劇団、本谷有希子 「遭難、」

12.東京芸術劇場で「遭難、」する
  小泉うめ

 「遭難、」した場所は、山でも海でもない。そこは学生時代に、いつもなんとなく近寄り難かった「職員室」である。放課後に呼び出されては、何を言われるのかとビクビクしながら訪れた場所であり、憧れの先生に会うために、なんとか理由を作ってやっとの思いで訪ねた場所である。実際のところは何が起こっていたのか、よく分からない空間である。途中出てくるような、「秘密のお菓子」を教師たちが密かに食べている場所かも、と改めて想像する人もいるかもしれない。こうした気密性が高く、教師だけの聖域である「職員室」で起こる壮絶な出来事を、「ありえないけどあるのかもしれない」と思いながら、それを開放した形で客席から覗き込むという愉楽、それが本谷有希子の戯曲「遭難、」である。

 さて、今回の東京芸術劇場・シアターイーストでは、これをどう見せてくれるのか。楽しみはそこから始まっていた。そこでしかできないことのたくさんある青山円形劇場で演じられた作品が、新しくなった東京芸術劇場でどのように上演されるのか、ということも舞台を観ている人間には注目される今回の再演であった。

 劇場に入ると、舞台前面にはガラス窓がセットされていた。そのまま演技を始めれば、聞こえてくる音声は大幅に制限される。サッシ窓なのでその枠も視界的には妨げとなっている。否応なしに、これでどうやって演技を見せようとするのか、という疑問が湧いてくる。
 そして、その窓に客席に座る客の姿が薄暗闇の中で映っており、客入れの間それが一人二人と次第に増えていく。開演を待つ間に客席が徐々に大きな群衆となり、この舞台上の「職員室」を覗き込んでいることに気付かされるのである。

 その間「ブルグミュラーの練習曲」が流れていた。ピアノを習ったことがなくても、多くの人がなんとなくは耳にしたことのある、日本ピアノ教育の初級から中級に位置する練習曲集である。だから「ここは中学校だろう」となんとなく想像して開演を待つことになる。そして「ひょっとしてこれは舞台裏で生演奏しているのだろうか」と感じる。演奏が下手上手(ヘタウマ)なのだ。所々でテンポが乱れ、ミス・タッチしている。それがまた不自然でもある。敢えて能力のある弾き手が、故意に中学生のレッスンらしく、そのような演奏をして録音したものであろう。アコースティックの音であるが、それは左右のスピーカーから聞こえていたので、生演奏ではないのも分かる。これによって、いかにも緩やかな中学校の放課後の時間を開演前から醸し出していた。
 こうして視覚と聴覚を通じた不安定と安定の組み合わせで、開演前から客席にサブリミナルに揺さぶりをかけてくる仕掛けが施されていた。
 
 そして、この職員室には最初から「ほころび」も用意されている。自殺未遂を起こした生徒・仁科京介の母(片桐はいり)を板付きで存在させて、第一声も彼女から入ってくる。4人の教師だけでは揉み消されてしまうかもしれない事件を、そうは出来ない方向に保つために、その聖域に「部外者」を配置していた。
 劇中彼女は「部外者」呼ばわりされることに、事件の「被害者の保護者」として激しく反発する。そして、むしろどんどんこの場所「職員室」の一員としての存在感を強めていく。だがそのことが、反って彼女が「部外者」であることを際立たせて、観る者にそれを教えてくれる。彼女がそこにいる限り、教師たちが話し合いの末どんなに口裏を合わせようとも、「私たちは知らなかったことにしましょう」という結末には辿り着けないのだ。
 
 主人公、女性教師・里見(菅原永二)は教師たちの中でも、面倒見が良くて憧れの的の人格者であるが、生徒の仁科京介の自殺前の相談の手紙を、その前に破り捨てていたことが発覚するところから「遭難、」が始まる。
 里見は、あらゆる手段を使ってその事実を、誤魔化し、騙し、隠蔽し、責任転嫁し、脅し、口封じし、自己肯定する。開いた口がふさがらないような、なんとも呆れた存在なのである。
 
