劇団、本谷有希子 「遭難、」

9.自意識の自家中毒
  澤田悦子

 本谷有希子は「女子の国」の住人だ。観劇するたびに、思春期の女子特有の居心地の悪さを思い出す。女子は女性ほど大人の分別をもっておらず、女ほど男性と駆け引きにも慣れていない、自意識と社会とのギャップにいらだつ存在だ。教室の中の閉ざされた空間で繰り広げられる、権力闘争。容姿やセンス、スポーツや学業成績を辛辣に評価し、ヒエラルキーが作られる。空気を読んで、自分のキャラクターに合うように発言しなければ、すぐにヒエラルキーの底辺に落ちてしまうのが「女子の国」である。

 女子から大人になるまで、「自分がかわいいって思ってるよねぇ。」「ホントに、自分が好きだよねぇ。」と本谷有希子は言われ続けていたに違いない。自意識過剰で自分が大好き、そのことのどこが悪いのかと、無意識であれ意識的であれ思っているような女子は、「女子の国」では批判される対象だ。だが、批評する周囲も、自分を愛する自意識過剰な存在だ。その事実を指摘してくる彼女は、厄介で面倒なのだ。本谷有希子の舞台には、「女子の国」に住む、面倒くさくて嫌な女子しか出てこない。そしていつも、私は居心地が悪い。

 「遭難、」の舞台は、中学校である。いじめによって自殺未遂を起こした生徒の保護者が、担任教師に対して責任をとれと連日押しかけている。いらだつ保護者をなだめ、担任教師の江國先生を思いやる、人格者の女性教師が主人公の里見先生だ。しかし里見先生は、いじめられていた生徒からの手紙を破棄していた。そして手紙を破棄されたことで、生徒は自殺未遂を起こした。彼女が手紙を破棄し事実を隠ぺいした理由は、中学生時代のトラウマである。

 里見先生はトラウマという言葉を使い、自分の都合の悪い事実について開き直る。その姿はまるで「トラウマ・クレーマー」である。クレーマーが本来の問題の指摘ではなく、クレームの形式を使い自分の不満やいらだちをぶつけて謝らせ、脅しで相手をコントロールするように、主人公の里見先生もトラウマの形式を使った脅しで、周囲のコントロールをするようになる。しかしそのトラウマは、虚言が生み出した幻だ。

 序盤、里見先生はトラウマという言葉を使っていない。手紙を破棄した事実を告白する際に、自分も中学時代に同じように自殺未遂を経験し、当時の担任教師から、「あなた、本当は、死ぬつもりなんてなかったんでしょう」と言われたことがあると話すだけだ。里見先生の告白にトラウマという概念を与えたのは、江國先生であって本人ではない。里見先生のトラウマは、江國先生から与えられた、自分の起こした行為を正当化するための言い訳である。江國先生からトラウマについて言われたあとから、トラウマのせいで生徒を守ることができなかったとする理由づけを行うのは、原因があって結果があるのではなく、結果に対して原因を当てはめて自分自身を守るためだ。

 里見先生は、当時の担任教師に責任転嫁を行うために携帯電話で報告を行う。「先生のせいです。」と里見先生は携帯電話で、話し続ける。その電話の先に相手などいないだろう。里見先生が携帯電話で報告するのは、トラウマによって自分の性格は歪んでしまった、現在の自分は、本来の自分ではない。本来の自分ならばこのような状況に追い詰められるはずがないと、自分自身に暗示をかけるためである。暗示によって愛する自分を守っている。だから、トラウマが解消されては困るのだ。

 しかし、自分を守っているのは、里見先生だけではない。担任教師の江國先生は、いじめられていた生徒から告白され、上手く断れなかったことで生徒を傷つけたことを隠している。本来なら自分の責任ではない手紙のことについて、生徒の保護者から責任を追及され、無理な要求を突き付けられることに酔っている。自分の責任ではないことについて追及されるのは、本来の問題から逃げるためには都合が良い。職員室の先生から同情され、悲劇のヒロインでいることが可能である。江國先生は悲劇のヒロインの立場に自分を置くことで自己保身を行っている。一方、生徒の保護者は、ヒステリックに責任について叫び江國先生を追い詰めるが、自分の子供である生徒も追い詰めていたのではないかと噂される。学校の責任を追及する被害者、子供を傷つけられた保護者の立場に甘んじて、自分の責任を回避している。里見先生を断罪する石原先生も疑問は生じる。なぜ彼女は、手紙を破棄したことをしばらく黙認したのか。手紙の破棄を訴えるのであれば、職員室の教員が全員そろっている方が良いのに、そうしないのはなぜか。そこに、里見先生に対する嫉妬と悪意は存在しないのだろうか。正義を行う自分という役割を演じることで、嫉妬や悪意を存在しなかったことにしているとも考えられる。また、職員室に唯一存在する学年主任の男性教諭は、そんな緊張感や不穏な空気を感じることもなく、ただ面倒な事態にうんざりしている。教員も保護者も、生徒の自殺未遂の問題に対する責任を放棄しているのだ。

