柿喰う客「無差別」

4.柿評
  大村麻衣子

 柿喰う客、無差別。私の心を魅了してやまないのは、人之子(ヒトノコ)を演じた葉丸あすかの存在だった。観劇から半月経った今でも、私の脳裏には人之子がその尻尾を振って母のため、懸命に走る姿が焼き付いている。なぜだろう。正直、こんなに彼女が目を引くとは思っていなかった。

 柿喰う客には、性別にかかわらずエネルギッシュな役者がそろっている。さらに今回は、キャラクターの濃い演出家・中屋敷法仁までもが出演。リニューアルオープンした劇場の広さは分からない。しかし、濃厚な役者達の毒気を中和させるほど、舞台面積はきっと広くない。90分間、その濃度に耐えられるだろうか? そんな思いを胸に、劇場へと足を運んだ。

 かすれ声が胸を抉った玉置玲央。期待の細長い新人、大村わたる。途中本気でサイレンかと思う歓喜の声をあげた、深谷由梨香。内に内に宿していた七味まゆ味。一人方向性は違うのにやはり常人ではいられない永島敬三。この人、本当に自分をよく分かっているなぁ、中屋敷法仁。(以上褒め言葉。)こんなツワモノ達の中に揉まれながら、葉丸あすか演じる人之子は目を引いた。内面から湧き出る輝きを隠す術を知らない、純粋無垢な命そのものとして私の目に映ったのだ。私が人之子に陶酔しているのは、なにも私が犬好きだからではない(と思う)。だが、それ以降道端で散歩している犬の後ろ姿を見ると、どうしても葉丸さんを思い出すようになってしまった。彼女の動作、台詞、醸し出す雰囲気を思い出し、堪らなくどきどきするのだ。

 人之子という名前で呼ばれながら、彼女が演じたのは一匹の“狗”である。だが、本人は自分を人の子だと思って育つ。母犬は人間(玉置玲央演じる狗吉)に殺され、この世に誕生する以前にその腹に宿った命たちも失われるはずだった。ところが五匹の子犬の内、一匹にまだ息があることに気付く人間(七味まゆ味演じる狗子。二人は兄妹。)がいた。兄が殺し、妹が救った命、それが人之子である。なんと数奇な運命だろう。

 しかし不思議なことに、その不憫さに感情移入することはなかった。それは人之子のまっすぐさによる、浄化作用であると私は考える。人之子は狗子を母だと思い込み、その目を輝かせて母を見つめる。いや、それは思い込みではないのかもしれない。人之子にとって、狗子は本当の母親だった。

 「私は母さんの幸いのためなら、なんだってする!」

 迷いなく言い切る人之子に感じたものは、やはり“命”だったと思う。ところがどっこい、狗は狗。いつか自分が狗子の子どもではなく、人間でもなく、狗であることを知る日がやってくる。滑稽なシーンだろうか。それとも悲しいシーンだろうか。鏡に映った自分の姿を見て、「私は…狗だったの…!!」と衝撃を受ける人之子。いやそれよりも先に、母と慕って愛している狗子から、「なに、お前もこの母の仕事を手伝おうというの?…それは無理よ…狗畜生に仏は彫れません。」とすんなり言われてしまう場面の方が辛かった。そんなこと言わずに、ためしに彫らせてやってください、と今ならお願いしたい。モグラは神になれたのに、狗である人之子が天神様より命を受けて人間に成り変わることはなかった。

 自然の流れを考えるならば、生まれてきた命はその形のまま死んでいくものだ。私は人間として生まれ、人間としてこの生を終える。しかし、劇中ではそのような自然の流れを破ってしまう者がいる。「神」である。大楠古多万(大村わたる演じる楠木)は、森の神からキノコの物の怪に転生した。最終的にはキノコ雲となって、すべての命を傷つける雨を降らしてしまう。天神様(中屋敷法仁)として恐れられる神も、もとを正せば一人の人間だ。だが、都から左遷され、様々なものを失った怨みが募り、人ではなくなってしまった。生まれてきた形のまま、その命を終えることなく別の形へと生まれ変わる。その原動力を、「怨みの力」として脚本家・中屋敷は描いている。もう二度と、本来の自分には戻れず、命を終らせることも出来ず、彼らは怨みつづけなければならない。それはとても、悲しい末路ではないだろうか。