 だが、里見もまた学生時代にいじめに遭い、自殺未遂を起こしている。そして、病室のベッドで、信じていた大好きな担任教師から、「でもあなた、本当に死ぬ気なんてなかったんでしょ」と言われた過去を持っていた。そして、今でも日々その担任教師に電話をしては、自分の屈折ぶりを報告し、言葉を求め、恨み事を言っているのであった。
 心理学に関心を持っている江國が、この出来事を知り、里見の「トラウマ」として、それを意味づける。まさに、その言葉は渡りに船であった。それによって、自己中心的で自分が大好きでいることの「原因」を与えられた里見は、水を得た魚のように開き直り、同僚たちの非難に抵抗する。自分が悪いだなんて考えられない。何と言われようとも、自分が可愛くて仕方ない。そんな里見が更に暴走して行く。

 今回の公演で触れておきたいのが、稽古途中の主役の降板により里見に抜擢された菅原永二についてである。何故、主人公の女性教師を男性が演じるのか。それは、この物語を単なるコメディにしてしまうリスクを伴う行為であり、本谷もチャレンジと述べているが、実際はその段階で十分な勝算があっただろう。すべて予定通りの確信犯ではなかったか、とも疑うほどである。
 
 彼を里見に選んだ方々の頭の中に、今年初めに公演されたハイバイの『ある女』で彼が演じた「女」のイメージがあったのは間違いないだろう。
 恋した上司に妻がいることを知り、その不倫関係を嫌悪しながらも、結局はその男からお金をもらいながら付き合いを続けていく「ある女」。新しい恋を求めようとしながらも、出会う愛にいつも翻弄され、非常識や不道徳と思われる行動を繰り返しながら生きていく。そんな「ある女」の物語は、駒場アゴラ劇場を連日の満員にさせた。
 
 その二人の女性は「献身」と「自己愛」という逆の面を膨大させた象徴的存在であるが、彼女たちが持つ、悲しさ、痛々しさ、苦しさには、共通点があり、配役が報じられた時には、その演技する姿は意外にもイメージしやすいものであり、また実際にそうであった。

 更に、里見を菅原が演じたことによる効果は別のところにも出ていた。本谷の戯曲と演出は、徹底的に主人公の女性を中心に掘り下げることにより描かれることが多く、選ばれた女優によって里見を十分につくり込んで演じた場合、どうしても他の役者たちは脇役として埋もれてしまいがちになる。だが、今回は里見先生を男性の菅原が演じたことにより、その対比として、石原(佐津川愛美)の真面目さや江國(美波)の可愛らしさが浮き彫りになり、結果的には同様に、その表面の姿の裏側に持っている暗さや自己陶酔が明瞭になっていった。

 仁科の母は、家庭では親の介護に悩んでおり、他方で息子の京介を「虐待」していた。だから、意識不明になっている息子を悲しみながらも、その息子が目を覚ますことを同時に恐れている。
 
 こと無かれ主義の学年主任・不破(松井周)は、いつもその場しのぎな対応でその職を果たしていた。しかし、クラスでいじめの対象になっている大人びた生徒の尾崎には、ただならぬ気持ちを寄せている。けれども、流されやすいその気持ちは、仁科の母への同情から、彼女との「浮気」関係へと進んでいく。
 
 仁科の母のクレームを一身に受けていた江國は、実はそうして苦痛苦悩を背負うことに喜びを感じ、自らの存在価値としていた。そのため仁科の母が、不破との関係により態度を改めて、江國を責めてくれなくなると、今度は物足りなくて耐えられなくなる。
 そして、そんな江國も、実は事件の前に仁科京介から「告白」されていたにもかかわらず、そのことは事件の後も隠していた。
 
