10.諸行無常
都留由子
今から3、40年くらい前までは、「めくら」とか「かたわ」とかいう言葉は、素敵な言葉とは思われていなかったにしても、それほど憚ることなく使われていた。「めくらのお市」という映画シリーズが人気になっていたと聞いたこともある。その後、急速にそういう「差別語」は使われなくなり、現在では、少なくとも公の場で見たり聞いたりすることはなくなっている。古い映画がテレビで放映されるときなど、「差別的で不穏当な表現があるけど、そのころはこんなふうに使ってたから、そのまま流すよ、ごめんね」みたいなテロップが流れるようになった。
だから、東京芸術劇場シアターイーストで、柿喰う客の新作「無差別」を見始めたとき、「めくら」とか「かたわ」とか、久しぶりに耳にする言葉の連射に、ちょっとクラクラした。
ありゃりゃ。すごくカジュアルに見に来ちゃったのに、こういうことを扱うわけね。そうか、それなら、臍下丹田に力を入れてちゃんと見なくちゃね。
舞台の上には、六角形だか八角形だかの島のような一段高い舞台があり、その周辺には照明の機材がたくさん並んでシルエットになっている。岩に囲まれた孤島のような舞台の上には、鉄棒を何本か組み合わせた、作りかけのジャングルジムみたいなものが立っている。大車輪もできそうな高さだ。照明、装置、音楽、みんなお洒落な印象である。
先祖の犯した罪のために犬殺しを生業として、村人たちから人間以下の扱いをされている族谷(ヤカラヤ)一族。その若い一員狗吉(イヌキチ)は、旺盛に犬を捌いて生活を支える一方、「人間」になりたいと切望している。生まれた妹狗子(イヌコ)を、「穢れた」犬殺しからも肉食からも遠ざけて、仏像を彫らせ、写経をさせて清らかに育てる。戦争が始まる。出征することで「人間」になることを望む狗吉に、村人たちは、山の神、大楠古多万(オオクスノコダマ)の御神木である大楠木の枝を切ってくれば出征させてやると言う。
山ではモグラ一族が、一族に生まれた盲目で手の先のないメスのモグラを、大楠古多万に捧げようとしている。が、激しい生存欲求を持つそのモグラは、閉じ込められた大楠木の虚でオスのモグラたちの前に我が身を投げ出し、引き換えに木の根元に穴を開けさせる。大楠木は地面に倒れ、モグラは脱出し、狗吉は倒れた御神木から枝を持ち帰る。大楠古多万の御神木を倒したこのモグラは、天神様の指名で新たな山の神、日不見姫神(ヒミズヒメ)となる。
出征前の狗吉が最後に殺したのは身ごもっている母犬で、狗子はまだ息のあった一匹の仔犬を助けて人之子(ヒトノコ)と名づけ育てる。人之子も狗子を母と慕う。
日不見姫神は、自らを讃えさせるために神楽の名手を狗子に探させる。母の役に立ちたい人之子は盲目の舞手真徳丸(シントクマル)を探し当てて連れてくる。日不見姫神は真徳丸に懸想し、そのため天神様の罰を受けて、手の先のないモグラに戻ってしまう。
大楠古多万の恨みは凝り固まってキノコとなる。その毒はやがてキノコ雲となって黒い雨を降らせ、無差別に人を襲う。帰還した狗吉は、キノコの毒に穢された狗子とともに、新しい世界を生み出すためにイザナギ・イザナミとなることを決意するが、村人たちに大楠木の穴に落とされてしまう。ふたりを救うため人之子は穴に飛び込む。食べてもらうために。
役者たちはみんなバリッとした黒の正装っぽい衣装で、りゅうとしている。そして、彼らは身体能力の高さと関節可動域の広さを大いに発揮して、舞台に立つジャングルジムもどきの上に登ったり、その上で立ち上がったり寝そべったりする。平気な顔であるが、ジャングルジムもどきは結構な高さがあるので、実は大事業だろう。降りるときには、まるで粘度のある液体がワイヤーを伝ってたらたらと落ちるように、ぬらぬらと鉄棒をつたって降りてきたりする。台詞は文語めいた七五調で、ひとりでしゃべったり、何人かで声を合わせてしゃべったりする。どの台詞もとても聞き取りやすい。柿喰う客の役者は、みんな口跡もよく、身体もよく動き、客席を十分に楽しませてくれる。
最初から最後まで、差別する・差別される場面の連続である。差別語もとても聞き取りやすくクリアに連発される。しかし、インパクトは強力だけれど、例えば、差別はよくないとか、非人間的だとか、逆に、仕方のないことだとか、必要悪だとか、何にせよ、そういう主張をしているようには思えない。また、差別を生み出す心の動きとか、社会の仕組みなども特に描かれないので、そっち方面に関心があるようでもない。
関心があるのは、差別される側のエネルギーであるように思われる。狗吉が犬を殺すとき、狗子が仏像を刻むとき、生贄のモグラがオスに蹂躙されるとき、シャキーンとかバキッとかズバッとか、まるでマンガの擬音のような効果音が入り、俳優たちのぴたりと決まる身体の動きと相まって、押し込められていたパワーはぐぐっとクローズアップされ、強調される。それは、御神木の枝を切ることも恐れないほどの力、神を殺すこともためらわないほどの力である。
だが、その力は絶対的なものではなく、もっと上位の力の前には無力なものとして描かれる。天皇も人間宣言をして世の中の価値が一変したにもかかわらず、「人」として復員したはずの狗吉は、妹とともに穴に落とされ放置されるのだし、神になったモグラも結局は元のモグラ、舞台の上にごろんと投げ出される縫いぐるみになってしまうのだ。モグラの情欲に倒された大楠古多万は、神の地位から引きずり下ろされ、天神様の雷に打たれる。しかし、その恨みはキノコ雲となる。舞台上の誰もキノコ雲には勝てない。
