劇団オルケーニ「ショックヘッド・ピーター」

8.「ショックヘッド・ピーター」あるいは「ぼうぼうあたま」
  吉田季実子

 『ショックヘッド・ピーター』というタイトルには聞き覚えこそなかったが、チラシのもじゃもじゃ頭で爪の伸びた男の子を見たときに、これは『ぼうぼうあたま』のミュージカル化に違いないとすぐに思い当たった。劇評を書くにあたって原作となる絵本に言及するのは邪道かもしれないが、『ぼうぼうあたま』は私の読書の原体験の一つともいえるものでもあるので、劇団オルケーニ版の『ショックヘッド・ピーター』の感想を書く上で『ぼうぼうあたま』を無視することは私には少し難しい。

 副題に「よいこのえほん」とあるが、『ショックヘッド・ピーター』は説話形式で進められるミュージカルで、舞台上にはソファーを中央においた部屋があり、その壁紙は『ぼうぼうあたま』の各章頭にある影絵を写している。序幕に医師が登場し、この絵本はよいこへのクリスマスプレゼントで、悪い子のお話がのっているというようなことを口上で述べる。この情報は原作の絵本の本文でこそ触れられていないが、精神科医であった著者のハインリッヒ・ホフマンが息子へのクリスマスプレゼントとして『ぼうぼうあたま』をかき、それは子供にいうことを聞かせるための説話だったということは原作の解説に記してある。『ショックヘッド・ピーター』では、おそらく絵本を読んでいる子供の目には触れていないであろう、この絵本の背景を外枠に用いて各説話を連結させている。最初、ソファーには夫婦が腰掛けており、我が家こそ最高の場所だけれど子供がいないと話し合っている。そこに後ろの天窓からグロテスクなコウノトリの頭部の張りぼてが子供を投下する。そうして生まれた子どもがピーターだが、彼は爪を伸ばしっぱなしでだらしない。激怒した両親は手足を切り落としてしまう。そこで一度幕がおり、母親が次こそちゃんとした子育てをと望んで次の説話へと移行する。もちろん結果は繰り返しになってしまって、親たちはまたも子供を失う。

 原作の絵本と舞台との決定的な違いは、舞台版ではすべての説話の結末が死だという点である。私は舞台両脇の字幕に解釈を頼っていたのだが、原作では大けが、あるいは子供が泣きをみたという結果で終わっている話も全て子供が死んでしまったという結末に書き換えられている。原作で子供の死が暗示されているにすぎない3話でも、字幕には「拒食症」「棺桶」「焼死」といったダイレクトな単語がならび、舞台上には原作にはないグロテスクな矯正器具が残される(原作では靴)。つまり、すべてにおいて直接的に死が明示され、その上グロテスクなのだ。もちろん私はハンガリー語を残念ながら理解できないのでこれらの単語も字幕を通して伝わってきたものではある。本来の言語上でのニュアンスは私が幼少時に翻訳版の『ぼうぼうあたま』を読んだときに感じたように、やわらかで詩的なものであったかもしれない。ただ日本での上演である以上、半数以上の観客は日本語字幕に頼っていたと思うので、この字幕も考慮に入れるとやはりなかなかどぎつい印象が残った。

 途中、父親によるうさぎ狩のエピソードが入る。こちらも原作では不特定の狩人がうさぎ狩に出かけたものの、うさぎにメガネと銃を奪われ、狩人の妻が零したお茶で子うさぎが火傷をするという何ともたわいのない寓話なのだが、舞台版では母親(全ての説話での子供たちの母)は夫の浮気を疑いながら「うさぎ」のところへと彼を送り出す。銃を盗んだ母うさぎは人間夫婦だけでなく、子うさぎも皆殺しにしてしまって自殺するという何とも救いのない話になっている。「うさぎ」を人間の浮気相手に読み替えさせるというのはいくら字幕付きでも子供には難しい表現である。この幕のあと、両親は自分たちも死んでしまったということを語りながら登場するので、残りの話は死後に死人の見る終わりのない悪夢のようにもなってしまう。つまり「よいこのえほん」どころか、子育ては悪夢の連続とでも言っているかのようだ。幕間で医師が行き過ぎた親のしつけを批判するような発言をするが、むしろ大人にとって「温かい家庭こそ最高の幸せ」というのは皮肉であって、子育ては死と隣り合わせの恐怖のようにも思えてしまう。

 今回の上演ではチラシに「家族で楽しめる作品」と歌ってあり、親子セット券が設定されていて、観客層として『ぼうぼうあたま』を親から与えられる年齢層の子供が想定されていたようだ。実際、劇場でも未就学児童らしき姿が見られた。この年齢の子供たちにとって『ショックヘッド・ピーター』はどううつったのだろうか若干不安にもなったが、泣き出す子供もおらず、医師役が客席を日本語でいじれば大笑いしていたし、一話終わるたびに隣の親に「今のはどういう話なの?」と聞いて、上演中なので適当にはぐらかされているのも目撃した。あまりショックを受けていないのだということがむしろ私にとっては意外だった。子供たちの反応を考慮すると、字幕さえ読めなければ怖い部分が伝わらない、すなわち絵面は楽しいが実は怖いという絵本の定石をうまく3次元で舞台化したのではないかとすら思えてくる。たしかに終幕、親たちが「子供が死んだらまた作ればいい」とコウノトリの張りぼてをバックに死んだ子供たちと輪になって踊っているのは、親世代から見たら恐ろしい話だが、意味がわからなければ楽しい絵になっている。また、女の子や母親役を男性の俳優が演じ、少年役は女性の俳優が演じているケースが多々見られたが、見るからにごつい男性の女装は子供にとっては笑いを誘うものらしかった。大人になってしまうとそういう上演も珍しくはないのだが、子供にとっての「お父さんとお母さんなのに何か変!」というとっかかりの捻じれが、舞台上のグロテスクさをユーモアに変えてしまっている。役者たちの白塗りも恐ろしさではなく奇妙な面白さの記号なのだろうか、繰り返すようだが、驚くほどに子供からの反発や恐怖の反応がなかった。つまり、子供の目でみれば、この芝居の観客層の想定には何ら間違いがなかったことになる。

 『ショックヘッド・ピーター ~よいこのえほん~』はまさに字幕も読めず(字幕の速度は相当早いので、子供なら舞台と同時に解釈するのは困難だと思われる)、親から余計な知識を与えられていない「よいこ」にとっては本当に楽しい「えほん」として展開されていた。その反面、字幕も十分に読むことのできる、ちょっと知恵のついてしまった親世代の大人にとってはナンセンスかつグロテスクで、警句も含む子供に見せていいのだろうかと悩んでしまうような大人向けの作品でもあった。年齢層、受容層によって反応が全く異なるというのは絵本によくある性質であり、舞台化においても同時に複数の受容層に向けて複数の目線から読み込めるものを発信していたとしたら、この舞台はまさに「絵本」だったといっても過言ではないだろう。

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