劇団、本谷有希子 「遭難、」

8.待てば「回路」の日和あり
  大泉尚子

 前々からミネオの噂は聞いていた。生徒を2階の教室から逆さ吊りにしたり、指を開いた状態で手を机に置かせ、指と指の間を順にコンパスで突いたりしたという異常な逸話の数々。コンパスの際は、やられた生徒が家に帰ってからすぐ弟に同じことをしたのでバレたのだという。
 そんなことが、フーッと思い出された。幕開けから“モンスター・ペアレント”が大暴走するが、実は“モンスター・ティーチャー”の話だったという「遭難、」を見たとき。

 ミネオは、すでに社会人である私の息子が小学校4年生のときの担任教師だ。当時、何か事が起きたら、教頭や校長を通すと話が遠いから、直に教育委員会に電話した方がいいと聞き、早速電話番号を控えた。
 ある日息子が話すには、授業で答えられず、着ていたパーカーのフードをグイッと引っ張られ、上で紐を結ばれて頭部を巾着状態にされたまま、しばらく放置されたのだと。じたばたもがく様子に教室内は爆笑の渦だったそうだ。あの番号を回す時が早くもきたかと緊張が走ったが、一応どんな気持ちがしたか聞いてみると「すんげぇ、おもしろかった」と言う。電話はもうちょっと待つことにした。

 四十台で髪はボサボサのフケだらけ、教室でも煙草を吸い傍によるとヤニ臭いし、背が低く小太り、ズボンが長めで床をズルズルひきずっていた。だが意外にも、クラスの親からの評判は悪くなく、どうしようもないけど可愛げがあると言われていたし、生徒からも人気があった。

 とはいえ、噂に類することも、いろいろとやらかしはした。3学期に入って、あるお母さん―若くて生真面目そうな人だったが―弁護士を引き連れて学校に直談判にやってきたのだそうだ。ミネオは自宅謹慎となり、クラスでは自習と教頭が来る日が続いた。それまで擁護していたお母さんたちも「もうかばいきれないわねえ…」と言い、学年末、彼はひっそりと去っていった。

 ついでのように思い出したのは、我が家への家庭訪問のときのこと。
 「うちのは、テストでもケアレスミスが多いようなんですけど―」と私が問いかけると「でも、友だちもたくさんいることだし」とミネオ。「先生、それとこれとは別じゃあ…」と言いかけたら「ま、うちの子じゃないしね」と笑って、自分の子どもの何てことない話を少しした。
 そうだ、あのとき私は、例の電話番号はもう使わなくてもいいかなぁと思ったのだった。当時も今も、いわゆる子ども人質説は暗黙に了解されているだろうが、そういう対学校のバリアの中で、何か回路が通じた気がしたから。

 そういえば、この舞台の登場人物たちは、主人公である“モンスター・ティーチャー”里見をはじめとして、やたら回路を求めている感じがしたのだが、それはまた後にすることにしよう。

 話が巻き起こるのは中学校の職員室、それも、2年生の担任4人だけが隔離(!?)されている仮ごしらえの部屋。というのも、飛び降り自殺を図って意識が戻らない息子のことで、日課のように押しかけてくる仁科のせいだ。担任の女教師・江國は、なぜそこまでほっておいたのかと、理不尽に責められる日々。唯一の男性教師で学年主任でもある不破は、優柔不断で事態を収拾できないが、そこを、ベテランらしき里見が臨機応変に捌いている。
 ところが、仁科の息子から相談を受け、手紙までもらっていたのをネグっていたのは、実は里見だった。それを見ていたのは、ネクラっぽい同僚教師の石原。思い余って4人が揃った折に事の次第をぶちまけると、里見はしらばっくれて、石原の捏造が疑われたりもするのだが、結局、里見も渋々事実を認めざるを得ない。
 だがそれもこれも、自分が中学時代に同じように自殺しかけた折の、信頼していた担任教師の心ない一言のせいだと言い逃れる。あっけにとられたのか不破は対応しきれないし、江國は“トラウマ”のせいだからとむしろ里見をかばうような態度を示す。

 神妙にしていた里見だが、石原と二人きりになると本性を剥き出しにし、事を公けにするなら自殺すると脅しにかかる。屈する石原。理は明らかに石原の側にあるのに、里見の前では、なぜか蛇に睨まれた蛙のようにすくんでしまう。
 さらに里見は、口を割りそうな不破の弱みを握るべく、女子トイレに盗撮カメラを仕掛けて彼の仕業に見せかけようとするほか、あれやこれやと画策する。
 しかし、そんなことをするまでもなく、不破はあろうことか仁科と不倫関係を結んでしまう。仁科も、家では理解のない夫のもと舅・姑の介護に明け暮れるという事情を持つが、息子の飛び降りの原因に虐待を疑われ、脛に傷持つ身でもあった。江國は今や、責められることが生きがいになりつつある。
 それらを把握して、全員を翻弄するかのように振舞う里見。