 終盤に自殺未遂を起こした生徒は意識を取り戻し、里見先生はトラウマを強引に解消させられる。トラウマを失った里見先生は自分を見失い「遭難、」してしまう。自意識は行き過ぎてしまうと、自分自身を蝕む毒になる。自分を過剰に愛することは、麻薬のように中毒になってやめられなくなる。まずいと気づく頃には、もう引き返せない。里見先生はトラウマという免罪符を使うことをやめられなくなったことで、引き返せなくなったのだ。本谷有希子は残酷だ。意識を取り戻した生徒も里見先生も、「遭難、」から生還している。「遭難、」で物語が終わってしまうなら、劇的で周囲も感動するだろうが、生還後は現実が待っている。しかも「遭難、」以前にはなかった自分の隠しておきたい本性を、知られたくない周囲に知られている。

 里見先生は最後何をつぶやいたのだろうか。私には、「それでも私は、自分が大好き。」という里見先生のつぶやきが聞こえた。何があっても、自意識の自家中毒になってしまっては、やめることができない。

 本谷有希子の舞台は女子の舞台である。しかし今回の主役である里見先生は、男性の菅原永二が演じている。そのことが里見先生に虚構性をもたらし、胡散臭さや嘘っぽさを与えている。菅原永二が演じる里見先生は嘘に自ら溺れる人物として見え、コミカルで笑える部分もある。「遭難、」をブラックコメディーとして捉えた場合は、虚構性が高まることは良いのかもしれない。だが、本谷有希子の舞台はもっと切実性を伴っている。里見先生が舞台上で感じる焦燥感、恐怖はリアルな感情である。登場人物のリアルな感情を観客にも感じ取らせなければ、最後の崩壊に意味がなくなってしまう。しかし、女性が演じていれば無意識で納得できるリアリティーが、男性であることで薄れてしまった。里見先生を男性が演じたことは、女子のリアルな感情を表現させるためにはマイナスだった。男性では、里見先生が持つ女子特有の感情、自分を愛するがゆえの自己保身の行動を納得させるリアリティーがない。演じている本人も、里見先生の行動に納得していないように見えた。里見先生を演じながらも、「なぜこんな行動をとるのだろう」と疑問に思っていたのではないだろうか。演じる役者に疑問を持たせては、里見先生は「遭難、」できない。

 職員室の外壁を上下させる演出も、リアリティーを薄れさせてしまった。特に終盤、里見先生が窓から飛び降りようとするシーンをパントマイムで行ったことで、外壁を使った効果が半減してしまった。職員室の外壁を下げ密閉空間にすると、閉鎖的な緊張が高まるが、同時に舞台と観客の間に物理的な壁ができるため舞台の虚構性も高まる。本谷有希子の舞台の醍醐味は、虚構性の高さではなく、物語の矛盾や無理を感じさせない勢いと、痛々しく、息苦しくなるほどのエゴを振りまく女子たちの存在だろう。舞台構成を凝ったものにすると、女子たちは、切実性のないキャラクターになってしまう。本谷有希子の舞台に登場する人物たちは、全員彼女の分身だ。キャラクターではなく、血の通った彼女の物語を舞台に登場させてこそ意味があるのだ。

 やはり、本谷有希子は「女子の国」の住民なのだ。苦しくなるほどの熱量で、面倒くさい嫌な女を舞台に表現して欲しい。舞台上から、「だって、あなたも自分が大好きでしょ」と叫んで欲しい。でも、きっとそんなことを舞台に期待していると本谷有希子が知ったら、クスクス笑いながら「分かってないのね。」と言われそうだ。彼女は共感も理解も希望していないのだろうから。
(2012年10月6日19:00の回観劇)

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