FUKAIPRODUCE羽衣「サロメvsヨカナーン」

4.繰り返されるフレーズ、増幅する想い(福原 幹之)

 FUKAIPRODUCE羽衣を劇場で観るのはこれで6回目だ。観たあとでいつも思う。ストーリーと言えるものはあったのかな、これは演劇のジャンルに収まっていないのではないかな、コントというわけではないし。おかしくて笑っていたのに、いつの間にかほんわかした愛情とねっとりしたセックスに、自分の体が溶けてゆく。これは、観劇というより体験と言っていい。そう、FUKAIPRODUCE羽衣を体験したのだ。

 彼らの舞台は、性と愛のシーンをいくつも切り取って、爽やかな歌でつなぎ合わせている、という感じだ。性の世界を、こんなにも楽しそうにやって見せられると、「えっ」と思うのは始めのうちだけで、どんどん深みに連れて行かれる。そして、見てはいけないものを見てしまった、他人に話せないものを共有してしまったというような、共犯意識のようなものを感じる。後ろめたくもあるが、タブーからの開放感に満たされてゾクゾクもする。
 記憶に焼き付けられるのは、目を見開き恍惚たる表情を全開にした、役者たちの汗まみれの顔だ。日常的には隠している表情を過剰に前面に出し、セックスで感じる我を忘れるほどの快楽に、観客を巻き込んでゆく。ただし、その現実離れした表情は、ヤングアダルト向けのアニメのようでもあり、恋人同士の会話にしてもお茶らけていて、まじめなエロとは言い難い。そうは言っても、閨の睦言は恋人たちの秘密だなどと思っている観客には衝撃だ。観客が役者との間に距離を置こうとしても、役者の方がその境界を越えてくる。心理学で自分と相手の間に緊張感がなくなり、相手を受け入れることを、セルフが広がると言うが、ここでは役者のセルフが劇場全体に広がっている。そして、役者の快感が観客に伝染するのだ。

 この劇団の魅力は、お茶目なエロスに満ちているというだけではない。HPで自分たちのことを「作・演出・音楽の糸井幸之介が生み出す唯一無二の『妙ージカル』を上演するための団体。妖艶かつ混沌とした詩的作品世界、韻を踏んだ歌詞と耳に残るメロディで高い評価を得る演者のパフォーマンスが特徴」と紹介しているように、ニューミュージック系のアコースティックサウンドが耳に心地よい。ダンスや動きが激しいせいか、歌は上手には聞こえないが、カッコつけてないところが洗練されていなくて、かえって共感を呼ぶ。ドラムやギターのリズムに乗せて紡ぎだされるベッドルームトークの数々は、いつか自分にもあったと思わせるような、あるいはこれからありそうな身近なシーンを集めている。コントでもないのに、ドアを開ける仕草の時、自分で「ギィィガシャ」などと擬音語を挟むところも、演劇というよりもエチュードのパフォーマンスを見ているようで、観客との関係を近くしている。

 舞台美術も楽しみの一つだ。2010年の「あのひとたちのリサイタル」では糸井幸之介が2時間の公演の間、舞台背面の絵にペンキでずっと色を塗り続けていて、終演の時にどうなっているのか楽しみながら観ることができた。同年の「愛死に」では、舞台の上方に巨大な円筒形のステンドグラスというか走馬灯の内側の筒が吊るされており、愛の宴を想起させる色とりどりの切り絵模様が、見ていて飽きることはなかった。また、2011年「甘え子ちゃん太郎」や2012年「耳のトンネル」では巨大な手や耳のオブジェが舞台を飾り、ファンタジー的な世界観を作り上げていた。今回も3000個のチュッパチャップスを、雨の滴に見立てて舞台全面に吊り下げたのは、アイデアとして面白かったと思う。

 さて、今回の舞台。冒頭に7人のヨカナーンが出てくる。ドレスシャツにスーツの上着、下半身は黒のタイツだ。「シャー!シャッシャッシャッシャッ」とベースのリズムに合わせ、歌い踊りながら出てくる。この瞬間、観客席から緊張感が消える。
 すべて、雨の中の物語である。微笑ましくもあり、いじらしくもある7組のサロメとヨカナーンの何気ない会話が、雨音の中で哀愁を誘う。恋人たちや夫婦、ナンパや不倫と関係は様々だが、共通するのは、お互いを気遣うやさしい眼差しだ。それらがコーラスを挟んで次々と繰り出される。オスカー・ワイルドの「サロメ」がモチーフになっており、その台詞のいくつかは、ワイルド系な街(田舎っぽい)の一夜の物語に差し込んである。街の女を見つめるこの街の王として、硝子のタクシーの運転手エロドが、9つのシーンの合間に何度か登場する。タクシーの乗客であるワイルド系な男は、ふつーの人なので、観客はこの人の目線で舞台に参加することができる。雨が降っているタクシーの外側が水槽の中で、タクシーの中が水槽の外だ。つまり、戯曲で「サロメ」を読むのと同じ目線が観客に確保されている。

