柿喰う客「無差別」

8.柿喰ったら渋かった
  中村直樹

  柿喰う客の芝居によって舞台上には大きな柿の実が成った。座長の中屋敷法仁はその柿の実をもぎ取って、客のすべてに投げつけてくる。客はぶつけられた柿を拾い上げ、がぶりと喰らいついた。渋さが口いっぱいに広がっていく。渋面を浮かべつつこう言うのだ。
 「なんて、渋い柿なのだろう」
 舞台上にいる中屋敷のことが意地悪な猿のように見えてきた。

 六角形の舞台の中央には黒く塗られたポールが立っている。そのポールを中心に高さを変えた鉄棒がくっついている。それはあたかも木の枝のようだ。六角形の舞台の周りには、黒く塗られた多くの照明が置かれていた。それらは照明の光が当てられると、壁に黒い影を映し出す。それはあたかも森のように見えるのだ。そこに黒いスーツを着た男と女の役者達が現れた。
 「如何に始めるかではない。如何に終わるかが大切なのだ」
 物語はこのような言葉から始まる。

 時代は昭和初期、戦争に突入しようという時期である。山の村に住む狗吉は、先祖の咎の為に赤犬を殺してその肉を売るという「穢れたこと」を業としていた。穢れた一族と忌み嫌われ、犬と扱われる狗吉は人間として扱われたかった。そんなある日、狗吉の妹として狗子が生まれる。狗吉は一族の呪いから妹を断ち切るために妹の分も穢れていった。

 山の上に樹齢1000年の大楠が立っている。長年山の生き物を守ってきた功績を天神に認められ、大楠の精である大楠古多万は神への昇格を果たした。
 「神への捧げ物として、娘を捧げます」
 眷属のモグラは腕を持たない美しい娘を生贄として差し出す。
 「私は生きたい!」
 そう願ったモグラの娘は自分の体を使って雄モグラどもの情欲を操り、穴を掘り抜いて、とうとう大楠古多万を倒してしまった。そうまでして生きたいという望みが叶えられ、モグラの娘は大楠古多万の代りに日不見姫神という神となる。倒され神の座を追われた大楠古多万はウラミダケというキノコの化け物となってしまった。

 人間として扱われたい狗吉は村人による提案に乗ってしまう。それは、神殺し。山の神である大楠古多万から大枝を切り取り、戦勝祈願をすることだった。人間となるために狗吉は最後の犬殺しを行った。それも妊娠している赤犬をである。それは生活のためではなく犬と人間の境界を越える覚悟のため。赤犬を肉と骨と皮にし、腹から引きづり出された赤子を投げ捨てた。そして狗吉は山に押し入り、倒れた大楠の枝を折り、その枝を村に持ち帰った。ようやく人間となった狗吉は人間として出兵していくのである。狗子は打ち捨てられた赤子の中から息のある雌の小犬を助け出した。その子犬に人之子と名付け、我が子のように育てるのである。それは兄の業への贖罪のようだ。

 神となった日不見姫神は自分を讃えることを村人達に強要する。しかし村人の舞は形骸化したもの。そこには本来の「敬い」が存在しない。新たな舞手を探す使命を得た人之子は村の外へ走る、走る、走る。ウラミダケに狗子が親の仇の妹であることを知らされるも、心の理に従って走る。そして真徳丸と出会うのである。村にやってきた真徳丸は日不見姫神の魂を踊る。その踊りに満足をした日不見姫神は真徳丸を自分の手元に置こうとした。だが真徳丸はそれを断る。それに怒った日不見姫神は真徳丸を軟禁してしまった。

 日不見姫神に許されて真徳丸が帰っていった後、天神が日不見姫神に自分が神になった逸話を説明する。それは意図せず神となった人間が死ぬことの出来ない悲哀を滲ませていた。
 「ピカッ!」
 「ドーン!」
 大きなキノコ雲がもくもくと膨れ上がった。そして黒い雨が森に降り注ぐ。恵みではなく死をもたらす雨だ。その雨は森に棲む生き物達は人間、ケモノ、神の区別なく蝕んでいく。圧倒的な力の前ではその区分すらものともしない。
 「キノコの神の祟りだ」
 ウラミダケと成り果てた大楠古多万は言う。天神も平安の都に対して恐怖を与える祟りから神となったのだから。だからこれも神の御技だという。

