柿喰う客「無差別」

9.無差別~柿喰う客の分岐点
 小泉 うめ

 それは現在の彼らの、ありのままであり、またすべてであった。
 六角形にカットして中央に限定した舞台には、その中心に一本と各コーナーに合わせてそれぞれ六本、計七本の長さの異なる鉄の柱が螺旋を成して塔のように立っている。これを開演前から幕も掛けずに見せていることについては、今回七人になって、新しい一歩を踏み出す彼らの思いを象徴する存在であると想像した。セットはそれだけだが、その柱を、くぐり、登り、ぶらさがり、シーンの進行の中で、地中や大樹の上や神楽堂、そして洞穴を表現していく。
 その周りには夥しい数の照明が剥き出しで並べられている。それらは、森のようであり、瓦礫のようであり、彼らを見つめている目のようでもある。

 舞台の後ろには正面以外の三方向からのスクリーン・ボードを据えて、シルエットを活かす演出を狙っているのが分かる。格闘や殺戮そして群舞のシーンでは良く効いていた場面も多かった。

 物語は、世界中が戦争に明け暮れていた時代の話である。人と神と獣が因果から因果で繋がって行く。

 社会の裏側で食用に犬を殺す仕事で生計を立てている族谷狗吉(ヤカラヤイヌキチ)は、それを理由に人でありながら人として扱われない人生を送っていた。狗吉は生れてきた妹・狗子(イヌコ)を自らと同じ運命をたどらぬように、人が人として生きていくために、ノミを持たせて仏を彫らせていた。そして狗子は、ある時、狗吉が殺した犬の腹の中の仔を助けて、その獣を人之子(ヒトノコ)として育て始める。

 狗吉は、人として死ぬために、戦争へ志願するが、人の扱いを受けていない彼は、その条件として、山の神である大楠古多万(オオグスノコダマ)を切ってくることになる。

 その頃、山に棲むモグラの一族では、手の無い娘が生れ出て、思案したモグラたちは、大楠の生贄に捧げようとする。しかし、この手の無いモグラは、逆に雄モグラ達を誘惑して、その力を借りて大楠を倒してしまう。それを見ていた天神様(テンジンサマ)から、このモグラは日不見姫神(ヒミズヒメ)として、獣から神へと任命される。

 神となった日不見姫神は、今度は自分を満足させる神楽舞を人々に求め、人として育てられている人之子がそれを探す任を受ける。そして、人之子は、これも盲目で舞の名手、真徳丸(シントクマル)を連れて来る。日不見姫神は真徳丸をとても気に入り寵愛する。それを見た天神様は再び、日不見姫神を元の手の無いのモグラに戻してしまう。

 狗吉は、日不見姫神によって倒された大楠を切り、ついに出征の願いを成就する。しかし、向かった戦地では死ぬことができず、生きて帰ってくることになる。

 倒された大楠は天神様が、元は人であり、罪の恨みのせいで神になったことを知る。そして大楠も恨みを抱きながら、その身にキノコをまとっていく。このキノコは次第に巨大なものとなり、黒い雨を降らせて、人への恨みを晴らすようになる。それを浴びた狗子は傷を負い、やはり蔑視される立場となる。

 狗吉と狗子は、また周囲から疎まれ山の穴に閉じ込められるが、神がいなくなった山で、自分達がいざなぎといざなみとなって交わり、新しい国を産み導くことを目指そうとする。

 このような物語の中で、様々な「差別」が次から次へと現れる。そこには、いつも差別するものと差別されるものが存在する。それは、神も、人も、獣も、区別はないという「無差別」に襲いかかる。そして、その差別関係は恒久的なものでなく、しばしば機に応じて、その立場を入れ替えていくのだ。この入れ替わりも「無差別」にやって来る。何人たりとも特別に擁護されることはない。

 テーマは「部落」「職業」「障害」「男女」などの「差別」との戦い、そしてそれらがもたらす「戦争」「原爆」「被爆」など、重いところに置いているが、それについて何かを主張しようとしているようには感じない。いや、おそらく主張しようとはしていないのだろう。問題提起だけして「感じることについては観客の皆さんが自由に考えて下さい」というのが、いつもの彼らのスタイルである。小劇場のオールドファンの方には、それを「軽薄」とか「無責任」と取る考え方もあるかもしれないが、「演劇かくあるべし」と押し付けをしない自由な表現をするところも、今彼らが若い新しい演劇ファンの心を掴んでいる理由かもしれない。

