FUKAIPRODUCE羽衣「サロメvsヨカナーン」

8.毒のある花(都留由子)

 「シャッ、シャッ、シャッ、シャッ、シャッ、シャーッ」「君の名前はサロメ、あなたの名前はヨカナーン」「セックスのない夜、セックスのない夜」あれ以来、頭の中でずっとぐるぐるぐるぐるしている音楽と歌詞と舞台上で踊る役者たちの姿。きっとわたしは風の谷のナウシカみたいに「フカイノドク」にやられてしまったに違いない。

 深井順子がプロデュースする劇団、FUKAIPRODUCE羽衣の新作は「サロメvsヨカナーン」脚色・演出:糸井幸之介、原案「サロメ」ワイルド作/福田恆存訳である。
 原案であるオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」は、よく知られている通り、ユダヤ王エロドの娘サロメの物語。美しい預言者ヨカナーンに恋をしたサロメが、継父エロドのために「七つのヴェィルの踊り」を踊り、その褒美として、全く振り向いてもくれなかったヨカナーンの首を望む。この預言者を畏れるエロドは何とか殺害を避けようとする。が、結局はサロメの望み通り、王は銀の盆に乗せたヨカナーンの首を与え、サロメは血まみれのその唇にキスをする。エロド王はサロメを殺させるというのが幕切れである。ワイルドの作品のうち最も有名なもののひとつであり、同時に、ビアズレーの美しくもグロテスクな挿絵も大変有名である。

 FUKAIPRODUCE羽衣の「サロメvsヨカナーン」は、しかし、それとは趣が異なる。場所は、どこかの盛り場。登場するのは、7組の男女である。男性は黒のきちんとした上着に、それには不似合いなぴったり黒タイツ。女性は様々な衣装を着て、色とりどりの傘をさし、顔を隠して登場する。この物語は、雨の中の物語なのだ。女はみんなサロメ、男はヨカナーンと呼ばれている。特に装置もない舞台には天井から糸につながれて連なった棒つきキャンディが無数に下がっていて、輝きながら落ちてくる雨粒のようだ。当日パンフによれば、「チュッパチャプス3000個」を使ったということだった。3000個!
 趣は異なるのに、糸井は台詞のあちこちに、ワイルドの台詞を忍ばせる。とてもうまく忍び込ませていて、違和感がない。「あ、やべー」とか「知ったこっちゃないよね」などのくだけた台詞と「まるで銀の鏡に映る白薔薇の影そっくりだ」などという福田恆存訳の修辞的な台詞をこんなふうに自然に並べるためには、並べる糸井にもしゃべる役者にも、力が必要だろうと思う。かつて若気の至りで“世紀末のビョーキな芸術を好きなワタシ”に憧れ「サロメ」も何回か読んだわたしは、舞台を見ながらワイルドの台詞がいくつかあることに気づいたが、台本を読んでみると、もっとずっとたくさん使われていて、違和感がないように前後の台詞は注意深く工夫されていることがわかり、なるほどと感心した。

 雨の夜、バーで飲んでいる男たちは、通り過ぎる「ギャル」に声をかけ、待合せの女を待ち、ショッピングの終わった女を迎えに行き、探しに来た妻に発見され、町へ出ていく。そして、そこで何をするかというと、幼稚園児に、「ねえ、『コリっとな』ってなーに?」とか、「『口で頼んます』って何を頼んだの?」などと尋ねられたら、ちょっと返事に困るようなことが舞台上で繰り広げられるのだ。

 雨の盛り場を漂う7組の男女。それは、ワイルドの戯曲の中でサロメが踊った「七つのヴェィルの踊り」だろう。七つのヴェィルの踊りについて、ワイルドは、「サロメ、七つのヴェィルの踊りを踊る」とト書きに書いているだけで何の描写もしていない。サロメが、ヨカナーンの首を手に入れるために踊り、継父エロドを魅了した踊りは、雨の夜の、この7組の男女だったのだ。

