倒錯した愛憎関係が原作の肝ではないのか。
 ところが舞台には、ラブラブから腐れ縁までいろんな段階のカップルが出てくるが、ちょっこっと揉めたりはしても修羅場まではいかず、基本的にその関係は平和で牧歌的。同性愛はおろか、性暴力もロリコンも、スカトロジー(糞尿趣味)もネクロフィリア(死体愛好)も、異端的なもののかけらもない(ゲロを吐いてしまったサロメにキスするところで、ほんのちょっぴりカスりそうだったけれど)。いわゆる“まっとうな”性愛の形、男女の組み合わせばかりなのだ。

 そして、またしてもそうした男女のニャンニャンぶりを、これでもかこれでもかとやられるのには参ってしまった。「で、それがどうした?」と言いたくもなってくる。そもそも、みんなこういうものを、一体どんな顔で見ているのだろう?
 劇場は、一人で行けば他人を横に舞台を見るところだが、見知らぬ人と一緒に、これをどういうふうに見ていたらいいのかがわからない。あまり前のめりになるのも恥ずかしいし、シラッと引いて見ているのも、斜に構えているようで気が引ける。というか舞台より、隣の人の方が気になってえらくエネルギーを使う作品ってどうなんだろう?
 現に、芝居を嫌いになりたくないから、途中で席を立ったという知人もいた。2010年、シアタートラム ネクスト・ジェネレーション vol.2で『あのひとたちのリサイタル』をやった時だ。冒頭の暗転がやたら長く続き、その間ずっと「うっふーん、あっはーん」という声が続いた。そういうのをなぜやるのだろう? いや、別にわからなくてもいいのだけれど、なぜ私はここにいるんだろう?と、そんなことを考え始めてしまう。 果ては、私の人生何だったんだろう?とか…。

 こういうのって、普通は個人的に見るものなんじゃあなかろうか。たとえば恋人同士とか、(仲のよい時代の)夫婦とか。
 自慢じゃないが、わが実家などは家族でTVを見ていて、キスシーンになりそうだなぁと察知すると、誰ともなく(そうそう、たった今思い出したんだけど、やっとかなきゃならないことがあるんだった…)という体を装ってその場をさりげな~く離れていた。そして、もう大丈夫という頃に示し合わせたかのように舞い戻ってくる。一家団らんとはそういうものだと、ある程度の年齢になるまで信じていたのだ。

 いっそハードコアならいい。今日び、小劇場に通っていたら、どこで脱がれても動じないくらいの覚悟がないとやってらんない。全裸とかセックスシーンとか、相手が気合と腕力でくるなら、重心を丹田に下ろして奥歯を噛み締め、力には力で抗するまでだ。例えばポツドールの「夢の城」。その手の場面や暴力的なシーンの連続で、性を描いて硬派である。3回に1回くらいはホントにやっちゃってるんでは?という噂が乱れ飛ぶくらいの真に迫りっぷり。そこには明らかな意思が感じられるから対応できるのだ。
 ところが、こういうふにゃっとした軟体動物のような、しかも笑いをからめた“お色気”あるいは“卑猥さ”には、対抗する手段を持たないし居場所を失う。お客(枡野)以上にいたたまれない。

 ところが今回の舞台は、もしかしたらちょっと違ってきたのかな、あるいは自分がこれまで見落としてきたのかな、というところがあった。
 歌に何度も出てくる「ひとりぼっちよりもましだから愛してる」や「セックスのない夜 男も女もなくなる」といったフレーズ。多少シニカルだったり諦観的ではあっても、特別目新しい言葉というわけでもないが、一昔前でも鼻白むほどのコテコテのやりとりの中では、むしろそういう表現が新鮮に立ち上がってくる。そして、サロメとヨカナーンが海に溺れ死んだとも受け取れる場面。ラストの、置いていかれた子どもが真夜中の街にさ迷い出て例のお客と出会い、手を繋いで雨を見ているというハンパな終わり方。
 恋や性愛への手放しの讃歌だけではない何か、その先にあるもの、目の端をほんの微かによぎる死の影、だからこその再びの人肌恋しさ。投げられたのは、思っていたより少し遠いところへだったのかもしれない。それを言うのに、真面目な顔では照れくさくて絶対言えない、ダサダサのすったもんだに紛らさなくてはという、実はとても真摯な何か。

 ここに至って、先にまっとう過ぎて「サロメ」とは似ても似つかないとイチャモンをつけた男女の関係性も、それが正しいと大上段に主張しているわけでばないと気付かされる。だから、決してカッコよく決めたりはしないのだろう。そこにあるのは、モチーフはふんだんにまとっても、俺らここだけは譲れない、これしかあり得ないんだよね~という、シャイな身振りに乗せつつの正直な提示だ。

 それからリフレイン。最近の作品には、セリフや動作やストーリーに繰り返しを使ったものが多く、それもまったく同じ形で何回もとか、少しずつずらしてとか、いくつかのバリエーションもある。羽衣はこれまでも、歌やストーリーにリフレインを多用して物語世界を展開していくやり方を取り入れていて、それもけっこう老舗の部類に入るのではないのだろうか。
 新情報をどんどん繰り出し畳み掛けるのではなく、多くはないものを執拗に繰り返す。繰り返されるうち、観客にはなだらかな想像力が働き、いろいろな絵やイメージも浮かんでくる。古いようで新しい、新しいようで古い世界が垣間見える。そういえば、羽衣の大きなテーマであるセックスも、人生においてときめきもするけれどうんざりもする繰り返し、毎度同じようでいてそのたびごとに違い、違っているようで生命というひとつの大きなうねりに綴じこまれていく、そんなものなのかもしれない。

 男と女のいちゃつき話をぐだぐだと繋げ、どこから見てもお洒落ではなく、ともすれば泥臭く、無駄に熱く語り歌い踊ってばかりでほとほと閉口と感じていた羽衣だが、入り込む隙間の手触りが少しは感じられてきた。
 何だか散々に言ったけれども、ついまた見に行ってしまうような気がする。性懲りもなく途方に暮れに。
(2月1日観劇)

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