劇団、本谷有希子 「遭難、」

2.逆境モトヤ
  中村直樹

逆境とは!?
思うようにならない境遇や不運な境遇のことをいう!!
                     島本和彦著 逆境ナインより

 劇団、本谷有希子はエキセントリックなイタイ女を主人公に据え、その女の自意識の暴発が物語を燃え上がらせ、パンチの効いたラストを迎える作品を得意としている劇団だ。そのような演劇は劇団公演「甘え」(2010年)にてひとまずの完成をみた。
 「素晴らしかった、素晴らしかった」
 私はいろいろな人に向けてそのように言っていた。そう言ってきた人々の中には読書家の友人がいる。
 「本谷有希子は天才よね。小説は全部読んでいるのよ」
 そう言っていた彼女は本谷有希子の作る演劇にも興味を持ったようだった。
 「今度、息子と観にいってみるよ」
 そうしてPARCOプロデュースの「クレイジーハニー」(2011年)を観てきたのだった。
 「どうだった?」
 私の質問に対し、彼女は渋い顔をしてこう答えた。
 「ものすごくつまらなかった。本谷有希子はもういいや」
 彼女は芝居を観慣れていない。だから役者が体現するものを感じ取れなかったのかもしれない。しかし、「クレイジーハニー」が、本谷有希子を絶賛していた友人にも届かない作品であったのもまた事実である。

 東京芸術劇場のリニューアルオープン企画で、「東京福袋」というイベントがあった。その中の一企画で作家が自作を朗読する「リーディング袋」というものがあった。そのリーディング袋の中でダメな男を描く西村賢太とイタイ女を描く本谷有希子を同じ舞台に乗せてしまうという、それはワクワクしてしまうものがあったので、それを観にいったのだ。お互いのリーディングが終わった後、二人のトークショーとなった。そのトークショーの中で本谷有希子は「遭難、」を再演する事について、このような発言をしていた。

 「十人中三人が分かればいい、その次は十人中二人が分かればいいというように先鋭化していっていて、まずいなぁと思っていた。なので、十人中十人が面白いと思ってくれるような作品に立ち返りたかった」

 本谷有希子も作品が通じなくなってきていたことを実感していたようだ。つまり逆境だ。だから自分の進む方向性に迷ってしまった。つまり本谷有希子自身が「遭難」していたのである。「遭難、」の再演を一番望んでいたのは本谷有希子本人なのだ。

 そのような逆境の中で再演が決定した「遭難、」はさらなる逆境にぶつかる。公演の3週間前に主演の黒沢あすかが病気によって降板することになったのだ。本谷有希子は菅原永二を代役に据えた。主役の里見先生は「女性」である。その役を男性が演じるのである。かなりリスキーだ。男性が女性を演じるということに、それなりの意図があるべきだ。現に今までの芝居はそうだったと思う。しかし、今回はその意図が明確に見えてこない。果たしてあのようなエキセントリックなイタイ女を男性が演じることが出来るのだろうか。他人事ながらドキドキとしてしまうのだ。そのような選択をする本谷有希子は只者ではない。外したら大火傷だ。その時は「男優だから」を逃げと考えてくる向きもあるだろう。その反面、ワクワクもしていたのだ。どのようなものになるのか想像もつかない。当たれば大当たりだ。その時は「男優だから」を利点として考える向きもあるだろう。本谷有希子が逆境にはたして勝つことができるのか?

 観劇当日、劇場に入ると舞台上には大きな壁があった。学校の校舎の壁だ。壁についているサッシ窓の向こうには机が並べられているのが見える。その壁は客席と舞台を完全に区切っている。まるで舞台上で起きていることはあなたたちと関係ありませんよと宣言しているようだ。
 「皆様ご来場ありがとうございます」
 本谷有希子による開演五分前のアナウンスがあった。これから始まるというワクワク感が湧いてくる。戯曲を読んだこともある「遭難、」。物語は分かっているが、舞台を観るのは初めてなのだ。どのようなものが飛び出すのかは実際に観てみないとわからない。そして覚悟を決める。舞台上のイタイ女と2時間程付き合うのである。それ相応の覚悟が必要なのだ。

 開演時間となった。芝居が始まった。壁の向こう側に役者が現れる。そして何かを演じている。しかし窓が閉まっていて、何を言っているのかよくわからない。そして壁が舞台の上に引き上げられていく。学校内が良く見えるようになった。とても簡素なセットで、まるでコントのセットのようだ。そのようなセットの中、役者たちは芝居を続けている。ようやく何が行われているのか分かるようになって行く。

