FUKAIPRODUCE羽衣「サロメvsヨカナーン」

3.落語みたいな『サロメvsヨカナーン』、そして糸井幸之介(須田久美子)

 演劇よりも、落語を観て・聴いて過ごした時間の方が長い。そのせいで、演劇をつい落語と比べてしまう癖がある。『サロメvsヨカナーン』も落語と比べてみたのだが、この作品、実に落語的だ。

 落語との相似の話の前に、FUKAIPRODUCE羽衣と『サロメvsヨカナーン』を簡単に紹介する。

 FUKAIPRODUCE羽衣。その作品の脚本・演出・音楽(時には振付も)を担当するのは糸井幸之助。彼の作品は、役者達が歌い踊る短いシーンが連なって構成されているのが特徴で、彼自身は“妙―ジカル(みょーじかる)”と呼んでいる。ワイルドの『サロメ』を原案とした『サロメvsヨカナーン』の場合は、9つのシーンと、それらの幾つかをつなぐ短い3つのシーンで構成されている。シーンの中心は“ワイルド系な街”の雨の一夜に繰り広げられる男女7組のエピソードである。

「ワイルド系な街」(シーン1):ワイルド系な街に雨が降る夜。バーに集う男たちが、通りを往く傘のギャルたちを眺める。各エピソードの主役となるカップルたちが登場する、オープニング的なシーン。
「硝子のtaxi Ⅰ」:街を流すタクシーの運転手と客の男(=ワイルド系な男)による、狂言回し的な短いシーン。
「一々欧羅巴風」(シーン2):ワイルド系な街を旅行中のリッチな不倫カップルのエピソード。
「プラトニックガーター」(シーン3):さえない中年男と心優しい女の子(実は援交少女?)のボーリング場での一夜のエピソード。
「硝子のtaxi Ⅱ」
「哲学者の腹上死」(シーン4):ラブホで激しく燃えちゃう街のホステスとその彼氏のエピソード。
「サロメvsヨカナーン」(シーン5):働かずにバーで飲んでいる亭主と彼を連れ戻しに来たその妻のエピソード。
「セックスのない夜」(シーン6):この街のスター的存在の女性歌手と長年彼女を支えてきた恋人のエピソード。
「硝子のtaxi Ⅲ」
「甘い船旅」(シーン7):港に停泊する輸送船に忍び込んだ豪快な女と年下の彼氏のエピソード。
「暗いMAX」(シーン8):マンガ喫茶でデートする、チャラくてちょっと頭の弱そうなカップルのエピソード。
「LAST LOVE」(シーン9):エピローグ的なシーン。なかなか家に戻ってこない両親(=働く女と無職の亭主)を探しにきたのか、一人夜の街にさまよい出た小さな男の子。タクシーを降りたワイルド系な男が偶然男の子を見つける…。
※各シーンのタイトルは会場配付のパンフレットを参照した。

 シーン1~6には、シーンごとに異なる楽曲が用いられ、それらは全て糸井幸之介作詞・作曲のオリジナルナンバーである。FUKAIPRODUCE羽衣の数ある魅力の一つは間違いなく彼の音楽だ。その曲のフレーズは耳に残りいつまでも頭を離れない。とりわけ歌詞は印象的だ。詩的と呼ぶには直截的で、しかし心に深く刺さる言葉。本作品ではメインナンバー的な楽曲「サロメvsヨカナーン」(シーン5の音楽)で繰り返される「ひとりぼっちよりもましだから愛してる」という歌詞が強烈な印象を残す。
 音楽といえば、この公演では上演の前後にThe Smithsのアルバム「THE QUEEN IS DEAD」を流していた。洋楽に疎いわたしは後々人に教えられて知ったことだが、劇中の「硝子のtaxi」のシーンは、どうやらこのアルバムの「There is a light that never goes out」(終演後に流れる)にインスパイアされて出来上がったものらしい。「今夜僕を連れ出して…(略)…君の車でドライヴしよう 家にだけは帰らない…」と歌うこの曲の、あてどなく車を走らせる若い二人は、ワイルド系の街を走り続けるタクシーの運転手と客に重なる。劇中、タクシー運転手は客の男をなかなか降ろさないのだが、それは「家にだけは帰りたくない」というこの歌に応えていたからなのだ。この曲を含めてThe Smithsの「THE QUEEN IS DEAD」は、『サロメvsヨカナーン』の世界観や糸井幸之介の恋愛観の一端を知る手がかりになりそうだ。