 戦争は終わった。神であった天皇も人となり、村には神もケモノも人間もない境界のない「無差別」な世界となっていた。そのような世界に狗吉は恥ずかしながら帰ってきた。人として生きられず、狗のように逃げ回ってしまったのだ。そんな狗吉に対して村人達は、黒い雨で穢れてしまった狗子ともども神のいた大穴に落としてしまう。それは新たに迎える神への生贄のようだ。

 そして、狗吉は己の命に祈り、人間を超えた神になろうとするのである。

 「如何に終わるのではない。如何に始めるかが大切なのだ」
 真徳丸のこの言葉によって舞台は終わる。

 中屋敷が舞台上から投げてきた柿の実はとても渋いものであった。まずは身分という境界、身体的特徴という境界、血と心の境界、不滅の命と限りある命という境界、翻弄する力と利用される力という境界といった「差別」を提示している部分である。しかし中屋敷はその差別を「提示する」のみで、それに対して意見を一切「提示しない」。差別するものと差別されるものが存在する世界を切り取って、ただ舞台上に提示しているのみだ。どちら側にも立っていない。だからこそ「無差別」なのだ。

 次は終わりの言葉を始まりの言葉とリンクさせたことである。これにより舞台の始めに戻ったような印象を与えている。さらにこの物語が何度も繰り返されているような印象も与えている。だから目の前の役者たちがあたかも前世を演じているように思えてくる。それはまさしく輪廻そのものだ。真徳丸はその輪廻の外にいる。解脱した存在、つまり真の徳を体得した仏陀なのである。解脱した存在にはこの世のことを諸行無常と見えるだろう。だからこそ「無差別」なのだ。

 このように舞台上に「無差別」な状態を作っていた中屋敷は、アフタートークで作品の内容を観客と語り合うことによって、舞台と客席の境界をいとも簡単に崩してしまった。そのことで観客を演劇体験から現実に立ち返らせることになる。虚構と現実という境界をも崩してしまったことになる。劇場内に人間達がただ居るという状態となった。だからこそ「無差別」なのだ。徹底した「無差別」ぶりに「お見事!」としか言いようがないのである。

 観客は提示されたものを「無差別」に感じた。しかし、それを理解するために「無差別」に境界を引いて「差別化」し、「言語化」するのである。私は「無差別」という作品の中で翻弄する力と利用される力という境界に一番の意味を見出した。まず、太宰府に流された菅原道真の祟りを鎮めるために天神として祀ったエピソードが語られた。そこには祟りすら自分の味方につけようという人間の業を感じられた。その上で原子力爆弾が炸裂したのである。その圧倒的な力が解放されてキノコ雲となり、その雲は黒い雨を降らせて森を蝕んで行く。「無差別」に死をもたらす悪魔的な力の前で大楠古多万はこう叫ぶのだ!
 「祟りだ、神の力だ!」
 原子の力が「祟り」であれば、それを「神」と祀って利用しようとする人間の姿が見えてくる。それは平和目的という名目で原子力を利用してきた姿そのものじゃないか。原子力発電所が神社に見えてくる。原子炉が御神体に見えてくる。確かに震災前は電力という恵みをもたらしていた。その恵みによって我々の生活は成り立っていた。まさしく神だったのである。

 他の観客もその客自身が境界を引いて「差別化」し、「言語化」する。それは差別に正面からぶつかったもの、舞台上で表現しているもの、観客の数だけ境界を引かれて「言語化」しているのである。つまり境界を引かなければ理解できない。語る行為そのものが十分差別的だと言えるかもしれないのだ。思わず劇評を書くという業を感じてしまった。
 「なんて、渋い柿なのだろう」
 ついつい渋面を浮かべてしまうのである。

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