 この中学校で、仁科少年の自殺未遂が発生した。一命は取り留めたものの昏睡状態にあるらしい。その仁科少年の母親(片桐はいり)が学校にやってきて、担任の江國先生(美波)を問い詰めている。
 「あなた、ここでうんこしなさいよ」
 このような無理難題を突きつけてくる仁科の母に江國先生は必死に謝罪をしている。
 「息子はあなたに手紙を渡したそうだけれど、それを無視されたから自殺したと遺書に書いてあったのよ」
 母親にそう指摘されるがそのような覚えがないと江國先生が反論する。学年主任の不破先生(松井周)が仲裁しようとするけれどうまく行かない。そこに里見先生(菅原永二)が割って入った。里見先生に言い負かされて渋々帰って行く仁科の母、そして江國先生は里見先生に感謝する。
 「仁科のこともあるが、尾崎犯も問題だ」
 中学校では他にも事件が起きていた。大人びた女性徒の尾崎に対するいたずらが発生している。いろいろなものが隠されたり、机に落書きされていたりするらしい。そのいたずらを誰がしているか分からない。そのため犯人は「尾崎犯」と呼ばれている。
 「俺、校舎を見回りに行ってきます」
 「私、仁科君のお見舞いに行ってきます」
 不破先生と江國先生は職員室を出て行く。職員室には里見先生と発言をしていない石原先生だけが残される。
 「里見先生、仁科から手紙を受け取ったの、里見先生ですよね」
 石原先生(佐津川愛美)の爆弾発言。なんと手紙を受け取って、無視をしていたのは里見先生だったのだ。

 しかし里見先生は悪びれない。里見先生が手紙を受け取った事実を、他の先生にいままで伝えなかった事実を持ち出して、石原先生を逆に攻めだす。反論できない事に付け込んで、なんと石原先生を仲間に引き込んでしまう。

 煙のないところに火を起こし、その火種を炎上させて人を落とし込める。そんな里見先生の正体が暴かれていく。それがとうとう不破先生、江國先生にもばれてしまう。
 しかし「トラウマ」という免罪符で彼女を許してしまう。不破先生はこれ以上自体を複雑にすることを避けるため、江國先生は里見先生より上位に立つためである。見た目は変わらない。しかし人間関係はすっかり変わってしまった。
 「不破の弱みを握らないと。尾崎犯に仕立て上げてしまおう」
 「犯人に仕立て上げてもまた起きるんじゃ」
 「大丈夫、もう起きないから。私が尾崎犯なの。だってあの子、ムカつくのよね」
 なんと尾崎犯も里見先生だったのだ。

 コントのようなセットの中、男優が女性を演じている。そして演じている女性の突拍子のなさが見事にはまっていく。不破先生と仁科の母はミュージカル「Crazy for you」のラストのような大袈裟なセリフとアクションの不倫関係を繰り広げ、果てには仁科の母も職員室の一員になっている。江國先生は悲劇のヒロインを演じるように「さぁぶって」と仁科の母に頬を差し出す。それもとてもオーバーに。しかし不破先生に夢中の仁科の母は江國先生をかまっている場合じゃない。とても滑稽なのだ。良質のコントを観ているような雰囲気なのである。見る前に決めた覚悟はなんだったのか。舞台上で繰り広げられる事を面白いと思えば、観客は何の気兼ねもなく笑えばいいのだ。今までの本谷作品にはない気楽さである。会場には健全な空気が充満している。

 そして事態は一変する。里見先生の本性を尾崎に知られてしまったのだ。里見先生の手から逃げ延びた尾崎は行方をくらませてしまった。尾崎の口から里見先生の本性が不特定多数に広まれば、里見先生の学校での立ち位置が激変する。弱みを握られてしまった訳だ。その結果、里見先生のボロが出始める。その結果、仁科の母に手紙を受け取っていたのは里見先生であることがばれてしまう。トラウマの原因になった出来事も職員室の一同にばれてしまう。それは同情も引きようもない事実。ただのポーズであった。結果に対する後付けの理由でしかなかった。
 「最低」と里見先生は職員室の一同にさげすまされる。しかし、こう反論するのだ。
 「相談の手紙を受け取ったけれど、相談する原因は私じゃない」
 里見先生は仁科の母が息子を虐待していたという噂があることを仁科の母に突きつける。そして仁科に告白された江國先生がうまく断れなかった事実を江國先生に突きつける。先ほどまでどこか滑稽だった二人の顔はみるみる強張っていく。「自分自身が一番かわいい」という本性を暴かれた二人は感情をむき出しにしてきた。そして里見先生とお互い黙っていることを契約するのである。唯一弱みのない石原先生は、他の先生たちに弱みを捏造されそうになる。

 クライマックスである。しかし、今までのような自意識の爆発が感じられない。不発と言ってもいいかもしれないほどである。本谷作品でいつも嗅いでいる匂いをほとんど感じないのだ。それは観客の意識がある場所の違いだ。今までの作品では、観客は舞台上に意識が集中している。そこで観客は他の登場人物と一緒にイタイ女に翻弄されるのだ。それほど近くにいるからこそイタイ女の発する匂いを感じているのである。しかし、今回の「遭難、」では、観客は舞台の外にいるのだ。舞台上で行われている事がワイドショーを観ているように感じる。どこか別の場所で起こっているような出来事を観ているのである。だから観客の意識を舞台上に連れてくることが必要だった。そして男の菅原永二が女の里見先生を演じていることが大きく関係している。どうしても喜劇性を払拭することが出来ていない。里見先生のリアリティが揺らいでしまっているため、里見先生と同じ平面に落ちてきた仁科の母と江國先生と不破先生がどんなに本質に迫ってみてもどこかリアリティに欠ける印象を得るのは否定できない。