 それぞれのエピソードの間を縫うように、この街のスターのショーを見たあと帰宅しようとする男性と年配のタクシー運転手のやりとりが入る。この街の王だと名乗る運転手は、「お客さんとは話が合う」などと言って街の中をあちこち運転し、あまつさえお客を乗せたままドリフト走行まで楽しみ、一向にお客を送り届けようとはしない。道行く女性をじっと見たりもする。お客の男は、好きな食べ物を聞かれて、蝗とか花の蜜でも生きていけそうな気がすると答えるが、蝗と花の蜜は、ワイルドの「サロメ」では、ヨカナーンが沙漠で食べていたものとして語られている。

 そしてもちろん、歌とダンスである。羽衣の歌とダンスは妙ージカルと呼ばれているらしい。わたしは、ミュージカルもレビューもそれほどたくさん見ているわけではないが、覚えやすくて帰宅後も頭の中でぐるぐるする歌と、よく聞くと面白いことを言っている歌詞(音楽:糸井幸之介)と、汗を飛ばして結構な時間続くダンス(振付:木皮成)は、なかなかのものだと思った。
 妙ージカルと言うだけあって、洗練されたとか、一糸乱れぬとか、すばらしいハーモニーとか、そういう形容はあまり似合わない。ダンス場面など、もうちょっとかな、という人もいるし、そもそもミュージカルスターというには、失礼ながら、どの役者もちょっと庶民的すぎる雰囲気である。「この街のスターだから」と言われる歌手のサロメでさえも、歌もうまく雰囲気もさすがだが、どこかちょっとくたびれた生活感が漂い、この街のスターではあっても、世界のスターではなさそうな設定だ。
 しかし、この舞台の歌もダンスも、客席のわたしたちのどこかをぎゅっとつかむ力は確かにあって、なんだこれはと思いながら目が離せなくなる。妙ージカルとはそれこそ言い得て”妙”だ。

 また、カッコよくないダンスみたいにしているけれど、それはもちろんわざとそうしているのであって、役者の力は確かだと思われる。バーの場面でも他の場面でも、実際には何もないのに、たしかにグラスを持ってウイスキーやブランデーを飲んでいるように見えたし、「テーブル、ネーブル、剥いてしゃぶる」と歌いながら手を動かすと、そこにはちゃんとテーブルの平らな天板が見える。役者の身体的能力はかなり高いと見た。

 なのだけれど、見ている間、わたしはだんだん居心地が悪くなってきた。あまりに同じようなことが繰り返されると思えたからだ。最初は面白いと思って見ていたのだけれど、こんなふうに次から次へと繰り出されると、いささか食傷した気分だ。

 ワイルドの戯曲では、サロメとヨカナーンは結ばれない。ヨカナーンはサロメを汚らわしいと罵倒し、その顔を見ることさえしない。一方、羽衣の舞台では、7組のサロメとヨカナーンは、それぞれ相手を思い、立派な両思いが成立している。もちろん、両思い=幸せとは限らないだろうが、それも含めて、7組のカップルは、みんなそれほど特別な設定ではない。もしかしたら、わたしも気づかずにどこかですれ違ったことがあるかもしれない程度にありふれている。
 それぞれのカップルが舞台の上で繰り広げることも、ちょっとずつ違うけれど、大きな違いはない。みんなヘテロセクシュアルであり、お互いにそれなりの敬意と抑制があって、口汚く罵り合うことも、DVもない。妻を働かせてのらくらしている夫とか、援助交際っぽい女の子とそれを誘うおじさんとか、不倫カップルとか、謹厳実直な立場からは非難されるかもしれない組み合わせもあるが、ふたりの関係そのものは穏やかで、良好そうだ。

