劇団オルケーニ「ショックヘッド・ピーター」

11. リニューアル・オープニング作品としての意義
  稲田充弘

 グロテスクな身形をした狂言回しが登場し、不気味な雰囲気に会場が包まれる。いきなり赤ん坊の鼻とおでこがもぎ取られると、子供は悲鳴を上げ大人は言葉を失う。予想以上のショッキングな幕開けに、恐いもの見たさで集まったにも関わらず、誰しもが「こんなはずじゃ…」という不安と後悔に陥る…。

 「ショックヘッド・ピーター」は“しつけ絵本”と呼ばれるように、親の言うことを聞かないと痛い目に遭うという教訓を、かなり強烈なインパクトを持って子供に教えてくれる。大人にとっては、子供の頃に親の言い付けを破って犯した小さな冒険を思い出し、あるいは子供の個性を必要以上に圧し殺してはいないか、という疑問を抱かせてくれる。

 原作は150年以上も前に書かれたものだが、考え抜かれた構成と演出によって、大人も子供も楽しめる魅力的な作品に仕上がっている。しかし、ここではその芸術的な評価や細かい内容よりも、なぜ東京芸術劇場のリニューアルのオープニングにこの作品が選ばれたのかについて、芸術監督の“野田秀樹っぽく”考えてみたい。

 ハンガリーの作品と聞けば、劇中の親子の姿に否応なくかつてのソ連と東欧諸国との関係を投影せずにはいられない。

 第二次大戦後にアメリカとの冷戦が本格化すると、ソ連は東欧諸国を配下に治め、主権を制限し政治に介入していった。文字通り共産主義の生みの親として、子供達に厳しい躾を施したのである。
 その後スターリンの死をきっかけに緩和の兆しがみえた際には、チェコスロバキアやハンガリー、ポーランドなどで民主化を求める一連の運動が勃発したが、結局はソ連の軍事力の前に悉く平圧されてしまった。

 作品に登場する子供達は、皆子供らしく無邪気で個性豊か。しかし、皮肉なことにその個性のために儚く消えていく。その姿は、固有の歴史と文化で魅力に溢れた東欧諸国が、自由と自主を求めたばかりに無残に蹂躙された歴史に重なる。

 しかも、次々と子供が死んでも涙ひとつ見せない非情さは、無垢の市民を弾圧することを厭わない冷徹なソ連の姿にも映る。

 この作品では親にとって子供は守るべき存在ではなく、自分の価値観を押し付ける対象に過ぎなかったのと同様に、ソ連も東欧を保護するのではなく自分の主義を貫くために利用しただけであった。

 1956年に起きたハンガリー動乱では、2万人が犠牲となり20万人が難民になったと言われているが、こうしたハンガリーの歴史の陰を作品の中に見て取ることも間違いではないだろう。

では、現代の国際社会でこの“よいこのえほん”の教訓は活かされているだろうか。
残念ながら、現在のアメリカによる覇権も同様の危うさを孕んでいるように思えてならない。

 911以降のアメリカは、彼らが信奉する民主主義、表現の自由、男女の平等、政教分離、といった価値観を中東に植え付けることに必死になっているが、現実にはイラク、アフガニスタン、そしてエジプト、シリア、リビアと悉く混乱の中にある。どの国も、元来持っていた個性とアメリカから押し付けられた価値観との狭間でもがき続けている。

 支配者の圧制によって非支配側に悲劇をもたらすという構造は、今日でも続いているのである。そしてまた我々も、繰り返される悲劇に対して次第に鈍感になってしまってはいないだろうか。

 こうした現代社会に警鐘を鳴らすことが、野田秀樹がこの作品をオープニングとして取り上げた理由ではないかと考えるのである。

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