柿喰う客「無差別」

5.越えられない境界線、揺らぐ境界線
  永岡幸子

 拍手がすぐにはできなかった。
 手がすんなりと動かない、そんな感じだった。
 演劇やコンサートなどの公演において、観客が拍手できない原因は二つに大別されるのではないかと思う。ひとつは、単純に、作品に対して不満がある場合。面白くなかった、つまらなかったなどの意思表示として拍手をしない、いわば拍手拒否である。もうひとつは、作品の世界に没入していて、終演時に茫然としてしまう場合。拍手するのも忘れてしまうといった状態である。

 「無差別」が終演したときの私の反応は、後者にあたるものだった。これにて終演とのアナウンスが流れ、役者たちがゆっくりと退場していくのを見つめながら、ああ、終わったのかと確認して、それでようやく拍手をすることができた。

 ぱらぱらと拍手をしながら、どうして拍手ができなかったのだろうかと考えていた。私自身が茫然としていたのは確かだが、それ以外の何かが拍手をさせないようにしているのではないか、とも感じていたのだ。
 では、それ以外の何か、とは、いったい何なのか。

 役者が去っていったあとの舞台を眺めていると、客席と舞台の間を縁取るように照明機材が並べられており、それが境界線か結界のように見えてきた。それが結界だとすると、今作で役者が立つ舞台は、能や狂言、神楽舞などを演じるための場所として設定されていることになるのだろう。実際、神楽舞は劇中に登場するわけだから、なるほど、これは神に捧げる演劇であったのか。神への捧げものであれば、それを見る観客は神々なのであり、神ではない我々に拍手させる必要もないということだろうか…という考えに至った。私は目に見える、あるいは目に見えない境界線を無意識に感じ取って、拍手ができなかったのかもしれない。

 戦時中から敗戦を経て戦後に至る時代の日本のどこか、おそらく西日本にある、とある集落。罪人の末裔である狗吉(いぬきち)は、食肉として珍重される赤犬を殺すことを生業とする一族の息子だ。彼らの生業は「穢れ」であるとされ、集落の民からは「イヌ」と呼ばれて忌み嫌われていた。イヌではなく人間として扱われたいと願う狗吉は、妹・狗子(いぬこ)を犬殺しに関わらせず、ノミを与えて仏像を彫らせるなどして穢れぬよう育て、自身は人間として生きる、というよりも、人間として死ぬために出征を志願する。山の神である楠木の枝を持ち帰ってくれば出征させてやると集落の民から言われた狗吉は、山から楠木の枝を持ち帰り、念願の出征を果たす。

 神木であった楠木の枝を、狗吉がやすやすと持ち帰れたのには理由があった。狗吉が山を訪れる前に楠木は倒されており、山の神様である大楠古多万(おおぐすのこだま)は狗吉がたどり着いたときには息も絶え絶えだったのである。大楠古多万を倒したのは、捧げものとして生け贄にされかけていた、盲目で手を持たないモグラの娘であった。オスのモグラたちを誘惑して楠木を倒させ、体を張って自らの命を守ったモグラの娘は、ことの成り行きを見ていた天神様から新たな山の神様となるよう命ぜられ、日不見姫神(ひみずひめ)と名乗ることとなる。倒された楠木にはキノコが生え、恨みがつのる大楠古多万はそのキノコに転生してウラミダケとなる。ウラミダケはのちに巨大なキノコとなり、黒い雨を降らせて人々を苦しめることで恨みを晴らす。

 集落で「イヌ」と呼ばれ、虐げられてきた狗吉は、出征によって初めて人間として扱われる。山では長きにわたって君臨していた楠木が倒され、「めくら」「手なし」と家族に虐げられたモグラの娘が新しい神となる。雷を操る天神様は元々人間で、生前の恨みを募らせたために成仏できず、神になったのだという。差別する側と差別される側の境界線、神と神ならざる者の境界線は、物語が二転三転するにつれてぐらぐら揺らいでいく。

 ようやく人間として死ねると喜んで出征したはずの狗吉は戦地で自決することができず、「恥ずかしながら」帰還する。国にはかつての差別がなくなって、神と崇めていた天皇も一国民となったことを知り、かつて自分が受けた差別は何だったのかと嘆きながら家に帰ると、穢れのないようにと育てたはずの狗子は被爆して、肌が焼かれてしまっていた。この兄妹の関係性もまた、戦中と戦後では大きく変化している。彼ら兄妹は終盤、集落の民に邪魔者扱いされ、山の大穴に放り込まれてしまう。神が不在となった山の中にある大穴で、兄妹はイザナギとイザナミのごとく交わり、新しい国を生むことを試みる。ここでもまた、神と神ならざる者の境界線が崩れている。

