2.教訓などない見世物小屋芝居の教訓
高橋英之
YouTubeに、今回上演された『ショックヘッド・ピーター』の原版ともいえる英語版ミュージカル“Shockheaded Peter”を、7分半ほどに縮めたダイジェスト版の映像があって、いくつかのコメントが付けられている。その中に、「自分は小さい頃に指をしゃぶる癖があったが、10歳頃にこの作品を観てからは、絶対に指をしゃぶったりはしなくなった」というコメントがあった。もちろん、このコメントが事実ではなく、単なるノリのいい作り話だったりヤラセだったりする可能性も否定はできないのだけれども、ひょっとするとそのようなことがあったのかもしれない。少なくとも、そのコメントに一筋の信ぴょう性が感じられる程度には、YouTubeの映像では、極めて印象的な作品だった。ただ、残念ながら、間違いなく言えることは、そのような子供に対する教訓的な効果は、今回の東京芸術劇場での劇団オルケーニの公演『ショックヘッド・ピーター』では、恐らく起こりえないだろうということだ。なぜなら、「親子で楽しめる」という前宣伝とは裏腹に、この作品は、ほぼ完全に子供を無視した作品だったのだから。
ロボズ博士(ガールフィ・ラースロー)が主宰する見世物小屋の登場人物たちは、みな白塗りの顔にハデな化粧をしている。ロボズ博士自身の顔も白塗りだ。それは、これから始まる物語が、ニセモノであって、まさに見世物であることを象徴しているかのようだ。狂言回しを演じるロボズ博士の前口上の中で、幕の下から顔をのぞかせる子供たちの行く末は、この最初の5分であらかた語られてしまう。子供じみたわがままが、常軌を逸した叱責としつけによって、子供たちをみな葬りさってしまうのだと。まさに、あり得ない物語の登場人物としての白塗り。刑の執行を行うのは、子供たちの両親であるママとパパなのだけど、ママを演じるジャブロンカ・ヨージェフはむくつけき男であるし、パパ役のチュヤ・イムレは男ではあるが、とても幼い子供がいるような男でなく、むしろ意地悪爺の風貌。それは、またしても、あふれんばかりのニセモノであることの表徴であり、その会話にはリアルさなど微塵もない。
このオープニングからの10数分の中で明らかになったことは、『ショックヘッド・ピーター』という作品が、19世紀に書かれたというドイツの絵本の原作を、忠実になぞろうとしているということだ。しかも、その結末はロボズ博士の前口上の中で、説明済みだ。爪を伸ばし放題のだらしないもじゃもじゃペーター、スープを飲まなかったアウグスタ、いつも上の空のジョニー、動物を鞭で叩く乱暴者のフレデリック、ママの言いつけを守らないでマッチで遊んでしまうハリエット、指しゃぶりを止めないコンラッド、いじめっこの意地悪三人組、ディナーの席で落ち着きのないフィリップ、そしてなぜだか空を飛んでしまうロバート。そうした子供たちは、その些細なる子供じみた行為によって、罰せられ、舞台の上から次々と消されてしまうのだ。そんなことが、もう、作品の冒頭部分で、予測させられ、そして作品は、まさにその通りに進んで行く。ニセモノ感たっぷりの、リアルさを欠いた物語として。白塗りの役者たちが、音楽に乗せて。
見世物というものには、予告はあると思う。「親の因果が子に報い…」という決まり文句とともに、例えば、ろくろ首の前向上が語られる。観客は、その予告に一種のスペクタクルを感じる。リアルなものを期待しているわけではない。期待しているのは、ニセモノ。そして、見世物小屋の扉をくぐったところで、ろくろ首が、実にリアルさなど微塵もない形で登場して、お約束通りのオチとなる。しかし、このハンガリーからわざわざ招聘された劇団オルケーニとは、そのような、予告とともに、期待通りの絵本のニセモノの世界を、見世物小屋として展開するためにやってきたのだろうか。配られたパンフレットによれば、劇団オルケーニとは、「ハンガリーの首都ブダペストを拠点とする気鋭の劇団」とあるのだし、「ハンガリーを代表する劇団」とすら書かれている。おまけに、今回の演出を担当しているアシェル・タマーシュについては、「ハンガリー演劇の生きる伝説」とまで評されているではないか。そのような劇団が、わざわざ<招聘>されて、こともあろうに東京芸術劇場の<リニューアル>公演で、ろくろ首もどきの、見世物小屋をひらくために、遠路はるばる来られたのだろうか。
