劇団オルケーニ「ショックヘッド・ピーター」

5.嗜虐の後ろめたさと快感
  片山幹生

 ジャンク・オペラ『ショックヘッド・ピーター』のチラシからは、そのキッチュでポップな意匠の向こう側に、私たちが普段隠蔽している黒い感情を扇情するような怪しさが漂っていた。〈親子向き〉とされるこの芝居を、私は小1の自分の息子を連れて観に行きたくてしかたなくなった。悪い子がたくさんでてきて、こらしめられるという話らしいではないか。落ち着きがなく、いつもふざけている私の息子は紛うことない悪童だ。ただし強度の恐がりでもある。恐そうな芝居であることは伏せたまま、子供を劇場に連れていった。

 子供を欲しがっている夫婦がいる。その願いは叶えられ、コウノトリがこの夫婦に子供を届けるのだが、生まれてくる子供は「悪い子」ばかりだった。悪い行いの報いを受け、この家に生まれた子供たちはことごとく悲惨な死を遂げる。爪は伸ばし放し、髪はもじゃもじゃのペーターは、パパに鼻をもぎ取られ、ママに額をもぎとられ、最後は二人に手足をもぎ取られて死んでしまう。ぽっちゃり女子のアウグスタは、ある日突然拒食症になり、スープを飲むことを拒み続けたためにやせ細って死んでしまう。動物や人をむちでたたいて喜ぶ無慈悲な乱暴者のフレデリックは、犬にかみ殺されてしまう。この他に、火事で焼け死んでしまう火遊びが大好きな女の子、指しゃぶりをやめられなくて、ハサミを持った仕立屋に指をちょん切られて出血多量で死ぬ女の子もいる。さらには、兎狩りに出かけたパパは猟銃を母兎に奪われ、母兎は猟銃で自分の子ウサギたちも皆殺し、最後は自殺してしまうというエピソード、サンタクロースに頭をたたき割られるイタズラ坊主三人組のエピソードといったショッキングな話ばかりが80分続く。

 この作品はハンガリー語の上演なので字幕表示が出る。しかしこの字幕の日本語が難しい漢字を多用した大人向けのものであり(意図的であるように私は思った)、小学一年の息子は読むことができない。しかし子供は目の前の舞台上で展開する怪しい人物たちの狂騒ぶりに、ただ事ではない何かが起こっていることは、はっきりと認識している。次のようなやりとりはおそらく私たち親子だけでなく、他の親子のあいだでも行われていたと思う。字幕の内容が気になる息子が小声で「何、書いているの?」と耳元で尋ねてくる。「あー、あの子、火遊びして焼けて、死んだんだって」、「あーあ、あの子も死んだね」と子供に伝え、子供が怯える様子を見てほくそ笑む。このように舞台上の残虐な展開と子供への意地悪の二重の悪趣味を楽しんだ親は私だけではないはずだ。この芝居はもともとそういう見方がされることを想定して作ってあるに違いない。こうしたひどいエピソードの連続と親からの脅しのなかで、普段は多動気味でじっとしていられない私の息子は、硬直して芝居に見入っていた。教育効果も抜群だ。

 こうした悪趣味に喜びを感じることに、観客として、そして親として若干の後ろめたさはもちろん感じないわけではない。しかし『ショックヘッド・ピーター』は、「作り事ですよ」とこれ見よがしに強調することで罪悪感を相殺している。赤い幕で舞台と客席を仕切る古典的な額縁舞台、ロボズ博士という語り部を導入したことによる劇中劇構造の導入、パステル調の色合いを使ったポップでかわいらしい美術と衣装、白塗りのメイク、女優が男の子を演じ、男優が女の子を演じるという性の転換、そして陽気でにぎやかな生演奏の音楽といった数々の仕掛けによって、この物語の虚構性は入念に強調されているのである。グロテスクな描写は、この逆説的表現がもたらす絶妙なバランス感覚によって、ぎりぎりのところでエンターテイメントへと転換され(とは言うもののあの過剰な悪ふざけに拒否感を持つ観客もいたかも知れない)、観客は背徳の快感に身をゆだね、楽しんで舞台を見ることができる。

 ところで、私はこの7年ほど、親子向けとされる演劇を年に10本ぐらい見に行っている。この数年のあいだに、小劇場系の演劇人が作った子供向け芝居をいくつか見にいった。小劇場系の演劇人が子供向け芝居を作るとなると、子供劇を専門とする劇団が思いつかないような斬新なアイディアの子供劇ができるのではないかと期待して見に行くのだけれど、実際には「子供が見る」ということを過剰に意識してしまうためか、普段の公演での持ち味が生かされていない、子供劇のステレオタイプにはまった平凡な作品となってしまうことが多い。〈子供向き〉という条件が発想と表現の枷になってしまうのだ。 子供も見るという前提があるので題材や表現にある程度の制約が生じるのは仕方ないが、私としては、〈子供向き〉を枷ではなく、むしろ表現の可能性の拡大とするような作品を親子で見る演劇作品に期待しているのだが。子供向き演劇の観客は子供だけではない。子供を連れて行く大人も必ずその芝居を見るのである。親子を対象とする公演では、子供のみならず、一緒に見にやってくる大人をも、いやむしろ「演劇なんてこんなものだ」という固定概念を抱いている大人の観客を驚愕させ、夢中にさせるような作品であって欲しいと私は思うのだ。

 『ショックヘッド・ピーター』のショッキングで不道徳な内容は、親子劇としては破格である。この芝居を見るのに最も適した年代の子供はおそらく小学校低学年ぐらいの子供だろう。舞台上に登場する子供たちの悲惨な運命に、観客の子供たちは戸惑い、怯えたに違いない。子供を連れてきた親たちの多くも行き過ぎた悪ふざけの数々に戸惑ったかもしれない。しかし絶妙なバランス感覚のなかで提示される悪趣味に、嗜虐的な快感を覚えた観客は私だけではないはずだ。罪悪感はあまりにもあっけらかんと陽気に表現されるグロテスクな狂騒のなかで麻痺し、薄まってしまう。舞台上の人物、そして劇場の他の観客とある種の共犯意識を持ちながら、残虐でひどいお話を楽しむことで、多くの観客は何とも言えぬ解放感を味わっただろう。

 息子の同級生の女の子とその母親も偶然、同じ日にこの芝居を見にきていた。普段は芝居を見に行くことはないけれど、今回は懸賞か何かで芝居のチケットが当たったとのこと。「みんな死んじゃいましたねー。子供は怖がって舞台をチラチラとしか見ないんですよ」と話す彼女の邪悪で晴れやかな笑顔がとてもいい。奇怪でおどろおどろしいものを見ることで、われわれの魂が解放されることもあるのだ。これもまた演劇の愉しみではないだろうか。

 さて怖がっていた子供はどうか。多分大丈夫だと思う。子供に与えるショックが深刻なものにならないような表現の配慮はされていたように私は思う。刺激は強かったかもしれないが、得体がしれなくて怖いからこそ、面白いものはあるのだ。私は夜、息子を寝かしつけるとき、ロボズ博士を引き合いに出している。「早く寝ないと、ハンガリーのロボズ博士のところに連れていくぞ」。私の家ではハンガリーが得体の知れない恐ろしい場所になってしまった。『ショックヘッド・ピーター』は実に面白くて役に立つ芝居なのだ。

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