 彼らは『柿喰う客」を「中屋敷法仁の演出作品を上演する演劇集団」と定義している。つまり、その主義主張以上に、その表現形態に彼らはその存在の重きを置いている。誰かが著名な作家の戯曲を公演する際、しばしばその作家や戯曲と「対決する」とか「挑戦する」とか「格闘する」だとかの表現が使われる。ところが、中屋敷は、その行為を、むしろその作家や戯曲の偉大な懐に飛び込んで「遊ばせてもらう」のだとこれまでにも語っている。今回の作品は彼のオリジナルの新作であるが、その演出には、これだけ重々しい内容の戯曲を書いても、表現至上の彼の演劇との向き合い方が感じられるものであった。かつてのアングラ劇団であれば、間違いなくボロのような衣装で、顔を黒く汚して出てくるところであろうが、彼らはこの物語をスタイリッシュなスーツ姿で演じ切る。どんなに悲惨な物語も、カッコ良くスマートに魅せるのが彼らのスタイルだ。

 「柿喰う客」の新作公演は実に一年半ぶりである。この一年半は、特に社会にも大震災から様々なことがあり、それが少なからずエンターテイメントの世界にも影響を及ぼしている。また彼らの内部においても、個々の外部活動が活発になったり、女体シェイクスピア・シリーズを始動させたり、と活躍はコンスタントだが、メンバーの退団などもあり、その前後の劇団としての状況を想像すれば、かなり厳しい時間であったはずである。それは戦地に赴いた狗吉が死ねずに帰って来たような心境に似る時間であったのではなかろうか。

 演劇を生業とするのは、しばしば不遇の時を過ごす苦しさや辛さを伴うことが多いだろう。また、一度脚光を浴びても、なかなかそれは持続しないし、持続が即ち安泰というものでもない。そんな中、学生時代から早々と注目されて、二十代で「飛ぶ鳥落とす勢いの人気劇団」となった彼らにも、危機は「無差別」にやって来たのである。「決して、『柿喰う客』だけが特別ではなかったのだ」ということを、この期間に感じ、現状の自分達を見つめなおした時、それをこの区切りに語りたかったのではないだろうか。

 中屋敷は、本人の三年ぶりの役者としての出演について、「実在する『天神様』の役を劇団員に演じさせて何か(バチがあたるようなことが)あっては困るから」と上演開始後に説明しているが、代表・演出家が劇団員に役を振れないようではそれこそ困りものだ。そして、もちろん真意は違う。彼には今回は出る必要があったのだ。劇団員と一緒に出たかったのである。今現在の「劇団員だけ」で、そして、「劇団員全員」で、舞台に立ちたかったのであろう。だから今回の作品も、誰か先人のもので実験させてもらうのではなく、自らの手で書いたものである必要もあったのだろう。賛も否もすべて自分たちで受ける肚を感じた。

 七味まゆ味の演技も、普段と比べると抑えたものになっていた。舞台上での上手さは格別で、もちろん彼女の演技の幅の中にある役なのだが、本来の役回りでない部分を補っての結果であり、それをけなげにこなす姿が、ますます狗子を切ない存在にしたようにも思う。

 ピースの欠けたパズルの絵画を、如何にして再び新しい一枚の絵に仕上げていくのか。それを七人で模索した約七十七分だった。

 もちろん、その状況を一番理解っているのは、客席の誰かではなく、舞台に立つ彼らである。それを覚悟して舞台に上がり、「これが、現在の『柿喰う客』です」と胸を張るのが、彼らにとっての本作の意味であり、主張であろう。

 犬を殺して生きている男も、手が無くて生贄にされるモグラも、群衆に謀り殺される神までもが、最後は「ただ生きたい」と願い、しがみつく。そのためには一切のなりふりは構わず、可能なあらゆる手段を尽くして生きようとする。そこには、神も、人も、獣も、隔てはない。それらは、いずれも見るも悲しい惨めな姿だが、「生きる」ということは、本来それくらい必死の「業(わざ)」なのである。

 劇中で「業」という言葉の発し方を、シーンに合わせて「なりわい」から「ごう」へと使い分けている。狗吉にとって、犬を殺すことは生きる術として避けることのできない「仕事」であった。また、戦争から生きて帰った後、身を呈して新しい未来を切り開いていくことは生まれながらに背負った「運命」だということのように思われる。

 それは、彼らにとって、たとえ舞台で表現することがどんなに苦しくても生きていくために続けていく「仕事」であるというだけでなく、たとえどんな抵抗があろうとも自分達は表現していかねばならない「運命」を背負っているのだという強い思いが、彼らの芯に存在して、また劇団として共有されているからなのであろう。

 本作は、彼ら自身が現在の彼らの姿と立ち位置を確認したものであったと同時に、それを私たちにも示すものでもあった。いずれ「あれが彼らのターニングポイントだった」と評される作品になるはずである。
(観劇日:2012年9月23日14時)

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