 文語のような、七五調を多用した、独特のセリフまわし。初めのうちは重々しく聞こえて取っ付きにくかったが、慣れてくると心地よく感じたのは、私が七五調のリズムに慣れた日本人だからなのかもしれないと思った。なかでも、幾度も繰り返される「神も獣も人間も―」というセリフが印象的に響く。「キノコ」、「黒い雨」という言葉で表現される原爆の前では、差別する側も差別される側も等しく無力であったことを示唆するセリフでは、タイトルの『無差別』とはそういう意味だったのかと気付かされて、はっとした。事前にホームページやチラシなどでタイトルを見たときは、殺人とかテロとか、そういった言葉を連想していたからである。

 差別、戦争、原爆といった、どちらかといえば暗く、重くなりがちなテーマを用いつつも、どこか軽やかな印象を与えるのは、役者たちの身体能力の高さと、巧みに言葉を選ぶことで紡がれている脚本の力によるところが大きいといえるだろう。

 まず、役者の身体能力について。例えば、舞台中央にそびえるジャングルジムのような七本の柱からなる装置を、役者たちはするすると登ったり、鉄棒のようにぶら下がったりして自在に使いこなす。彼らは事も無げにやってのけたが、気軽にひょいとよじ登るのは難しそうな高さがあるのだ。このジャングルジムのような装置に役者たちが登ったり絡み付いたりすると、山や楠木などに次々と姿を変えていく。この装置の上方に登っているのが原則的に天神様、大楠古多万、日不見姫神の三者、つまり神様であったことは、神と神ならざる者の境界線を示しているのだろう。

 次に、脚本について。上述のとおり文語のような七五調を多用し、話し言葉としてはやや重い響きを持つセリフにリズムを持たせることで、聞き取りやすくなっている。また、時に、笑いを生むようなセリフが挿まれるのだが、これによって緊張が一瞬緩み、箸休め的に一息つける効果を生んでいる。観客を疲れさせず、飽きさせずに引き込むバランスが絶妙だ。例えば、息絶えようとしているはずの大楠古多万の「ほんわかぱっぱ」というギャグのようなセリフには、つい噴き出してしまった。

 ただし、この緩急自在なセリフ群が、軽薄な印象も同時に与えている。それはセリフ自体が軽薄ということではなく、物語への踏み込みが今ひとつ不足していることが原因ではないだろうか。なにしろ上演時間が77分(劇場内に掲示された情報による。実際には80分強であった)と短い割に、テーマを詰め込み過ぎている。差別、人の生業(なりわい)と業(ごう)、穢れ、八百万の神、戦争、原爆、敗戦、天皇制…それら全てを少しなぞっては次の場面へと転換してしまうので、ひとつひとつのエピソードがどんどん流れて、消え去っていくように感じられるのだ。例えば、実際に天満宮に奉られている、いわば実在の人物(?)である天神様については天神様自身のモノローグで語られるだけで、せっかく実在の人物(?)を登場させたのに扱いがあまりに小さくて、なんだかもったいない。敗戦後に帰還した元兵隊である狗吉が感じる戦前と戦後のギャップについても、もう少し掘り下げれば、狗吉の人物像に陰影が増したのではないか。

 とはいえ、緩急自在な軽妙さが柿喰う客独特の味わいでもあるわけで、恐らく執筆段階あるいは稽古段階での取捨選択によって、劇団の持ち味を損なわぬよう、実際の上演台本よりも多くの情報を持っていた部分が削られていったのだろうと想像する。その削られていった部分も、もっともっと味わうことができたらよかったのに。帰り道、混み合う電車の中で、ぼんやりそんなことを思っていた。

 およそ1年半ぶりの新作で、その間には新たに劇団に加入した人があれば、劇団を去った人もあった。正直なところ、去った人の牽引力が強かった分だけ空いた穴は大きいなと感じたけれど、現在所属する7人の役者たちによる新機軸を目撃できたことが、今作における最大の収穫かもしれない。当面はオリジナル作品の上演をしないという柿喰う客だが、次にオリジナルの新作を上演するとき、どんなものが収穫できるのか、楽しみに待ちたい。

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