 糸井幸之介が一貫してその作品の中で描いているのは、恋愛の、生(性)と死の、様々な形・在りようである。『サロメvsヨカナーン』も同様だ。ワイルドの『サロメ』を原案としているが、糸井幸之介オリジナル作品として観たほうが、彼の世界を素直に愉しめるだろう。ただし、ワイルドの脚本の要素はかなり用いられている。今回わたしはこの舞台を二回観て、二回目の観劇の前に初めてワイルド(福田恆存訳)の脚本を読んだのだが、脚本を読んでから舞台を観ると、原作の台詞やモチーフが意外なところに使われていることが分かり、一回目よりも一層愉しかった。
 例えば、いくつかのシーンのタイトルは原作に用いられたビアズレーの挿絵のタイトルをもじっており(「プラトニックガーター」はビアズレーの「プラトニックな歎き」、「暗いMAX」は「最高潮(クライマックス)」…等)、あるシーンで舞台の背景にタクシー運転手の眼元のアップが大きく映写されるのも、ビアズレーの「エロドの眼」を意図したものだろう。「硝子のtaxi」の中で、運転手がファミレスの駐車場で車をドリフトさせるシーンは、エロド王が血に足を滑らせて恐れおののく場面から作られたのではないだろうか。原作そのままの台詞や原作の設定・場面を基にしたセリフも少なくない。原作の「そこであの男(=ヨカナーン)は蝗と花の蜜を食つて生きてゐた」という台詞を踏まえた、タクシーの客(桝野浩一)の「蝗と花の蜜だけで生きていけそうな気がします」という台詞には思わず笑ってしまった。俳優のとぼけた風貌と相俟って、なんともいえない可笑しみがあった。
…というように、音楽、ロック、古典戯曲の知識があれば、さらに深く読み解けそうな作品である。

 さて。そんな『サロメvsヨカナーン』の、またFUKAIPRODUCE羽衣(≒糸井幸之介)作品の、どんなところが落語なのか?

 まず、“ありきたりのサエない人生の讃歌”であること。
 『サロメvsヨカナーン』に出てくる男女は皆サエない。ゴージャスな不倫旅行の夜、ふとよぎる男への不満と不安から、つい飲み過ぎてみっともなく吐いてしまう女。ボーリング場のトイレで女の子にお口でしてもらいながら、子供もなく歳をとっていく自分を、老いていく両親を思う中年男…。まったくカッコ悪い、カッコ悪いを通り越して哀しい。でも、それがごく普通の人間だろう。メインナンバー「サロメvsヨカナーン」は、そんな普通のサエない人間の一生を、見下すでなく美化するでなく、ただ明るく謳いあげている。
 一方の落語にも、色恋の噺はたくさんある。そこにも、『サロメvsヨカナーン』同様に愚かでサエない男女が登場する。酒癖が悪く客の酒を断りきれなかったばかりに、惚れた女との約束を守れず幸せを逃してしまう幇間(『つるつる』)、男を騙して巻き上げた金を、惚れた男に騙され貢がされる女郎(『文違い』)、働かない年下の亭主にいつ捨てられるか?と不安でたまらない髪結いの女房(『厩火事』)…。そんな男女が、自分と等身大の主人公が、ダメはダメなりになんとか生きている・笑っている。そんな姿に共感する、ほっとする…。それが、落語だ。つまり、立川談志が「忠臣蔵の四十七士じゃなく、(討ち入りせずに)逃げちゃった奴等が主人公」と言い、「(人間の)業の肯定」と言った落語も、また“ありきたりのサエない人生の讃歌”なのである。

