劇団オルケーニ「ショックヘッド・ピーター」

10. 子どものための「ショックヘッド・ピーター」
  都留由子

 「親子で楽しむ舞台作品」と言われたら、あなたはどんな作品を思い浮かべるだろうか? しかもわざわざ海外から招聘した作品であるとしたら。

 歌があり、ダンスがある。音楽はきっと生演奏だ。カラフルで可愛らしい舞台装置と衣装に、達者な役者。子どもが飽きないように、それぞれのエピソードは短め、かつ波乱万丈。教育熱心な親なら、説教臭いのはいやだけど、でも「こういうことって大事だね」って終わってから子どもと話せるような作品だったらいいなあと思うかもしれない。

 ぴったりの作品だった。東京芸術劇場のリニューアルオープン記念として上演された、ジャンクオペラ「ショックヘッド・ピーター~よいこのえほん~」は、あなたが思い浮かべた「親子で楽しむ舞台作品」の基準を全て満たしている。

 1844年にドイツで書かれ、その後広く読み継がれてきた「ショックヘッド・ピーター」という絵本を原作に、英国で音楽劇が作られ、同じ音楽を使ってハンガリーの劇団オルケーニが作ったハンガリー版が、今回のこけら落としの作品となった。

 東京での上演は、「泣く子もよろこぶ?! コワかわいさ! シュールなブラック・ユーモア満載のミュージカルが、東欧ハンガリーから芸劇へ!」というコピーで、また「劇中に小さなお子様にとってやや怖く感じる場面がございます。就学年齢以上のお子様との同伴鑑賞をおすすめいたします。」という注意書きもつけられていた。

 連れて行くべき小学生くらいの子どもがいないことを、とても残念に思いながら見に行った。

 舞台にはぐるっと額縁がめぐらしてあり、真紅の引幕が閉まっていて、舞台の下手手前に張り出した小さなステージのようなものがある。舞台下はオーケストラピットになっていて、開演前に、演奏家が客席通路からちょっと手を振ったりなどしながら登場してスタンバイする。やがて舞台に現れるのは、逆立つ髪に白塗りの顔、眼窩を黒く塗って、長いコートを着た、見るからに怪しい自称ドクター。彼は芝居が終わるまでずっと進行役として、解説したり、登場人物にコメントしたり、張り出した小さなステージの椅子に座ってくつろいだりする。幕の前でこれから上演されるお話を紹介する彼の言葉につれて幕の下から顔を出すのは、同じく白塗りに眼窩を黒く、あるいは赤っぽく塗った、異様な子どもたち。彼らがこれからのお話の主人公だ。
 カーテンが開くと、奥に小さな窓のある、模様のある壁紙を貼ったパステルカラーの可愛い部屋。真ん中のソファにはパパとママが座る。パパもママもむくつけき男性が演じていて、ママは髭剃りあとが青々している。

 幸せな家庭に不可欠な「子ども」がほしいと願うパパとママに、コウノトリが赤ちゃんを運んでくる。可愛いでしょう? と自慢気な両親は、赤ちゃんの顔のどの部分が自分に似ているかでケンカを始め、あろうことか赤ちゃんの鼻やおでこを引きちぎってしまう。成長した子どもは、髪も爪も切らせない(たぶんお風呂にも入らないと言ってたと思う)、もじゃもじゃ頭のピーターとなる。この公演のチラシでライオンのたてがみみたいな髪でこっちを向いて座っているのがピーターだ。彼の爪の伸び具合と言ったら、映画「シザーハンズ」(T・バートン監督)の主人公エドワードのハサミの手みたいだ。(ピーターの原作絵本の方が「シザーハンズ」より先に書かれていたのだから、もし両者に関係があるとしたら、ピーターに影響を受けてシザーハンズのエドワードの姿があるはずだけど。)言うことを聞かないピーターに業を煮やしたパパとママは、ピーターの手足を引きちぎり、ピーターは死んでしまう。

 次に生まれた女の子は、ある日突然スープを食べなくなり、やせ細って死ぬ。子どもを亡くしたパパとママは、次の子どもを望む。生まれた子どもは、いつも上の空で目の前のことに注意を払わず、川に落ちて溺れ死んでしまう。次の子どもは乱暴者に育ち、犬をいじめて逆に噛みつかれ、死んでしまう。

 パパとママは、子どもを亡くしては次の子どもを授かり、その子どもたちは、火遊びで服に火がつき小さな灰の山(と歯列矯正の針金)になってしまったり、指しゃぶりがやめられなくて(赤ちゃんなのだから指しゃぶりは当然なのに)現れた仕立て屋に大きなハサミで指をちょんぎられて出血多量で死んでしまったり、食卓でお行儀悪くも落ち着きがなくて、テーブルに乗っていたナイフが刺さって死んでしまったり、嵐の日に外に出て飛ばされ、行方不明になってしまったり、あり得ない展開でみんな次々に死んでしまうのだ。

 子どもたちが次々とひどい目にあい、あっさり死んでしまう。悪い夢のような話である。ドクターの衣装がおしゃれで、お部屋のインテリアも可愛く、子どもたちの衣装はフリルを駆使などしてとてもキュート、コミカルな振付で歌を歌い、音楽も生演奏なので、まるでメルヘンみたいに見えてしまうけれど、悪夢である。パパとママにいたっては子どもたちをどんどん死なせているのに、特に嘆き悲しむ様子もなく、また次の子を生めばいいや、などと歌う。

