劇団オルケーニ「ショックヘッド・ピーター」

7.いい子にしてればウサギだってライフルだってもらえるよ
  大泉尚子

 ユダヤ人の子育て法に、こういうのがあると聞いた。赤ん坊に向かって手を差し伸べ、赤ん坊が身を乗り出したらサッと引っ込めて、多少の痛い目をみせても人を疑うことを教えるという。真偽のほどは定かではないが、世界中を股に掛けて経済的成功を収めてきた民族らしいと思わせるリアリティはある。所変われば品変わる、子育ても大きく変わるというわけだが、この『ショックヘッド・ピーター』の舞台を見たとき、最初に頭に浮かんだのはそれだった。

 初日の客席でもかなりの笑いが巻き起こったこのお芝居だが、お話はというと、いろんなタイプの親の言うことを聞かない子が出てきて、彼らがどんなに酷い目に合うか…それどころか指を全部切られるわ、手足をもがれるわ、挙句の果てに死んじゃう(=殺されちゃう)子もいるんだよ~という過激なもの。
 で、どんな極悪なことをしたのかというと、火遊びをするとかママを叩くとか人に意地悪をするとか、まあ千歩譲って、ここまでは何とかわかる。ところがそれには、神経症でスープを飲まない、夢見がち、おしゃぶりを止められないなんていうのまで含まれる。食事の最中に体を揺らす子は、ナイフとフォークが刺さって死んでしまう(タイトルになっているショックヘッド・ピーターの髪や爪を切らないで伸ばしっぱなしっていうのはどうなんだろう、ビミョーだ…)。
 まあ、本人の体に悪い、みっともないっていうのはあるかもしれないけど、それってそんなに悪い? と言いたくなるようなことまで、十把ひとからげにキツ~イお仕置きをされてしまうのだ。このアナーキーさはとりあえず凄い。

 パンフレットによると、原作は1844年にドイツの精神科医によって息子のために書かれた絵本で、今よりはるかに衛生状態の悪いその時代、不潔は危険に通じることなどを伝える役目も担っていたのだろうと記されている。そして、子どもには刺激が強すぎるのではという教育的配慮の声が上がりながらも、“しつけ絵本”と呼ばれて人気を博し、各国語に翻訳されてきたのだという。なるほど~、しつけの概念が、私たちのものとはだいぶかけ離れているわけを一応は納得。1998年にはイギリスで音楽劇に仕立てられて話題を呼び、さらにブダペストの劇団オルケーニのハンガリー風アレンジによって新たに生まれ変わったのが今作というわけだ。

 舞台に目を戻そう。オーケストラピットには4人の楽隊が陣取り、ティンパニーの連打で幕開けというお決まりの滑り出しだが、生演奏はやはり高揚感を増してくれる。
 舞台の奥と左右の壁は、淡いサーモンピンクの地に同系統のやや濃い色で人のシルエットがいくつも描かれたシックなもの。途中で、壁に大きな窓が開き、巨大な顔の満月が上がったり、ルネ・マグリットばりの青空に白い雲が現れたりするのも、子どもだましではないスケール感だ。
 後述する「博士」以外の登場人物=パパ・ママと子どもたちの衣装には、茶・ブルー・ピンクなどの中間色のグラデーションが配され、チラシやパンフの写真を見ても素材の細部にまで凝っている。
 それに対して、メイキャップは白塗りに歌舞伎の隈取のようなコントラストの強さ、角度によっては死相を模した仮面にも見えるほどにドギツい。
 また、ママや女の子役は男性、男の子役は女性の俳優が担当して性を逆転。しかも女役を巨漢が演じたり、ママのヒゲの濃さが尋常でなく顎の白塗りが不気味に黒ずんでたりして、かなり強烈な違和感を生じさせる。二人の博士のうちの一人コールは、手に蝙蝠傘を提げ紳士然として登場するが、やけに背が低い。照明が明るくなってくると、膝立ちで膝の前に靴をつけて短い足に見せ「小人」を演じていることがわかる。こんなふうに、相当に異形性が強調されているのだ。
 この両者のギャップ―。一見ノーマルでむしろ品のいいともいえる音楽と美術が、グロい形相や風体、そして演技を支え、大きな舞台で存分にへんてこりんな遊びを繰り広げさせている。言い換えれば、こんなお芝居は子どもには見せたくありませんという親の口を封じさせる働きをしているようにも思える。

 さらに、このかなりエグい内容をうまく緩和するための手法のひとつに、血や傷口の表現がある。序盤の辺りで、生まれたばかりの赤ん坊の、鼻はパパに、おでこはママにそっくりだといい、お互いに自分の方に似ていると主張しているうちにエスカレートし、おでこと鼻をむしりとってしまう場面がある(いずれにしても、超暴力的な両親である! しかも子どもが死ぬと「いいからもう一人作りましょう」なんて言い放つ。少子化日本に移民してきてほしいくらい!! いやいや、モンスターペアレント過ぎかぁ…)。
 その真っ赤な傷口の、リアルさと抽象性の加減が絶妙。ハッとさせられるくらいには注意をひくが目を背けるほどではない。それは、指や手足を取られてしまうシーンも同様で、指や手を曲げた状態の先から、赤い細いテープが何本も垂れているというものだった。