 次に、“猥雑さ”と“笑い”。
 『サロメvsヨカナーン』の舞台“ワイルド系な街”は、この作品が上演された東京芸術劇場がある池袋(北口にはボウリング場や風俗店が並ぶ歓楽街がある…)を彷彿とさせ、それは落語の数々の廓噺の舞台である、江戸の昔の吉原、新宿・品川といった岡場所と重なる。賑やかで気の置けない猥雑な街。そんな場所を舞台に、笑いで描かれる男女の駆け引き、あけすけな性。
 例えば『サロメvsヨカナーン』の「哲学者の腹上死」では、ホステスの女とその彼氏が激しくコトに及び、女は「気持ちヨカナーン!」と叫んで男をなかなか離さない。実にもって下らないバカバカしい(誉めています)シーンが執拗に続くこのエピソード、落語ファンは『吉田御殿』を思い出すかもしれない。落語の『吉田御殿』は、男好きのお姫様が、御殿の傍を通りかかる男をつかまえては御殿に引き込み、男が精根尽き果てて死ぬまで離さない…という、下世話な落語の中でもかなりえげつないバレ噺(艶笑噺)だ。現在、この噺を手掛ける数少ない落語家・柳家喬太郎は、これを高座にかける時、噺の途中で「あの、いいですか、落語ってそもそもくだらないものなんですよ。」「怒ってます?」と客席に度々申し訳なさそうに念を押し、しかし結構楽しそうなのだった。
 『サロメvsヨカナーン』や『吉田御殿』のセックスの取り上げ方や笑いは、観る人の好み・評価を大きく分ける。だが、糸井幸之介や柳家喬太郎が、恋愛や性にああした笑いを塗すのは、彼らが恋愛や性を描くことに執着がある一方で、人一倍、含羞や醒めた意識があるからだろう。

 それから、もう一つは“暗さ”である。
(“FUKAIPRODUCE羽衣と落語”というよりは、“糸井幸之介と柳家喬太郎”という話になってしまうが…)えげつないバレ噺で客席を爆笑させる(時にはひかせる)柳家喬太郎は、落語ファンには周知のことだが、古典と新作の両刀使い、それもかなりの名手だ。盲人の男の心に潜むコンプレックスとエゴが露わになる一瞬が、怖ろしくも哀しい『心眼』(古典落語)。犬に生まれ変わり振られた女のペットになった男が、再び女に飽きられ餌も与えられずに死ぬ、ハエが群がるその死骸は道端に無造作に捨てられる…その結末に心も凍る『棄て犬』(新作落語)。人の心の闇・恋愛の残酷を描き、笑わせながら最後に聴き手を震え上がらせる彼の落語。それに似たものが、糸井幸之介の作品にはある。
 『サロメvsヨカナーン』は、終わりに近づくにつれ暗さと淋しさが増していく。最後の三つのシーンの、船から投げ出されてどうやら二人一緒に溺れる運命にあるカップル(「甘い船旅」)、視界がみるみる暗くなって何も見えなくなる女の子(「暗いMAX」。原作の、黒雲が月を覆い暗くなるラストを暗示しているようだ)、夜の街で知らないよその子どもと手をつないで佇む男(「LAST LOVE」)。どれももの哀しい。三つのシーンには歌も踊りもないことも、その印象を強めていた。あの暗さは、原作『サロメ』のイメージに倣ったのかもしれないが、過去に観たことのある作品(『甘え子ちゃん太郎』『耳のトンネル』)にも共通しており、やはり彼の持ち味の一つだろう。

 ところで、糸井幸之介の暗さ、その源には何があるのだろう?それを解くヒントを探しながら、公演の後で糸井幸之介のTwitterを遡って読んでみた。その中に、『サロメvsヨカナーン』に関する糸井のこんな呟きがあった。「燃え盛る情熱で、人生讃歌するのは簡単ですが、消え入りそうな情熱で、それでも人生讃歌できるかな?というチャレンジです」。また、彼の家庭の日常を呟いた言葉も目に留まった。「お風呂で息子が妻に、ママ大好き、と言っているのが聞える。僕はビールを飲んでいる。」
 あの歌の歌詞のように、糸井幸之介も、恋をして、結婚して、息子ができた…という人生の一地点に居ると考えてみる。小さな子どもと母親、とりわけ男の子と母親の繋がりに比べたら、男の子と父親の繋がりは幾分弱いものだろう。愛おしい息子、けれど息子は自分が彼を愛するほどには、自分を愛してはいない。そんな一方通行の頼りない愛で繋がれた父と子。
舞台のラストシーン、雨の夜に軒下で小さな男の子と手をつないで雨を避ける男は、糸井幸之介のようにも思えてきた。様々な愛を経て、今の彼にとっての「LAST LOVE」は息子への愛なのか。頼りない愛を握って心細く立つ彼が、自分へ、世の中の全ての人へ贈る人生讃歌。それは、猥雑で笑えて、そのくせ暗く淋しい。
…やはり、そうだ。『サロメvsヨカナーン』は、やはり落語に似ている。
(観劇日時 1回目 2013/2/2 19時~/2回目2013/2/9 19時~)

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