劇団、本谷有希子 「遭難、」

7.悪いのだーれだ
  別府桃子

 こんなにも登場人物が救われない物語があるのだろうか。終演後、長く息を吐き出しながらそんな風に思ってしまった。救われない。誰ひとりハッピーじゃない。それなのにバットエンドにもなりきってくれないからずるい。輪郭の濃いキャラクターは素敵だった。その人間が持つ悪が、自分の中にもあるとわかっているから、怖いくらい引き込まれた。彼らが放つ言葉もパンチが効いていておもしろい。舞台セットもカッコイイ。それは決して爽快ではないのだけれど、楽しい舞台だった。

劇場に入り席に着くと、観客と舞台の間に窓がある。その窓ガラスに、段々になった客席に座る面々が写りこんでいて少し滑稽だ。この窓、向こう側がちゃんと見えるのかなぁ、なんて思っていると客電が落ちた。ピンクの照明と音楽に煽られると、窓ガラスも真っ黒になって観客は消える。舞台と客席の間にあるのは職員室部分の窓がついた外壁で、ド頭のパンチの効いた台詞もそのせいでくぐもって聞こえた。インパクトのある幕開けだ。不思議だ。この舞台はどう進むというのだろうと訝しんだ途端、舞台と客席の間の窓ガラスはそこに存在するままに透明になる。

 物語の舞台は、二学年の担任教師4人を隔離してしまおうと用意された臨時の職員室。この学年では、尾崎という女生徒に対する嫌がらせ事件が発生している。男子生徒の仁科京介は自殺未遂で昏睡状態にある。母親である仁科(片桐はいり)は、息子京介から手紙を受け取っていたにも関わらず助けてやれなかった担任に問題があると異常なやり口で責め立てる。手紙は本当に受け取っていないのだと涙ながらに弁明し、ひたすらに謝罪する江國(美波)。エスカレートする仁科の詰問を止められるのは、決まって主人公の里見(菅原永二)だった。彼女は江國や学年主任の不破(松井周)からも評価されていて、一見人望もあつく実力もある理想の教師像。その場はなんとかおさまり、仁科と江國、不破がその場を去ると、もうひとりの教師石原(佐津川愛美)と里見が職員室に二人きりになった。そこで石原がこう切り出したことで、里見の仮面が徐々に剥がれていく。「仁科から手紙もらったの、里見先生ですよね?」悪いのは誰なのか? 最低なのは誰なのか? トラウマという理由にしがみつきながら、物語はすすんでいく。

 窓の部分は、今回の舞台セットの見所だ。窓がある時のくぐもった声の聞こえ方や、窓越しの時には職員室の全てが見通せない感じが演出的に楽しめたし格好良いと思った。けれど完全に肯定はできない。何度も窓が上がったり下がったりするのがうるさく感じられる人もいるだろう。それに、里見が終盤に四階から飛び降りようとする場面には肝心の窓がないというのは違和感を覚えた。迫真さが薄れてもったいない。

 俳優陣の演技を語る上では、やはり女教師を男優が演じたという点に触れざるを得ない。菅原永二は服装や言葉遣いは女性であるものの、特に女性に寄せた演技をしているわけではなかった。里見が嘘をつくように、男性が女性を演じるという一つの“嘘”も、なにかを炙り出す効果があるのかもしれない。個人的には思いのほか違和感はなく、呆れるほど自分を正当化しようとする里見の演技は迫力があった。初演で一度本物の女性の里見を観た人にはどううつるのかは興味があるところだ。また、佐津川愛美の演技も、普段から石原はうまく立ち回れないのだろうな、と想像を掻きたてられる真っ直ぐなキャラクターがよく表現されていてよかったと思う。片桐はいりの自身のキャラクターを活かした演技は安定して楽しめて、里見のモンスター加減が仁科のモンスターペアレントぶりにくわれてしまうのではと心配するくらいだった。

 生きているとしばしば理由を求められる。宿題をせずに学校に行けば、どうして宿題をやってこなかったのですか。進路や就職先を決めようと思えば、どうしてそこを志望するのか。知り合いからの誘いを断ろうと思えば、どうしてその日は行けないの。でも一々理由を用意してから行動に移すのは難しい気がする。考えないで決める時だってある。気が乗らない、ただそれだけの理由だったりする。そうしてある時気づいてしまう。後付けでもいいから、尤もらしい理由をでっち上げればいいのだ。そうやって、だんだんでっち上げの理由に慣れてくると、フィクションにフィクションが積み重なって、自分の中で色々な設定が出来たりする。時々、そのフィクションに自分まで飲み込まれて、どこまでが本当の理由なのかわからなくなる。

 そう。自分に優しい嘘をつくとキリがない。上手な嘘ができると自分で自分に騙されてしまうこともある。本当の自分から逃れるのは容易いし、心地よい。だから、里見先生を責めることはできない。でも彼女を完全擁護したい気持ちにもならない。笑ってしまうのだけど、笑えないのだ。理由にしがみつく様も。嘘を重ねて醜い自分を隠す気持ちも。歪んだヒロイズムも。自分にも内在するのだから、人ごとではないのだ。

 誰も救われないまま終わるけれど、決してバットエンドではない。尾崎も無事に帰り、仁科京介も意識を戻し、歪んだ関係も沈黙のもとに元通りになる。誰もが加害者で、誰もが被害者である。

 自分の席の近くに若い男女の二人組が座っていた。ヤングチケットの座席に座っていたし、話の内容から推察するに二人は大学の友人であるようだった。女性の方はあまり頻繁に観劇をするわけではないようで、男性は開演前から色々と舞台について説明していた。終演後もすぐに話し出して、女性に意見を求めていた。女性の方は「なんか、うん。なんかすごいよね」と笑っていた。男性は自分の意見を洪水のように語りだした。この舞台を観て、彼のようにスラスラと感想が出てくる人は少ないのではと思う。私は困ったように笑いながら相槌をうつ女性に心の中で同調した。さらっと消化はできないよね。

 帰りの電車の中で、ふいに気づいたことがある。里見のトラウマである自殺未遂の過去は、死ぬ気なんてなかったのではと責められていた。そこを責めるのは理不尽だ。だって、二階から植え込みに飛び降りたら、死ななくたって十分痛いじゃないか。里見は嘘をつき続けたし、他人の気持ちも分からなかったけれど、たかが二階からの飛び降り自殺、みたいに扱われるのはおかしい気がした。ようやく、里見を一部分だけでも擁護できて、何故かほっとする自分がいた。
(2012年10月20日19:00の回観劇)

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