劇団、本谷有希子 「遭難、」

5.でもしか先生
  平林正男

 かれこれ二十数年前、教員採用試験を受験した。いくつかのテーマの中から一つお題を選んで論述する小論文の試験があった。私はいじめに関するテーマを選んだ。そして〈いじめとは、そもそも学校という組織があるから発生する。いじめを根本的に解決するには学校を解体するしかない〉といった趣旨の論文を書いた。不合格だった。
 一年間就職浪人をした。翌年、再度教員採用試験を受験した。小論文では前年と同じくいじめをテーマに選んだ。そして〈いじめの芽を発見したらすぐに管理職に報告し、どのように対処すべきか管理職に指導を仰ぐ〉といった趣旨の論文を書いた。合格した。

 『遭難、』との最初の出会いは戯曲だった。演劇部の生徒たちが「上演したい」と言って本を持ってきたのが初めての出会いだった。
 人数がちょうどいいこと、学校が舞台なので装置が調達しやすいことなど脚本の外部の条件が、生徒たちが探してきた当初の理由だった。けれど、生徒たちと脚本を読み進むにつれて、本の持つ異常な力強さに引き込まれていった。

 物語には登場しない、自殺未遂を図る中学生・仁科京介。生徒たちは、物語のどの登場人物よりも京介に年齢が近い。台本で描かれる人々は、生徒たちをとりまく実際の大人たちを模した人ばかりだ。その大人たちのやりとりを演じる生徒たち。
 外的な条件がきっかけではあったが、『遭難、』の稽古は生徒自身を見る人々を演じるという、周りの大人を見つめ返すものとなっていった。

 どこの職場にもあることだろうとは思うけれど、特に学校というところは本音と建前とが複雑に入り交じったところだ。「人を育てる」なんてことは本来とってもおこがましい。そんな、他人を育てられるほどの人物であるのだろうか自分は。ちょっと客観的に自らを省みることのできる人ならばみな感じることなのではないか。人は年を取る。そして人の子の親になる。子どもの頃には絶対的な完全な存在だと思っていた親。その親に、不完全なまま自らがなってしまったことに気付いて驚愕する。

 その親たちから子どもを預かり、育てていく組織が学校だ。教師たちは人間として決して完全ではない。けれど絶対的な存在として子どもたちに君臨する。一方で、思春期を迎える子どもたちは親や教師の地位を疑い始める。じつはその地位が揺らいだ基盤の上に立っているものなのではないかと。じつは学校という組織が砂上の楼閣だったことを、思春期を学校で迎えたみんなは多かれ少なかれ感じるのではないだろうか。

 『遭難、』を見て、学校でのいじめそして自殺を描いた作品という観点から畑澤聖悟の『親の顔が見たい』や『ともことサマーキャンプ』を思い起こした。そして畑澤作品の方が、いじめを描くという点にかけてはこの『遭難、』よりも圧倒的に力強く、重たい。それは畑澤作品では、いじめを受けた生徒がすでに自殺している、死んでいる、という点にあるだろう。『遭難、』で自殺を図り植物人間状態に陥った仁科京介は、物語の結末では意識を取り戻す。

 そんな描写からも『遭難、』は、いじめや自殺そのものについてを描いた作品というものではないことがわかる。むしろ、いじめや自殺といった困難な出来事に対した時の大人の周章狼狽を描いた作品だ。子どもたちに君臨して建前で生きてきた大人たちが、子どもから本音をぶつけられた時のあわてふためくさまを描いている。

 『遭難、』に戯曲として出会った当初は、劇団の上演を見ることはないまま、本を何度となく読んだ。しかし本を読んだだけでは、里見先生が電話で語り、そして目の前に登場することを執拗に怖がる「先生」とは何者なのかがずっと分からなかった。
 上演を見た今でもその先生が何者なのかははっきりとは分からない。けれど、本だけを読んでいる時は思いもしなかったが、上演を見ている最中に、ああ、この先生は実在しないんだ…、という気持ちに囚われた。

 そのようにおもったきっかけはいくつかある。その一番大きなものは、主演の女役・里見を男優・菅原永二が演じることとなったことだ。里見の菅原永二はとてもしっくりしていた。主演女優の急遽の降板をしっかりとカバーしていた。それどころかむしろ元来この役は男優が演じるものだったようにも感じられた。男優・菅原が演じることにより、里見の語る理想がすべて本音を隠した建前であることが伝わってきた。ウソっぽいのである。女役としての演技がうまければうまいほど、ウソに見えてくるのである。
 すると、里見以外の登場人物もみなウソっぽく見えてくる。劇の構造が、ウソで塗り固められた仕掛けのように見えてきてしまう。

 開幕の時に舞台上と客席とを学校の窓を思わせるアルミサッシの壁が区切っていた。開演前まではその窓が鏡のように客席を映し出していた。これから見る芝居は、観客であるあなたたちの出来事そのままですよ、と語っているようだった。そのアルミサッシの壁の向こうに明かりが入り、壁の向こう側で芝居が始まった。聞こえる声はマイクを通して客席に伝えられた。途中からその壁は高く上空に飛ばされたが、この壁の仕掛けも、本音は学校という建前の中に隠されるものなのですよ、という比喩のように思われた。本当の思いはなかなか表には現されない。

 職員室でのやりとりも戯画的だ。「うんこしなさいよ、そこで」と始まる開幕の台詞。ありえない。自殺未遂の生徒を出した学年だけ、そのことを理由に職員室を追い出されてしまう。ありえない。ありえないことではあるのだけれど、この学校の場で、まさにありえないような事件が現実に起き、様々に報道されることが続いている。だから隔離職員室のような設定や超モンスターペアレントの登場などもありえるかのように思えてしまう。
 しかしこの一見しっかりみえる構造も、主演女優菅原永二の上手な演技によってウソっぽい仕掛けにどんどんと見えていってしまう。張りぼてであることがあからさまになっていってしまう。

 そのように見ているうちに…里見の話す先生も、そうか、実はこの相手は存在しない、里見が作り上げた虚像なのか、と思えてきてしまった。里見にとっての先生とは、究極の理想像であるのだろう。自分が追い求めた、完全な存在であるのだろう。親でもあり、神でもあるような絶対的な存在。だけれども先生は神ではなかった。人間だった。不完全だった。しかし里見はそのことが許せない。認められない。先生は先生であり続けてほしいのだ。教師とはどのような存在であるべきなのか。どのような存在として自分の前にいてほしいのか。劇作家の理想像が投影されているのだろうか。

 演劇部による『遭難、』の上演はアクシデントによって頓挫した。その上演を企画した生徒たちはこの秋、3年生になっている。進路決定のために奮闘している現在だ。そしてみんなの進路が決まるであろう来春3月に、3年生だけによる卒業公演を彼らは計画している。その演目が決まった、とつい最近彼らから報告があった。取り組む演目は『遭難、』。こんどこそ上演にたどり着き、高校生生活の最後に悔いを残したくないという。そして私も、彼らから見つめ返される大人の一人として、彼らの稽古に付き添いながら自分の有り様を見つめ返したい。

 学校という組織から卒業していく彼ら。職に就いて以来、毎年何人もの卒業生をこの間送り出してきた。そしてその傍らにはその彼らを見守りながら周章狼狽している自分がいる。組織があるかぎりいじめは起こると思いつつも、根本的な解決を図ることができない。ひとたびことが起こると、各人のケースに応じその都度どうしていくかを考えるという対症療法しか行い得なかった。職に就いて以来、結局は何も変わらないままの自分。
 『遭難、』しているのは私自身かもしれない。
(10月10日 19:00の回観劇)

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