 考えてみれば、私たちは「メルヘン」を「夢のような可愛いおとぎ話、妖精・小人・魔法使いなどが活躍する空想的な物語」のような意味で使っているが、もともと「メルヘン」とか「わらべうた」は、よく知られているように、結構残酷でもある。口当たりよく改作される前のグリム童話では、弱い者はなぶり殺しにされたりするし、悪い者は最後には残酷な目にあわされる。「わらべうた」や「マザーグース」だって、針を千本も飲ませるぞとか、お母さんが私を殺したとか、穏やかでないものも多い。とすれば、この作品が「メルヘンみたいに見える」というのは、正しい感想なのかもしれない。

 役者たちはみんな白塗りで、眼窩を黒くあるいは赤っぽく塗って、遠目で見るとお面をかぶっているように見える。また、女の子を男性が、男の子を女性が演じていて、額縁+真紅の引き幕の効果もあって、まるで人形劇か紙芝居を見ているようだ。血だって、赤いリボンだったりするものだから、目の前で子どもたちがドサドサ死んでも、あまり現実的に迫ってくる感じがなく、悪趣味だなあと、笑って見ていられるのだろう。
 まるで骸骨のお面をかぶったような子どもたちが、死んでも死んでも次々に現われる。キョンシーかゾンビみたいだ。

 世の中には恐ろしいことがいっぱいあるのだ。キリスト教の聖者であるサンタクロースだって、近所の人をからかう悪い子たちを懲らしめに来る。パパが狩猟に出かければ、獲物のはずの母ウサギが銃を奪って大乱射、自分の子どもたちを撃ち殺し、自殺してしまう。お行儀よく、きちんと食べ、ぼーっとせず、指もしゃぶらず、火遊びもせず、近所の人をからかうなんて言語道断、嵐の日には外に出ず、いつもパパやママの言うことをよく聞いてお利口にしていなければ、無事に生き抜くことはできない。

 人ごとのように笑って見ているけれど、私たちの生きている世の中だって、恐ろしいことばかりだ。

 私が観劇したときには周囲に小さい子どもがいなくて、「ショックヘッド・ピーター」を見た子どもがどういう反応をするのか分からないが、おそらく大喜びするのではないかと思う。子どもたちは、舞台の上で「悪いこと」をする子どもを見るのが大好きだ。私は以前「ちっともコリン君!」というむすび座の人形劇を見たことがあるが、主人公のコリン君が悪さをしては失敗し、叱られ、その後も全くめげずに(ちっとも懲りん!)ひたすらイタズラを繰り返すのを、子どもたちは身を乗り出し、キャッキャと喜びながら見ていた。

 そしてまた、私たちは、ひどい目にあう人を見るのも実はちょっと好きなのだ。聖セバスチャンの殉教の絵にしびれた三島由紀夫を持ち出すまでもなく。日本の「地獄草紙」や、ヒエロニムス・ボスの「地獄」の絵には、目を覆った指の隙間から覗いてみたい誘惑がある。私が小学生のころ、あの有名な児童文学「小公女」について、主人公がいじめられる場面が好き、という感想を述べた友人がいたくらいだ。

 やっちゃダメ、と日頃自分たちが言われていることをさっさとやって、その挙句、ひどい目にあう子どもたちのオンパレードであるこの作品は、禁を破る快感と嗜虐趣味を両方とも満足させてくれる。そういうことを喜ぶのを、普段、おとな以上に禁じられがちな子どもたちにとっては、何の制約もなく面白がれるのは、とても嬉しいことに違いない。

 ただ、現実にこの作品を子どもたちが十分に楽しめたかどうかは、ちょっと心配でもある。ハンガリーや英国の子どもたちにとってはショックヘッド・ピーターのお話は身近なのかもしれないが、日本で「ぼうぼうあたまのピーター」という絵本は誰でも知っているとは思えない。話の内容について何の予備知識もない子どもにとって、ドクターがところどころ日本語でしゃべるにしても、ハンガリーの言葉も、漢字がいっぱいの字幕もあまり助けにならなかったのではないかと思う。

 心理学には不案内であるが、悪いことや悪趣味や残酷を他の多くの観客といっしょに大手を振って楽しむ機会は、成長していく子どもにとって大切なものなのではないか。悪いことや悪趣味や残酷を飼い馴らし、自分でコントロールできるようになるために、また、普段禁止されて我慢していることとバランスを取るために、そういう機会があることは「必要」ではないかもしれないが、「あるとずっといい」もののように思う。こういう作品は、ルーマニアやイギリスにはたくさんあるのだろうか。

 次々に子どもが生まれ、次々に死ぬ。死んだ理由はどうあれ、子どもの死亡率の高い時代には現実もこうだったのかもしれない。兄弟姉妹は全部で7人で、そのうち4人が育ったなどという話を、昭和の初め頃以前に生まれた人からは、よく聞いたものだ。現在だって、乳幼児の死亡率の高いところは地球上にはいっぱいある。ショックヘッド・ピーターのパパとママは、平気そうに歌など歌っているが、たくさん子どもが死ぬことが、何でもないはずはない。

 自分でも思ってもいないことだったのだが、ゲラゲラ笑って見ていた私は、水に落ちて溺れ死ぬ子のエピソードだけは、何ともいやな気がして、全く笑えなかった。去年の3月、たくさんの子どもたちが水の中で亡くなったこと、亡くなったまま家族のもとへまだ戻れていない子どもたちがいることを、意識せずに思い出したのではないかと思っている。たとえ舞台の上であっても「子どもが水の底で死ぬ」という場面は、やっぱり私には、まだ何でもなく笑って見ることが難しい。

 「悪趣味で残酷な作品を、わざわざ子どものために作り、それを子どもと一緒に笑って楽しむことができる」のは、実はとても贅沢でしあわせなことなのかもしれない。

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