 妻を働かせて飲み歩いている夫を妻が迎えに来る。帰りにホテルに寄って久しぶりのセックスの後、帰宅すると、ドラえもんのDVDを見ていたはずの子どもの姿が見えない。ふたりは雨の町へ飛び出す。当然、夫婦は殺気立つが、相手を非難し合ってあわやケンカになるかというところで、ごめん、ついカッとしちまったと謝る。
 いちばん非難されそうなおじさんと援交少女にしても、少女をナンパした内気なおじさんは、少女にボウリングを教え、コーラを奢る。おじさんが少女を襲うこともなく、怖いお兄さんが現れておじさんを脅すこともなく、少女がおじさんの財布を持って逃げることもなく、ただ、ボウリングを教えてくれたお礼にと、少女がトイレの個室でおじさんを「口で」気持ちよくしてあげるだけ。別れたあとは、雨の中を互いに振り返りつつ反対の方向に歩き去るのだ。ふたりとも何度も振り返るのに、タイミングが悪くて視線は合わず、どちらも相手の背中しか見えないのが切ない。
 愛人である歌手のショーが終わるのをバーで待つ男。どうもヒモのようだ。男の作ったパスタを食べながら「あなたの子ども、産めばよかったわ」とつぶやく愛人に、彼は「でも、君はこの街のスターだから」と答える。
 楽しそうに漫画喫茶へ行く若い恋人たち。他愛ないことを話しては実に楽しそうだが、女はどうやら視力を失いつつあるらしい。とうとう視界は真っ暗になるのに、彼女は恋人とくすくす笑い続ける。
 不倫旅行に出て、買い物三昧の末、飲みすぎて嘔吐し、ごめんねと謝る女に、気にすることないと言いながらキスする男。
 密航した船から海に飛び込み、海の中でようやく相手を探し当て、手を取り合ってそのまま沈んでいく男女。
 「やっぱりドンピシャおいらのタイプ」という行きずりの女に声をかけ、ホテルに行く男。ふたりのすることと言ったら、ただもう「きもちイーにゃ」ばかりである。
 みんなとても切なくて、みんなとても哀しい。

 劇場で見ているときには、こんなに次から次へ似たような場面ばかり、などと思っていたのに、どうやらフカイノドクにやられてしまったらしいわたしは、気がつくと「ひとりぼっちよりも ましだから愛してる」とか「君の名前はサロメ、あなたの名前はヨカナーン」なんて鼻歌で歌ってたりする。
 「ひとりぼっちよりもましだから愛してる」。確かに真理ではある。しかしこんなのはまだまだだ。長い人生、ひとりぼっちよりもましだと思って愛したつもりが、ひとりぼっちの方がずっとましだったと唇と噛むことだって多いのだから。
 それにしても「君の名前はサロメ、あなたの名前はヨカナーン」の繰り返しは、本当に耳から離れない。気がつくと「サロメ、ヨカナーン」とつい歌っていた!というのが何日も続いて、ふいに思い出したことがあった。まだ赤ん坊だった子どもをあやすとき、繰り返し繰り返し、何度も何度も、ただ子どもの名前を呼んだこと。それだけのことが、ほかの何より嬉しかったこと。そしてそのたびにわたしを見て子どもが笑ったこと。愛する者の名前を呼ぶ喜び。呼ばれる喜び。何も特別なことはないのに。

 フカイノドクは、これだったのかもしれない。くどいくらいに繰り返されるあけすけな台詞や、卑猥と思えるダンス。ついそこに目が行ってしまうのだが、その奥にあって、じわじわと毒を発しているのは、愛することの、切なく、哀しい、でも、絵空事ではない、シンプルで強い喜びではないか。その鼻白むばかりの直球メッセージに照れて、糸井はこんなふうに舞台を作るのだろうか。
 そう思ってこの公演のチラシを眺めると、白い地に淡い紫の花が2本寄り添っていると思っていたものが、実はその花びらの1枚は目、1枚はぼってりした赤い唇になっていて、ふたつの花の唇はキスをしていることに気がついた。清楚で可憐な花2本だと思っていたのに、実はそうではなかったのかもしれない。
 猥雑でくどいと思われた舞台の奥に愛の真実が隠れていたのとは、きっと裏返しだったんだね。

 見終わって劇場を後にしたときには、くたびれちゃったなあと思っていたのだが、次作をもう一度見に行って、もうちょっとフカイノドクを確かめたい気分になってきた。恐ろしいことに、どうやらわたしは本当に「フカイノドク」にやられてしまったらしい。
(2013年2月8日マチネ、9日ソワレ)

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