劇団オルケーニ「ショックヘッド・ピーター」

9.成長ショックヘッド
  兒島 利弥

 長縄跳びを眺めているようだった
 子供がいないために、家庭の幸せを十分に感じる事が出来ず不満を抱いていた夫婦に、ある日コウノトリが赤子を連れてやってきた。その赤子を大事に育てようとするのだが、成長したら天下一品のだらしなさ。怒った親に腕や足を引きちぎられて死んでしまう子供。悲しむ親の元にまたコウノトリが赤子を連れてきた。その子がある日、スープが大嫌いになり栄養不足でガリガリになって死んでしまう。そしてまたコウノトリが…。

 というように、嘆き悲しむ親の元へコウノトリが赤子を何度も運んでくるのだが、その子供達が悉く死んでいってしまう。親には口酸っぱく注意されたのに、その子達が親の言う事を聞かなかったから…。

 恐らくそんな内容だったと思う。“恐らく”なんて煮え切らない単語を使ってしまうと、もしかして観てないの? と問い詰められそうだが、実際ちゃんと観た。そして自分でも吃驚するくらい物語に追いつけなかった。観劇最中の心境を正直に言うと、長縄跳びを眺めているような気持ちだ。全く輪の中へ入れず、どう入るか考えてるうちに縄跳びは終わり、最後は目を回していた。

 この「ショックヘッド・ピーター」は、東欧ハンガリーから招聘されたジャンクオペラで、上演言語がハンガリー語。日本語字幕付きの舞台だった。舞台両脇の壁それぞれに字幕を映し出させ、何処に座っていても客から見えやすい様になっている。でもこれが私にとって曲者となってしまった。

 字幕付きの舞台は初めてで(映像ならそこそこあるが)、私自身戸惑っていた部分も確かにあった。それも有るのだが先ず、字幕で流れる言葉の難しいことに面食らった。先入観で、子供も観てるから言葉は優しいのだろうと思っていたら、意外に漢字が羅列されて頭がついていかなかった。しくしく一つ。次に、途中でちょこちょこ出てくる詩の理解が追いつかないまま字幕が流れて、しくしく二つ。そして字幕を読んでいるとき、舞台上の遣り取りで場内が軽い笑に包まれたとき、「あぁ、俺は置いてけぼりなんだな」とはっきり区別されたようで、しくしく三つ。

 しかしこのままじゃぁいけない! 字幕が縄なら、縄の中で飛んでいる人達が役者であり舞台そのものだ。早く中へ入って一緒に数を数えたい! 自分も楽しみたい! 今まで両方をしっかり見ようとしたから、瞳があっちへこっちへ行き、見ているようで何も見ていない気持ちになっているんじゃないか。ここはもうどちらか一つを中心にして物語を見ていったほうがいいのではないか。縄をしっかり見て入って行くのか、中の人のリズムを真似して入って行くのか。つまり字幕中心に話を追うのか、字幕をあまり気にせず役者を追うのか。そう気付いたときには前半が終わっていた。

 では後半。其れを実践して上手くいっていれば、冒頭であれだけふわふわしたあらすじを書いている筈はなく。つまりは後半も失敗に終わって最後までしくしくしてしまった訳だ。私はどうやら字幕とうまいお付き合いが出来ないらしい。しかし映像と違って、観るチャンスがほぼ一回の舞台で字幕をやられるとこんなに物足りないと言うか、残念な気持ちになるとは思わなかった。上演言語の異なる作品をより受け入れ易く楽しんでもらうための創意工夫を続けて、私みたいな人がどんどん減っていくことを願ってます。

 さて、東京芸術劇場さんへの今後の期待を載せた縄跳びの話はこれくらいにして、作品の内容に移ろうと思う。これまでの話の流れだと、取り残されてしまった寂しさと、劇場さんへの期待以外何もなさそうに思われるが、意外に、長縄は外から観ても楽しめるものなんだなと後で分かった。確かに上演中は輪の中に入れず寂しかったが、終わってみるとなんだか余分なものが無く、だからこそ観ていたときにふと感じたものを大事にできた。その感じたものというのが、子供達は『死んでいない』ということだ。

 『死んでいない』というのはどういうことだろうか。冒頭でも散々子供達が死んでいくと書いておきながら、ここの感想では死んでいないという。いくらなんでも支離滅裂ではありませんか? と、また誰かに圧力をかけられそうだが、実際に観ていて素直に思った事だし、舞台を観終わってからもその気持ちは全く変わらなかった。劇中では子供が死ぬ。しかし私は子供が死んだと思わなかった。この、現象と心情、の差異を探っていく事で、今回観た「ショックヘッド・ピーター」という作品がわたしにはどう見えていたのかを伝えていきたい。

