10.原因と結果 -「遭難、」より-
小林 まき
本谷有希子の書く台詞はきつい。それは、直球で心を衝く。今回の「遭難、」にも、観劇後も頭から離れない台詞があった。主人公の女教師里見(菅原永二) が放つ、「私から原因を取らないで!」という台詞だ。この「原因」とはなんなのか。里見はどうしてこれを必死に守ろうとしているのか。そして、周囲の人間は、なぜそれを彼女から奪おうとするのか。この里見の「原因」が導く「結果」が、タイトルにも繋がる舞台「遭難、」のキーポイントとなっていた。
このお芝居には里見を含む教師4人と自殺を図った息子の母親仁科(片桐はいり)の5名が登場する。この5人のうち、仁科と里見は、自分の主義主張のために荒唐無稽な言動を繰返し、周りを巻込む。一方、里見の同僚の不破(松井周)、江國(美波)そして石原(佐津川愛美)の3教師は、大人しく、どこにでもいそうな普通の人である。この強烈なキャラクターの里見と仁科の2名と、大人しい3名とのやり取りが、このお芝居の可笑しさを生み出していた。
冒頭シーンでは、仁科が自分の息子が自殺を図った原因は、担任である江國が息子からもらった手紙を無視したか破棄したからだと彼女を責めていた。仁科の非現実的な要求に屈しようとする江國を不破と里見がかばう。このシーンで理路整然とした教師に見える里見だが、もう1人の女教師、石原が自殺を図った仁科の息子の手紙を破棄したのは江國ではなく里見であることを彼女に糾弾すると、彼女の悪巧みや悪事が次々と明るみにでる。職員室に盗聴器を仕掛けていたり、他の教師の机の合鍵を持っていたりと、ストーカーにも似た里見の行動は、見ていて狂気的で気持ちが悪い。
しばらくして、手紙の件は、江國と不破にもあばかれ、里見は、黙っていたことの「理由」を問い詰められる。その際、里見は、かつて自殺を考えた中学時代、事前に教師に相談したにも関わらず信じてもらえなかった結果、自殺を図ったという過去があったことを話す。その話を聞いた3人は、教師から冷たくされたトラウマから、里見は同じことを生徒にしてしまったのだと結論付け、里見を許す。
だが、手紙の件から放免された後も、里見の所業は改まらない。不破の弱みを捏造することで、彼を黙らせることができるようにと、石原を巻き込んで陰謀を企てる。自分の行動が「トラウマ」のせいだと“太鼓判”もらった里見は、自分の悪行をどこか楽しんでいるようにもみえる。
里見の所業は、とても苛立たしいのに、仁科の言動と同様、可笑しくもあった。それは、女教師里見の役を男性が演じていたことも影響しているかもしれないが、里見の極端な行動と、なぜかその陰謀に乗ってしまう石原や、罠にはまってしまう不破の尋常さの対比が面白さを生んでいた。
しかし、その自殺行為が、建物の2階からの死なない程度であったことが判明する。そのため、3人は里見のトラウマを否定し、仁科にも手紙の件を告げ、共に里見のこれまでの所業を責める。それに対し、里見は、自殺をすると脅したりして、まだ必死に保身に走る。そして、里見は自分の非を認めた後も、仁科の息子への虐待など、仁科と江國、不破の弱みを告げ、皆自分と同じだと言う。里見の言葉に動揺した3人は、唯一汚点のない石原の弱みを、彼女が告発しない「原因」を創り出そうと、石原の服を脱がし写真を撮ろうとする。
この仁科と2人の教師が石原を襲うシーンになると、観客席からは笑いが消えていた。舞台上で起こっている出来事が急に可笑しさを失っていたからだ。そして、観客席が冷え切ってきたと同時に、舞台上の一室の左右外枠から雪が少しぱらつき始めていた。
石原への仕打ちは、仁科の息子の意識が戻ったという病院からの電話で止まる。仁科、江國、不破の3人は病院へ向け教室を出ようとする。しかし、里見が彼らを呼び止め、責めるだけ自分を責めてずるいと非難する。そして、自分の所業はやはりトラウマのせいなんだと言う。自分はトラウマのせいだから仕方ないけれど、あなたたちは違うだろうと。