その日、自分は、相当の期待感をもってこの作品を観に、東京芸術劇場に来ていた。長きにわたって工事で閉鎖されていた劇場のリニューアル・オープン。かつて、大陸で初の地下鉄をもち、東欧のパリと呼ばれ、ウィーンとハプスブルクの二重帝国を築きながらも、イスラムの香りを伝えるマーチャーシュー教会をも包含し、フランツ・リストをも送りだした、あのブダペストから招聘された新鋭劇団。子供の絵本が原作と知り、その絵本を読み。子供がテーマと知って、かつて格闘したフリップ・アリエスの名著『<子供>の誕生』を読みなおし、万全の参照の網と感受性を高めながらやってきたのに、これは、何かが違う。そんな気がしてならなかった。
客席で、頭をグルグルさせていると。後ろの席から、子供の声がした。
「おかあさん、なに、あれぇ?」「なんで、このひとたち、えいごでおはなしてるのぉ?」「あれ、なにしてるのぉ?」
そして気がついた、自分が感じていた違和感がどこにあったのかを。それは、この上演されている作品が、子供には恐らく伝わらないだろうということだった。字幕は漢字だらけだし、カタカナだらけだと、「マイホームよりスイートなホームはない」というような、実に深みのある言葉になっていて、これは、おそらく子供には何のことだか分からない。だって、大人の自分にも、なんのことだかわからないのだから。しかも、前に自分のような座高の高い人間が座ってしまうと、子供には舞台そのものが見渡せないのだ。役者たちはみなハンガリー語で話している。ロボズ博士役のガールフィ・ラースローは、一生懸命日本語を覚えたのだろう、時折、片言の日本語で話しかけようとする。しかし、残念ながら、その断片化された言葉は、舞台の両サイドで流れていく漢字だらけの字幕と、見えにくい舞台の中に埋もれてしまっていたように思う。
突然、客席が明るくなり、休憩が告げられる。まだ40分しか経っていないのに。ここだけ、子供向けになっていた。そして、自分の席の後ろの子供たちは、なにか食べ物はないのかだの、誰か別の友達の学校だか幼稚園でのことだの、舞台とは全く関係ない話を一緒に来た母親にたたみかけている。その子供たちの無邪気な声を耳にしながら、自分自身のこの作品に対する感想だの印象というのは、この瞬間に吹き飛んでしまった。それは、まるで、自分自身の子供と劇場にこの作品を観に来てしまったことがシミュレートされているかのようなきまりの悪い気分だった。自分なら、この後、どういうフォローを自分の子供にするのだろう。さして恐ろしくもなく、面白くもなく、というよりも、何をやっているのかもいまひとつ分からない舞台を眺めながら時間の経過をじっと待って、鞄の中にある菓子パンを要求する子供に向かって、自分はどういう言葉を発するだろうか。それは、悪天候で視界ゼロの東京スカイツリーに子供と一緒に上った気分、あるいは、エレクトリカル・パレードが急遽中止されてしまった夜の東京ディズニーランドに子供と来てしまった状況に近かったかもしれない。
休憩後、このハンガリーからわざわざやってきた劇団への申し訳ない気持で、一杯になった。残念ながら、全く伝わっていない。わがままへの教訓どころか、舞台の上で子供が次々と理不尽に消されていくことの恐怖もなければ、逆にそこのユーモアを感じることもない。子供たちは、もう帰りたがっている。そして、自分も、さっさと劇場を後にしたかった。「親子で楽しめる」と銘打たれた作品の評価は、もちろん子供が決める。しかし、これをもしも失敗であると呼ぶならば、その責任は劇団オルケーニにはないだろう。まずは、この作品を東京の子供たちに見せようと思った劇場の制作者と、この作品を字幕が読めなくても、座席が低くて見えなくても、大して問題ないと思ってしまった劇場スタッフこそが責められるべきであろうと思う。なぜなら、YouTubeで見た『Shockheaded Peter』はとても魅力的な作品だったからだ。今回の作品に教訓というものがあったとすれば、そのあたりに教訓があったと言わざるを得ない気がする。
(観劇日=2012年9月4日(火)18時半公演)