人も犬も御神木も神もモグラも区別なく、差別する側も差別される側も区別なく、私たちを無差別に支配する力。制御できない大きな力。このお芝居の中では、大楠古多万の恨みが凝り固まったキノコ雲が最強で、その穢れが無差別に降り注いだ後に残った希望は、ただひとつ、狗吉と狗子が人之子を喰らって生み出す新しい世界だけである。その新しい世界にも、全てを無差別に支配する、新しい大きな力があるのだろうか。
私が見た回のアフタートークで、作・演出(今回は出演も)の中屋敷法仁は、この作品は「奉納するもの」というつもりで作ったと話した。捧げものだから、出演者の衣装は正装に近いのだという。大きな力を持つ神や仏を、楽しませ歓ばせて、鎮める、または、守ってくれたことにお礼をするために行われるのが、「奉納」だろう。中屋敷は何に対して捧げたのだろう。最強の力、キノコ雲だろうか。
また、同じアフタートークで、会場からの「アングラっぽかった」という声に、中屋敷は自分もアングラは好きだと答えていた。差別語の連発、差別される者が爆発させる泥臭い力など、アングラっぽいといえば確かにそうだ。しかし、私には、「反体制」のアングラの精神と「奉納」の精神は、なんだか相容れないように感じられる。
このお芝居を見始めてしばらく、神話の時代か、そうでなくても、時を特定しない「昔」の話だと思っていた。が、出征、原爆、黒い雨、天皇の人間宣言、となれば、どう見ても昭和、だ。(もしかして、若い人にとっては昭和も神話時代も同じなのか?)とすると、狗吉と狗子は敗戦のあと新しい国を生んだことになる。では、「現在」がその「新しい国」なのだろうか。
もしかしたら、狗吉と狗子は「新しい国」を生むことに失敗したのではないだろうか。もちろん、戦前と戦後に大きな違いがあることは分かっている。憲法が違う。選挙制度が違う。教育だって、女性の社会的地位だって違う。
だけど、揚げ足取りかつ重箱の隅を突っつくみたいで気が引けるが、原爆や核兵器の被害を、たとえ比喩にしても「怨みがキノコになり、キノコ雲になり、穢れが無差別に降り注ぐ」と、「新しい国」では考えるのだろうか? 原爆や核兵器(や、原発事故も連想されるだろう)は、神の祟りではない。そんなつもりはなかったにしても、人間がどこかで間違った結果だ。どこで間違ったのか、これからどうしたらいいかを、すごく難しいことだろうが、冷静に過去から学習することができるはずだし、また、それを学ぶ責任もあるだろう。人間のしでかしたことを、検証し、学ぶことなく、何かを奉納して拝む以外には防ぎようのない、天から降ってきた穢れにしてしまうのでは、生まれた国はちっとも「新しく」ない。
いや、そうではないかもしれない。この作品は「何から語り始めるか。そんなことは問題ではない。大切なのはどのように語り終えるかだ。」というような内容の台詞で始まり、「どのように終わるか。そんなことは問題ではない。大切なのはどのように始めるかだ。」というような台詞で終わる。全ては終わるために始まり、始まるために終わる。差別されるものの力も、神を殺して神になることも、祟り神も、無差別に降り注ぐ災いも、差別されていた兄妹が新しい国を生むことも、その全てを包括して、所詮は無常だ、と言っているようにも思える。もしそうなら、全ては無常なのだから、「新しい国」を生んだつもりがちっとも新しくなくても、それはそれでいいのだろう。しかし、自分の子どものように育てた犬を食べてまで、兄と妹が交わってまで生んだ新しい国を、何も変わっていなくても所詮は無常だと考えるのは、あまりに無念ではないか。
もっとも最近では、諸行無常、所詮は一炊の夢よ、と言いたくなることも多くて、いっそ本当に一炊の夢だったらいいのに、と思うことさえあるのだけれど。
ああ、なんでこうなっちゃうんだろう。お芝居を見ているときは、とても面白かったのだ。役者さんたちも舞台上で起こることもすごくかっこよかった。うまいもんだなあと感心したのだ。だから、そんなに悟ったみたいに淡々としてないで、舞台上に並べたことを「どう思うのか」について、もうちょっと情熱的に主張してくれたらよかったのになあ。観客の前にいろいろ並べるけど、それについての態度は示さず、観客自身にあれこれ考えてもらう、という手法なことは重々承知で、自分の読み取る力のなさも重々承知で、でもやっぱりもうちょっとヒントがほしかったなあ。
そう思ってプログラムを見ると、最初の中屋敷の文章には、この時代に「新作」を書くことをとても悩んでいたこと、「この時代に生きているという実感。そのことだけは作品にしたい。何も発表しなければ、表現者として生きていないのと同じことだ」という強い衝動にかられて、この作品を作ったと書かれていた。そうか、これが中屋敷の「この時代に生きているという実感」なのだ。観客の前に淡々とかっこよく並べて、さあどうぞご自由にって言われたように感じていたけれど、そうではなかったのだ。仏像を彫り写経をする狗子が、終始、表情を変えず仏像のような趣だったことを思い出した。仏像のような穏やかな表情の後ろに、しかし、血まみれの仔犬を助け、黒い雨に穢されても兄とともに新しい国を生もうとする情熱を、狗子は隠していた。見ているときは楽しかったので、もうそれでいいと言えばいいのだけれど、淡々としているように私には思えた中屋敷法仁の「強い衝動」を、この次は、私もぜひ感じ取りたいものだと思う。