しかし、4人は逆に里見を責める。そして、石原がそれなら仁科の息子と電話で話をすることで、そのトラウマを解消しろと提案する。不破によって病院に電話をかけられた時、里見は取り乱し、「私から原因を取らないで!」と叫び懇願するのだ。
結局、里見は仁科の息子と会話し、その後茫然自失となる。そして部屋の外に降っていた雪が、部屋の中でも降りだし、舞台は雪で覆われていく。舞台上の雪は、「遭難」をイメージしているのだと思った。それは、自分の行動の原因を奪われて、自分自身を見失った里見の心情を表していたのであろう。
ではなぜ里見は「遭難」したのだろう。彼女が他人に悪行を繰り返す自分の行動を、元来の邪悪な性格ではなく、トラウマのせいだとしたかった。でもそれを否定されたため、里見の心は「遭難」したのだと理解するとつじつまが合う。でも、本当にそれだけだろうか。
確かに彼女の心は曲がっている。しかし、その心の曲がりは、元来の性悪さだけではなく、果てしない自尊心への追求心から生まれているのだと思う。自尊心とは、他人に認められることで育まれるものである。彼女の悪行は、他人からの承認を維持するため、他人から否定されることを阻止するための自己防衛の行為であったように思う。だから、彼女にとって「原因」は悪行をする免罪符であるとともに、他人から認められている証明であったのではないだろうか。
私は、この物語の中に、もうひとつの遭難があると思う。それは、物語の中で起こっている悪行が全て里見の責任であるかのような錯覚である。江國が仁科の息子からのラブレターについて黙っていた事も、仁科が息子を虐待していた事も、仁科と不破が不倫をした事も、里見の悪巧みによって暴かれたことではあるが、彼女がけしかけたことではない。だから、ラストシーンで彼女が3人を責めるのは間違っていないのだ。彼らは自分たちの行動の事実は認めても、行動の「原因」を語っていないのだから。特に、仁科と江國の行動は、仁科の息子の自殺行為の直接的な原因でありえるはずである。だが、誰も2人を責めようとしない。なぜ里見の行動には「原因」が必要で、彼らの行動には理由が必要ないのか。「トラウマ」という原因を自分の動力としてきた里見には納得がいかなかったであろう。
石原を含めた4人が里見を非難したのは、里見の悪行ではなく、里見の他人の悪行を暴く言動に対してであった。里見が自分の「原因」を確認し、彼らの原因を追及した時、彼ら4人はすでに、仁科の息子の行動に対する原因も含め、あらゆる「原因」への関心をなくしている。ただ、目の前に起こっている里見の行動そのものだけに心が動いていた。そして里見から「原因」を奪い、彼女を「遭難」させた結果、他の3人の行動は、その原因と共に「遭難」してしまっていた。
劇団、本谷有希子のお芝居は、本評の冒頭にも述べたとおり、お芝居全体が難解であっても、あるシーンでのある台詞が、ドンと胸の奥に届き、気がついたら涙を流しているような瞬間があるのだ。今作でも上記のように頭に残る台詞があった。しかし、私の胸はえぐられなかった。私はその原因をずっと探ってきた。役者間の会話の“間”やミザンス、台詞の処理の仕方にほんの少しのズレを感じたのが原因のようにも思うし、物語が私自身の経験にリンクしなかったからかもしれないとも思う。そして、片桐はいりによる仁科と菅原永二演じる里見のキャラクター性が強烈で、結果、物語を軽くしていた部分があったかもしれないとも思う。しかし、私には、いまだに決定的な原因がわからない。確かなのは、自分の心が動かされなかったという結果だけである。
(2012年10月12日 19:00の回観劇)