 ちなみに、セリフはハンガリー語で、子どもの名前くらいしか聞き取れないが、舞台脇に縦書きの日本語字幕の、左右に同じものが出るので、見やすい方を読むことができて舞台を鑑賞する上で無理がなかった。ただし、低年齢の子どもには字幕がネックになるかもしれない。それはこの作品に限らず、海外物の子ども向け作品の上演の難しさであり、工夫が必要だろう。そして、もう一人博士ロボズが時折片言の日本語を話すのはご愛嬌。
 ここで、ついでにと言っては何だが、このロボス博士についてふれておこう。彼は冒頭やお話の継ぎ目に折々現れて、説明・案内役を受け持つが、他のキャラクターが演じている時は下手隅の小さなテーブルのコーナーに腰を下ろしている。いでたちは、黒いロングコートとズボンに真っ赤なチョッキ。見た目にも、ほかの登場人物たちと立場が異なるのが歴然としており、狂言回し的な彼がいることは「これはお話ですからね」感を強めている。

 さて先の通り、これは、親が言うことを聞かない子どもをいたぶり脅す物語であり、言うことを聞かないと恐いぞー、というシンプルなテーマがとりあえずあるのだが、裏を返すまでもなく、大人は横暴で、そんなしつけを強要する常識って本当に妥当なのかという問いかけ、批評性も孕んでおり、そのことは割合すぐに見てとれる。それはこのお芝居の大きな骨格であり、もちろんそのレベルでも、先にふれたような振幅の広さと表現の巧みさもあって、プチグロというか、ソフィスティケイトされた残虐シーンの連続を、大人も子どもも安心してギャハハと笑うことができるのだ。

 だが、芝居のミソは、大受けしたところよりひっそりとほくそ笑まれたところだったりもする。私が気にかかったのは、中盤にパパが野ウサギ狩りに行くというくだり。浮き浮きした調子のパパの様子に、なぜだかママの機嫌が悪い。「ウサギに香水がついているのには気がついてるわよ」といったセリフもある。
 ウサギは、欧米では性的誘惑のシンボルとされることもあるようで、例のプレイボーイのキャラクターやバニーガールがお馴染みだ。余談だが、昔、女子大生があのキャラクターのついたTシャツを着ていて、外国人のオバ様に大いに眉をひそめられたことがあった。で、この場面は言外に、若い女のところに浮気しにいくということを示しているのではないだろうか。

 そしてその直後、奇妙に動物的リアルさを堪えた母子ウサギが、パパとママを銃で撃つ。この異物めいたエピソードの占める位置や脈絡についてはよくわからなかったのだが、撃たれた二人もその後何事もなかったかのように登場するのは、ナンセンス劇ゆえか。ともあれ、不倫の果てに若い愛人の方が逆切れして相手一家を全滅させたのなら、まさに究極のエロ→グロ。悪い子が順々に出てくるパターンの単調さを断ち切る、一服の清涼剤ならぬパンチの効いたカンフル剤だ。
 で、こういう性的ほのめかしが子どもには伝わらないかというと、どうなのだろう? 体内時計を50年くらい巻き戻したつもりで想像するに、何だか腑に落ちないという形で印象に残るのではないかと思う。もちろん、課題の感想文には絶対書かないだろうけれども…。

 それからもうひとつ。何回かうたわれる歌に「いい子にしていれば、大きくなったらプレゼントに木製のライフルをもらえる」といった歌詞が出てくるのにも引っ掛かった。なぜライフルなのだろう? 大人の言うことを聞いていれば、いずれその特権である権力とそれに付随する暴力性を行使する力とを手に入れられるというのだろうか。とすれば、彼らが大人になって、さらに次の世代の子どもにしつけという名の絶対的な強制力を働かせ…いう連鎖が連綿と起きることになる。
 子ども時代の十数年間、いい子の役をこなして、成人さえしちゃえばこっちのもの。ウサギのオネエチャンの一匹や二匹物にできる性的自由だって手に入れられる。パパみたいな獰猛な大人になれるってぇもんだ。
 しつけは世につれ時につれて変わり、絶対的な正しさを求めるなんて至難の技。要は、生きていることは畢竟暴力的なのだという、したたかともニヒルとも受け取れるメッセージが見え隠れしているような気もする。
 へそ曲がりかもしれないが、私はこの作品の大枠である骨格的なところより、こうしたちょいちょい奥歯に当たる小骨の部分の方に歯応えを感じた。

 ところで当初、東京芸術劇場リニューアルオープン初っ端の演目が、東欧の子ども向けでもあるミュージカルだということを、意外に思った向きもあるのではないだろうか。私もその一人である。実際、会場のシアターイーストのキャパに対して、まだまだ余裕のある客の入りだったように見えたが、決してメジャーではないジャンルや演目を選んだチャレンジ精神はかいたい。
 同じ時期に、カナダの劇団コープスの「ひつじ」も招かれており、こちらは1年ぶりの来日。羊に潜むある種の獣性のようなものを無表情に演じて人気を博したこのパフォーマンスも、最初話を聞いた時は全くピンと来なかったが、檻の内外をただのっしのっしと歩き回るだけの彼らを目の当たりにして、その迫力と客に一切媚びを売らない在りように圧倒されながら大いに笑った(泣いてしまった子もいたそうだが)。綺麗にお化粧直しを果たした公共劇場が、再びそうした思わぬ出会いの場になることを願っている。

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