 そしてラスト。病院から仁科少年が目を覚ましたと連絡があった。仁科の母と江國先生、不破先生はその事態に対応しようと病院に向かおうとする。その前に里見先生が道を塞ぐのである。
 「私は最低じゃない、あなたたちが最低だと認めてから出て行ってください」
他の先生たちは腹を立てるなか、石原先生はこのような提案をする。
 「里見先生が言って欲しかったことを仁科に言いましょうよ。それでトラウマを解消しましょうよ」
 不破先生は携帯電話で病院に連絡している。
 「私からトラウマを取らないで」
里見先生は必死に抵抗するが不破先生によって携帯電話を持たされてしまう。里見先生は自分が自殺未遂を起こして入院していた時、担任の先生に言って欲しかった言葉を電話の向こうにいる仁科に向かって、里見先生が自殺未遂をおこしたときに言って欲しかった言葉を仁科に伝えるのだった。その言葉は仁科に伝わり、里見先生には理由がなくなってしまった。そんな里見先生を置いて、他の先生たちと仁科の母は職員室を出て仁科の元に向かうのだった。

 一人残された里見先生は途方に暮れてさめざめと泣く。その姿は遭難しているようだ。そして机の下に隠したお菓子を食べるのだ。それは助け出されるのを待っているかのようである。

 「分かりやすかった」
 観劇後、最初に頭に浮かんだ言葉である。今までの本谷作品にはない分かりやすさだ。舞台上で翻弄されると覚悟していたのに、全くなかった。狭く深く表現されるものがなんなのかを考えて意味を捻り出す必要がなかった。だから物足りなさを感じる。「すごいことに遭遇した」というものを感じられなかった。

 でも「すごく面白かった」のだ。良い作品を観たという満足感に満たされている。「演劇として」純粋に楽しむことが出来た。イタイ女の行動を「実際」に体験したのではなく「物語」として体験したのである。「物語である」という意識が存在するため、「ここ、笑っていいのかなぁ」という心理ストレスも
あまりない。そのおかげで「十人中十人」が同じように笑えるのだ。観客にかなりの配慮がなされた。それは今までにない客観性を示している。
「あぁそうか」
 ここで一つのことに気がついた。本谷有希子はもはや「女子」ではないのである。

 劇団、本谷有希子は公演を重ねるほどにイタイ女の扱いがどんどん変わっていた。「幸せ最高ありがとうマジで!」(2008年)では里見先生のようなイタイ女が認められて終わる。「来来来来来」(2009年)では江國先生のような女が自分を認めてくれる継母(ボケ老人)とともに脱出して終わる。公演を重ねるほどに本谷有希子自身が心理的に成長しているように見えた。そしてとうとう「甘え」(2010年)では石原先生のような女の主人公が里見先生のような父親から独立し、自らを穢す強さを示して終わる。ついに登場人物の成長を描いたのである。この時点で本谷有希子は「女子」を卒業したのであろう。

 だから「甘え」の次の「クレイジーハニー」(2011年)は「女子」のフリをして作った作品だったのだ。「クレイジーハニー」は女の作家と彼女のファンの痛々しい交流を描いたものである。この作品では応援していることを名目に作家にピエロでいることを望む存在としてファンを描いている。それは本谷有希子に女子であることを求める観客を彷彿させる。
 「私をもう女子扱いするな」
 本谷有希子が女子であることを求める観客に向けて叫んでいたように思える。そのため、本谷作品を楽しみにしているほどいい気分にならない作品なのである。

 本谷有希子は「本谷有希子は女子である」というものを壊したかった。そのために「本谷有希子は女子である」を象徴する「遭難、」を再演し、あえて壊す必要があったのだ。

 初演の頃の本谷有希子は「女子」だった。しかし今は「大人の女」なのだ。つまり「女子」の戯曲を「大人の女」が演出したのである。それも「女子」だった自分を笑うように喜劇的で明解に演出したのである。

 終演後、会場内は割れんばかりの拍手で一杯だった。多くの観客が「大人の女」の本谷有希子が演出した「遭難、」を絶賛したのである。「十人中十人が楽しめる」作品となっていた証拠である。

 このように本谷有希子は勝った。見事、逆境に打ち勝ったのだ。

 「大人の女」になった本谷有希子は今までのような作品を作らないかもしれない。「女子」を求めるファンには物足りないかもしれない。離れていくファンもあるだろう。だが「大人の女」になった本谷有希子は未知数である。東京芸術劇場とともにリニューアルをされた「劇団、本谷有希子」は今まで以上の作品を作る可能性が高い。だから、本谷有希子から目を話すのは相当もったいない。

 「クレイジーハニー」が駄目だった友人も今回の「遭難、」を観たら、大絶賛したに違いない。懲りずに紹介してみようと思うのである。
(2012年10月13日 19:00の回観劇)

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