 このようなことを、里見は手段を選ばず調べ上げ、手紙を破り捨てていたことを責め立てた同僚たちと仁科の母へ反撃に転じる。
 
 唯一「弱み」のなかった石原は、最後まで冷静に中立的な判断のできる存在として維持されている。それは、仁科京介が死のうとした理由の所在について、最後に結論を出す役割を果たすためでもあっただろう。
 そして、彼女が下す判断は、「そんなもの、分かりませんよ。私は仁科じゃないんだから。原因なんて全部が全部はっきりするもんじゃないんですよ。そんな単純なものじゃないでしょ。」という言葉だった。
 とうとう認めてしまった。
 里見は、「ほら、皆さんもやっぱり自分のことが大好きじゃないですか!」と勝ち誇る。この言葉に、結局は一同涙して屈してしまうのだった。
 「もう分かりましたよ、私たちは最低です。」と、江國が言った。
 
 物語は、病院からの電話で意識不明の京介が目を覚ますことにより終焉へと向かう。里見の「トラウマ」を認容した一同も、ここぞとばかりに、里見が中学生の時にかけて欲しかった言葉を京介に語ることでそのトラウマは「解消」出来ると説得する。
 抵抗の末、里見はついに京介と電話で話をするが、その声はチャイムの音にかき消された。
 
 前述の窓ガラスは、途中で何度か上下させ、場面を進めていく。その上昇のきっかけは、大立ち回りをしては「職員室」から外へと舞台前面を歩いて帰って行く仁科の母を示すためだったが、教師たちの密談や里見の学生時代の回想シーンではその窓ガラスは下ろされる。その際には、マイクが声と同時に、靴が床と擦れる音やドアやロッカーの開閉音までも拾い上げ、教室の中の戦慄を助長していた。
 
 初演の青山円形劇場では、客席に向けて「職員室」を斜めに配置して、壁と床を果実の皮をはがしたように広げた感じで見せており、その劇場の拡張感を活かしてまさに「職員室」を覗き込むようなセットになっていた。
 この「覗き」の感覚を、なんとかこのボックス形状の劇場で表現するために持ち込んだのが今回の上下動する窓ガラスであろう。それは視覚のみならず聴覚に対しても効果を発揮しており、「こんなやり取りをこのまま見ていていいのかな」という気持ちにさせられた。
 それぞれの劇場での演出に対する好みや評価の違いは分かれるかもしれないが、その客席が受ける感覚は、上演に際して一貫してこだわっている部分であることが想像できた。

 この当時の本谷作品は、最近のものよりも周囲からその作風として要求されているものの影響もまだ少なく、心の深層に秘めたるものを剥き出しにしながらも、表現が自由で娯楽性が高い印象がある。他方で専門家の評としては、本作が「岸田國士戯曲賞を逃したものの鶴屋南北賞を受賞した作品」であったということを改めて思い出し、その審査の意図を理解できた今回の再演でもあった。
 つまり、戯曲の細部を慎重に見れば、初演から言われている辻褄の合わないようなところや、登場人物設定の課題が確かに在る。だが、そんなことよりも、ただただ単純に観る者を引き込んでいく圧倒的な力を持っている。ここに、それぞれの賞が求めているものの違いがあるように感じており、それらの評が戯曲「遭難、」の位置づけを明確にしているようでもある。

 結局何があっても、里見は物凄く嫌な感じのする人間で終始する。だが、最終的にはただ非難だけするのは不適切かもしれないと思わされる。他の登場人物と比べて、別段彼女だけが悪いわけではないのではないかと考えさせられる。そして、誰にでも自分の中に似たような「自分好き」の感情があることを気付かせられ、頭ごなしに非難できなくなるのである。
 
 終演後、シアターイーストのロビーを抜けて、東京芸術劇場の吹き抜けの高い天井を見上げる。息詰まるあの圧迫感から解放されて思わず声を上げると、それが高らかに響く。重苦しい物語であったにも関わらず、その時込み上げてきたのは爽快感だった。
(2012年10月7日19時の回観劇)

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