 原作の「サロメ」を読むと、FUKAIPRODUCE羽衣のストーリー展開と似ていることに気付く。すなわち、繰り返されるフレーズを挟んで、会話が展開したり、異なるシーンを次々と入れていく手法だ。
サロメ「おまえに口づけするよ、ヨカナーン」…
エロド「おれに踊りを見せてくれ、サロメ」…
サロメ「私にヨカナーンの首をくださいまし」…
 ここに挙げた3つのフレーズは、繰り返し使われ、お互いの困惑と欲望を増幅させてゆくのに役立っている、FUKAIPRODUCE羽衣でも、音楽やリズムをつけて同じことが行われている。彼らの使っているフレーズはトーパンの表紙に使われていたが、その一つを引用してみよう。

  一々欧羅巴風(いちいちヨーロピアン) 人生はイカサマだよ
  一々欧羅巴風 人間はペテン師だよ
  一々欧羅巴風 イッちゃってる神経で愛を語ろうよ  baby I love you! 

 このフレーズを歌に乗せて繰り返し、7組のサロメとヨカナーンのエピソードを切り貼りして並べることで、モザイクの恋愛が模様に見えてくる。この街のサロメとヨカナーンたちは、ごく普通の人たちで成功者というわけではない。人生は思い通りにいってないようだし、うまくいかないのは自分のせいなのに、自分を偽って人のせいにすることもあるだろう。でも、愛があればこんなに心温かい日々を過ごすことができるのだ。愛のコミュニケーションの大切さが、シーンを重ねる毎に厚みを増して伝わってくる。時に同じシーンが他のカップルのシーンを挟んで出てくるのだが、これはきっと、同じことを毎日繰り返す中で、愛も深まってゆくということなのだろう。愛の営みが充実すれば、人生は明るくなるじゃないか。愛こそすべて。愛とは何か伝えたいのだ。

 「イッちゃってる神経で語る愛」こそ、この劇団の真骨頂だ。サロメ1役の深井順子が「あっ♡ 彼の唇があたしのうなじを吸った時、洋服の中に手が入ってきた。ブラをずらしてコリッとな。あー恥ずかし、もー乳首、硬くなってた。コリッとな、あっ♡ あたしは首をギューンと後ろに回し、彼にキッスをせがみまチュ。コリッとな、チュッ♡ ……」なんてことを言うとき、男は平常心ではいられない。こんなセリフ、現実にはあり得ないと思ってはみても、あこがれてしまう。それは、こんなセックスができる二人の関係が、相手を信頼しきって身も心もさらけ出しているものだと分かるからだ。
 二人の体が溶け合うような快感、二人で気持ちよくなりたいという欲望は、まともに正面から語っても誰も取り合ってくれない。例えば、蜷川幸雄がこれをテーマにして説得力のある演出をしたとしても(しないと思うけれど)、観客の心を裸にすることはできないだろう。イッちゃってる神経で語るから、常識とか世間体とかに囚われずに、純粋に愛だけを考えられる。シリアスでないから、本当のことが伝えられる。正しいことを伝えたいんじゃない。確かなことを心に届けたいんだ。
 そのために、彼らの「妙ージカル」はもってこいの方法だ。笑わせておいて、こちらが油断している内に、心の中に浸みてくる。楽しげなメロディと一緒に、いつまでも心に響いてくる。

 こんなふうに、他の劇団ではできないことにチャレンジしているところに魅かれる。役者の表情を見ていると、空想の中での浮遊感すら感じる。リアルでないから、あそこまで開けっぴろげの表現ができるのだろう。体の力が抜け、頭が柔らかくなったような気がする。やっていることが過激なので、いけないもの見たさで病みつきになってしまう。哀愁を感じさせる場面が増えてきたように思うが、まだまだ、性愛の世界を追求していってほしいと願ってやまない。

 2月13日の毎日新聞に「進む日本人のセックスレス」という記事が載っていた。セックスレス(1ヶ月以上性的接触がなく長期化が予想される状態)の夫婦は2004年の32%から徐々に増え、2012年には41%になったという。また、「16~19歳」の若い世代の47%がセックスに無関心だったり嫌悪感を抱いたりしているらしい。
 この背景には、若いころから手軽に性的充足感を得られる原因を作った性産業の発達もあるが、それ以上に恋愛の駆け引きを面倒くさいと思ったり、愛情のコミュニケーションのとり方が下手になってきたのではないだろうか。
 こんな世の中だからこそ、FUKAIPRODUCE羽衣の存在意義は高まっているのだと思う。
(2013年2月9日19:00の回)

[参考資料]
 2013年2月13日(水)毎日新聞 朝刊17面「くらしナビ」(社団法人日本家族計画協会「男女の生活と意識に関する調査」、日本家族計画協会「ジャパン・セックス・サーベイ」による記事)

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