 子供は案外勝手に育つ
 まず現象、つまり舞台上で起こったことを整理しようと思う。目を回していたから頭の中の映像は場面場面しか思い出せないし、もはや台詞(字幕)はさっぱりだ。ただ整理するとこの物語は大きく分けて五つの場面があり、其れがループしている。『親の嘆き』、『コウノトリ』、『子供紹介』、『死亡』、『歌』の五つだ。親ははじめ子供がいないことを嘆き、コウノトリが赤子を運び、クセのある子供が登場し、死んでしまい、歌が始まり、また親の嘆きに戻る。この五つの場面に整理したとき、コウノトリのところがまず引っかかった。コウノトリは何故この家に赤子を届けつづけるのだろうか? 赤子が来たということは幸せの予兆、象徴みたいに見えるのに、この家族はちっとも幸せにならない。それどころかどんどん不幸にというか、子供が分からなくなって寂しんでいく感じがした。

 だから、「あぁ、子供を送ってるんじゃ無いんだな。もっと別の物をこの鳥は運んで来ているんだな」そう思い直したら色々しっくりきた。実はコウノトリは災いや苦労の運び手で、親の元へ届けに来ていたのはこれから厄災へと育つ厄病神の赤子だった。そいつが育つにつれ、本当の子供が厄病神の性質を受け継いでしまい、だらしなく育ったり、好き嫌いがでたり、指のおしゃぶりを止められなかったり、いい子に育っている様で裏では 暴力をふるったりするのだ。五つ分けした場面と合わせると、『コウノトリ』と、『子供紹介』がここにあたる。

 そして次の場面で死ぬのだが、従って死ぬのは子供の方では無くて厄病神の方になる。厄病神が、本当はそうなったかも知れない子供の未来を引き継いで、死んでくれていたのではないか? そう場面を受け取り思い直すと、結構いいやつだったんだなぁあいつ、と感慨深くなる。つまり疫病神が死ぬということは、親を悩ませていた子供のクセや性格が変化し、成長したことを意味するのではないかと思う。死ぬ、ということはどうしたってマイナスイメージが先行するが、この場合昔の自分を切り捨てて、脱却し成長するというプラスイメージで捉えた。これが『死亡』の場面。

 そういう風に捉えてからの『歌』の場面となると、これはもうどうしたって卒業式になってしまう。劇中の歌の歌詞は忘れたが、ニュアンスとしては神話にでてくるイカロスをバカにする感じだ。親に注意されたのに何でそんなことしちゃったの? あぁかわいそう? そんな風にバカにしたり、皮肉混じりに歌ってりしている様に見えた。だからこれは、成長した自分が過去を振り返り、昔の行動をバカにして笑い飛ばしている場面になる。何だか卒業式というよりも、その後皆で行くカラオケみたいなノリだな。

 さて、一周巡って『親の嘆き』に戻ってくるわけだが、子供が成長しておいてなぜ親が嘆くのか。また、五場面がループしていく中で、つまり子供が成長を続けていく中でどうして親の嘆きが深まっていく様に見えたのか。最後にそれを考えてみたいと思う。結論から言うと、子が親の元からどんどん離れていくことに対しての、寂しさが深まっていく場面なんだと解釈した。

 厄病神に憑かれた子供は、親から注意を受けるがそれが治らない。が、治るときは勝手に治る。厄病神が勝手に死ぬからだ。火事を起こした子も、溺れた子も風に飛ばされて行った子も、親がそうし向けたわけではない。それじゃあ、おしゃぶりを止められず指を切られた子や、体をバラバラにされた子は、親によって厄病神を追い払ったということにはならないのか。実はならない。指を切られた子は最終的に仕立て屋という第三者だし、バラバラにされる子については何度も何度も蘇って、何度も何度もバラバラにされる。バラバラにされる子はきっと、親が生涯通して付き合っていかなければならない部分なのだと思う。

 だから、親が手を尽くしてもなかなか上手くいかないのに、当の本人は勝手に成長していくため、どんどん自分たちの手元から離れていく様に思える子供に寂しがっているのだとも思った。

 総じてこの舞台は「親は無くても子は育つ」と言った様に、親は色々しようとするが、あまりそれに気づかず勝手に成長する子供を描いたものなのかなと。

 そう捉えてみたけれども、先にあげた通り、実は内容にあまりついて行けなかったので、頭に残った場面と、心に引っかかっていた感情を擦り合わせて出来た、余りにも個人的過ぎる意見になってしまった。けれども私と同じく子供が死んでいないように思えた方や、子供が死んでしまうことに抵抗がある方は私の意見の中で、何か気に入った部分があればそれだけでも参考にして貰えたら嬉しく思います。

 「ショックヘッド・ピーター」を観終わって輪に入れなかった残念な気持ちは確かにあったが、それでもいろいろ考えさせてくれる余地は沢山あり、観てよかったなと思える作品に、今、漸くなった。

 だからこそもう一度観てみたい!

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