 そんな里見の唯一の弱みは、かつての担任の女教師。ストーカー的に電話をかけ、どんどん捩れていく状況を報告しては、ねちねちと先生のせいだと繰り返す。一方で、その教師が学校に訪ねてきてすべてが暴かれるのではないかという、矛盾した恐れを抱いている。
 みんなが保身のために隠蔽に走ろうとしたとき、急転直下、仁科の息子の意識が回復したという連絡が入る。同じような体験をした彼に言葉をかけることで、里見の“トラウマ”は解消されたのだろうか?…という含みを持たせて幕―。

 人物相関図的にいうと、石原が里見にすくんでしまっているというほかにも、ここには、いろんな“すくみ”の関係がある。まず最初、江國は仁科にすくんでしまっていた。不破も同じく。仁科は家で夫や舅姑にすくみ、息子をすくませていたのかもしれない。里見は元の担任教師を、さぞかしすくませているだろうと想像できるが、実はその教師にすくんでもいる。一見やりたい放題の仁科や里見も含めて、すくんでいる奴ばかりが出てくる芝居だ。
 そして彼らは、そのすくみ関係を打破すべく、相手あるいは別の何かに“回路”を通じさせようと馬鹿馬鹿しいまでの獅子奮迅振りを見せる。仁科と不破の不倫も、江國がむしろ自分を責めてほしいと求めていくことも然り。

 仁科と不破が、文字通り触れ合い始める場面―。

仁科 先生だってしつけしなきゃって時は叩くでしょ? 叩いてみてよ。
不破 え。
仁科 ここ叩いてみて。
不破 え、じゃあー、駄目だぞ!(と仁科の膝を叩く)。
仁科 ほら! ほら叩くじゃない! 叩くでしょ?
(中略)
仁科 (押し返して)ほら、おはよーってするじゃない!…おはよーって!(この間、仁科は不破の膝や肩をずっと叩いている)
不破 はい! はい!(と不破もつられて叩き返して)
    身体へのタッチが大胆に力強くエスカレートしていき、いつのまにかその場の雰囲気で抱き合う二人。
                    本谷有希子「遭難、」(2007年講談社刊)より

 やや受け狙いに過ぎる強引な設定だし、不破は何でまた仁科と? とも思えるのだけれど、この力づくに籠もる切実さは否定しきれない。二人のすくみ関係が溶解する印象的なシーンだ。

 ちなみに「劇団、本谷有希子」という劇団名と「遭難、」というタイトルのどちらにも句点がついているのは、そこで瞬間的にクッとフリーズしてしまって、スルっと回路が通じないせいではないのか…というのは深読みだろうか。
 芝居のしょっぱなのせりふは、仁科が江國への嫌がらせで、一輪挿しを押し付けて言う「これにウンコしなさいよ!」であり、ラストシーンでは里見が呆けたようにあくびをする。ウンコで始まりあくびで終わる。人間なんて所詮口から肛門へとつながる糞袋、なんていう言葉もあるが、この話は逆だ。それにしても、口から肛門へのつながりも、回路と言えるのかどうか…まあ、そこまでいくとこじつけ過ぎかもしれないけれど。

 本谷有希子は小説でも、こういった硬直したがんじがらめの関係を前面に押し出す。「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」(2005)、「グ、ア、ム」(2008)では姉妹、「ぬるい毒」(2011)では男女が主役となる。里見と同等、あるいはもっと劇物的な毒をもったキャラクターたちだ。
 例えば「腑抜けども」で、女優になる夢破れ実家に戻ってきた姉・澄伽(すみか)は、かつてその自己顕示ぶりをマンガに描かれたことを根に持って、妹・清深(きよみ)を執拗にいたぶる。加えて、どちらの妹にも優しい義兄の宍道(しんじ)を籠絡し、新婚の彼と肉体関係を結ぶ。喘息を持ち、ストレスで死にそうになる清深だが、どんでん返しで姉に完膚なきまでのダメージを与えるのは、この被害者的な立ち位置の妹だった。
 「グ、ア、ム」はもっと軽く、滅茶苦茶仲の悪い姉妹が、ラストでは「おかん」のために楽しげに振舞うという、多少なりともハッピーエンドを匂わせる結末。
 いずれにしても、少し引いてみれば「じゃあ近寄らなければいいんじゃない?」の一言で片付けられそうなのに、言うに言われぬ強力な粘着力で結びついて、必死の形相で、相手を克服して自分を認めさせよう=通じようとする両者なのだ。

 「遭難、」の里見も、確かに自己保身のためには人を陥れることも躊躇しないトンデモ女。ちゃっかり不破を押しのけて学年主任の座を得たりするが、何より彼女の求めているのは、人に承認・評価されること。そして、こんなことをしているのは“トラウマ”のせいだと認められることである。元担任へのエンドレスな電話は、携帯の電波を最後のよすがとして回路を開こうとする痛々しいまでのラブコールにも聞こえる。
 終幕近くで里見は「私だって原因があると思いたいじゃない! 生まれつきだったらもう私…」「私から原因取らないで…!」と周りにすがりつく。さらに電話をかけていた相手の中学時代の担任は実在していたのかいないのか、それさえも判然とはしなくなる。
 もしかしたら、里見にとっての“トラウマ”とは、人からも認められ、自らが自らを認めるための回路だったのかもしれない。こんなことを言うのもはばかられるけれど、そんな里見が、私はそれほど嫌いではない。
(2012年10月4日 14:00の回観劇)

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