 怨み。激しい怒りや悲しみ、恐れなどの情動が胸に迫ってきたとき、私はどうするのだろう。やっぱり、そうなった原因を追究し、怨んでしまうのかもしれない。だから、人之子が怨みダケ(キノコの物の怪)に出生の秘密を聞かされた時、やっぱり私はどきどきした。もしも私が人之子で、お前が母として慕う狗子は、お前の本当の母と兄妹を殺した人間の妹、敵(かたき)なのだ、と聞かされたら。ショックで立ち直れず、きっと自分を責めるに違いない。そんなことが起こっても、好きなものを好きでいられるのか? 大事なものを、大事なまま、大事にできるのか。私に生まれてきたことを怨んでしまわないだろうか。それを聞いた人之子も、一度はその場に崩れ落ちた。事実を伝え、「怨もうぞ、怨もうぞ、一切合財怨もうぞ♪」と陽気かつ不気味に語りかける怨みダケ。(大村わたるが演じる怨みダケは、良いところで芝居のテンションを和らげてくれた。)

 しかし、人之子は「それでも、母さんは私の母さんだ!」と唸る。この展開も、その反応も、とんでもなく突飛なものではない。だけれども、単純な私は、やっぱりここで救われてしまう。人之子のけなげで忠誠心のあるキャラクターだけに惹かれているだけ? 暗く沈んだ話の中に、簡単に希望を見出そうとするひ弱な精神? どっちだとしても、いいじゃない。貫き通せるものがたった一つあれば、こんなに尊く生きていけるのだから。そんな風に私は受け取った。葉丸あすかから発せられる台詞は、私の脳天を突き抜けるようだった。まさに貫通。私の意識はそのシーンに、やっぱり今もピンで留められたように張り付いている。

 さらに物語は進み、人之子が胸のうちを吐き出す場面がやってくる。ここは、私にとって無差別という芝居のクライマックスだった。舞台中央にジャングルジムのように組まれた鉄の装置に登りながら、人之子は語り出す。

 「私は母さんに愛されたいのです。母さんの、おっぱいが飲みたいのです。母さんの命が欲しいのです。」

 十字架に磔にされたキリストのようなポーズで、私にはそれが懺悔に見えた。許されないものを、心から欲している人之子。決して与えられることはないけれど、実は与えることはできるのだと最後に彼女は気が付いたのか。いや、そんなことを考える暇もなく、狗子のことだけを思っていたに違いない。狗として生まれ、狗の身体で生きながら、人之子は「業」を破ったと私は思う。それは、命の形を変えた神たちとは、全く違ったやり方だった。人之子の原動力は、怨みではなく、愛情だったように思う。

「命の理(ことわり)にそむき、心の理に従おうというのか…!」

 怨みダケが人之子に放った台詞。どのような「業」の元に生まれようと、心の理に従って、命は生きることができる。きれいごとばかりじゃない世の中だけど、演劇の世界で感じられたことを、少しでも胸に宿して現実を生きていたい。甘ちゃんな私は、散歩途中の犬の尻尾を見ながら、そんなことを思っている。

 柿喰う客、無差別。それは、今までにぎやかなラベルを張られてきた彼らの、新しい試みだった。お決まりのビートに合わせて体を揺らさない。語尾を伸ばした現代語で早口を言わない。やろうと思えばいくらだって、彼らに武器はある。だけど、そこを使わずに、観客に届けたいものを見つけ、この形で試みた。ボールは投げなきゃ返ってこないのだから、それでいいと私は思う。だから私も、思いっきり自分のミットど真ん中で受け取って、返してみた。投げた分、いろんなボールが返球される。それらを受けた柿喰う客が、次にどんな得体の知れないものになっているか。それを受ける私たちが、どんな風に揺さぶられ、心弾ませ痛めるのか。あぁ、なんて楽しみなんだろう。想像つく人がいらっしゃれば、ぜひ私まで連絡してください。

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