城山羊の会「効率の優先」

3.ここは会社だろうか?(宮武葉子)

 三方を客席に囲まれた舞台には、オフィス用のデスクと椅子が並んでいる。人間工学的に工夫されていると思しき(よく分からないで書いてます)不思議な曲線を描く机と、カラフルなキャスター付きの椅子、ノートパソコン、僅かな私物。自席を作らないことでオープンな職場を形成するというアレだ、ここは新しい形のオフィスなのだ。
 なるほど、これは出来たばかりの、革新的な企業を舞台にした話に違いない。古いタイプの職場しか知らない中年の評者は、分かったような気になって頷く。
 と、役者がごく自然に現れ、するすると芝居が始まった。女性たちはお洒落で、古くさく画一的なスーツなど着ていない。部長と呼ばれる女性も若い。やっぱりこれはイマドキの会社の物語なのだ。納得し、安心して観劇体勢に入る。

 とある企業の企画室の、半日間を描いた芝居である。部長と課長、社員六名が働くオフィスには、のっけから微妙に不穏な空気に包まれている。理由は一つではなく、全てが明らかになる訳でもない。とりあえず、はっきりと示されるのは、この八名プラス専務の間に恋とセックスと憎悪があり、皆何事もないような顔をしながら、その実自らの感情をまき散らしている、ということである。

 神崎は課長と不倫中で部長が嫌い。
 高橋は添島と恋愛中で部長が嫌い。
 添島は女に暴力を振るう男。
 新婚の秋元は高橋を「心配」して、添島との恋愛に反対中。
 異動で来たばかりの佐々木は、過去に高橋と何かあったらしい。
 課長は部長の腰巾着。
 田ノ浦は離婚したて。
 部長は社内恋愛と、自身に向けられた憎悪を一掃しようと画策中。
 専務は一見フレンドリーで話の分かるおじさん。

 これでトラブルが発生しないはずがない。そして実際、トラブルは発生する。大きなトラブルである。だが皆が自分の都合ばかり考えているので、そのトラブルさえもすんなりとは片付かないのである。

 笑えるところはいくつもあった。最も印象的なのは、「あれです」「まあ」「そういうことで」などの、『内容のない言葉』が連発され、会話が常に曖昧であること、そしてその曖昧さそのものが何かしらの意味を伝えている、ということである。話し言葉の何割かは無意味であるという話を聞いたことがあるが、分かったような分からないようなやりとりが、変にリアルで面白い。
 職場で本当のことばかり言う訳にもいかない。結果として、何となくそれっぽい言葉が多用される。受ける側も自分の都合に合わせて解釈する。便利ではあるが、「それっぽい」だけの言葉は伝達力の点でいささか弱く、話はどんどんかみ合わなくなっていく。いかにもありそうなことのように思える。
 これを深刻に、新劇調で演られたらぶち壊しであるが、演じ手はあくまで軽く言葉をやりとりしており、その軽やかさが日常らしさをよく表現していたと思う。

 そこのところは面白かった…のだが、一方で初めから何かが違うように思え、その違和感は最後まで消えることがなかった。
 ここは会社だろうか?

 評者は社会人になってもういい加減長いが、実際に見聞きした職場はそう多くはない。業種も限定されているので、本当のところは分からない。自分が知らないだけで、こういうオフィスは全然珍しくなくて、そこらにごろごろしているのかも知れない。そう自分に言い聞かせながら見ていたのだが、やっぱり納得はし切れないのだった。
 オフィスの設備が新しくメンバーが若い割には、課長が部長や専務にへいこらする辺りがやたら古めかしく、ここがどういう会社なのか、というイメージが一つにまとまらない。これを敢えてやっているのであればそれでいいのだけれども(新しい会社も古い会社も、日本の会社は皆同じ)、どうもそういう感じでもないようだし。

 そもそも、ここには仕事をしている人がいないではないか。
 田ノ浦宛の電話や見積もりのミス指摘、会議室に移動する云々以外、登場人物が仕事をしている様子はない。あとは会話しているだけである。場合によっては椅子を寄せ、「露骨に内緒話中」の体勢に入っている。いや、職場で雑談をすることはある。ここだけの話になることもある。が、そればっかりということはないだろう、普通は。

 「仕事して」を連発する部長自身、携帯をいじるばかりで働いているようには見えなかった。仕事の電話やメールを処理していた、といえない訳ではないが、固定電話とパソコンを前に携帯を使われると、それが仕事なのか私用なのかの区別がつきにくいのだ、旧世代には(「世代」という言葉の使用が時に卑怯であることは自覚しております)。
 足元サンダルという姿と相まって、バリバリ働く女性に見えなかったのだが、これは偏見なのだろうか。
 背広ネクタイの男性社員も全然働いているように見えなかったのだから、服装はこの際関係ないか。ただ、自分がこの場にいたら「あぁ部長また私用メールだよ」と思うだろう、確実に。

 部長と平社員の面談シーンもあったが、これが事務所内で行われ、その間だけ都合良く他の人がいない、というのも解せない。事務室を無人にはしないものである。全員参加の打ち合わせもないではないが、それは例外で、たいていは留守番の一人ぐらいは残す。
 誰もいない間に誰かが入ってきて、パソコンの一つも持ち出したらどうするんだ! 情報漏洩になるじゃないか! …というか、そもそも面談をオープンな場所でやるのが間違っていると思う。今、他の人がいなくたって、いつ戻ってくるとも知れないのだし、他部署の人間が入って来るかも知れない。他の人に聞かれたくない話をするなら特に、会議室なり何なりでやるだろう。やらないのかな、イマドキの会社は。
 それにしても、この人たちは空間認識が甘い。二人っきりになったからといって、オフィスで不用意に女を下の名で呼ぶようなことはあまりしないと思う。不倫中であれば尚更。疚しいところがあるのだから。

 そうかと思えば「まっすぐに、同じ方向を全員が進んでいけば、いいことしか起きない」などという青臭い台詞が出てきてびっくりさせられる。エライ人が朝礼か何かで檄を飛ばすためにスローガン(=嘘と建前から出来ていることを皆が知っている)を口にする、という場面なら別だが、腹心との会話でそんなことを言われても。
 「オトナが集う以上、職場では色々なことが起きる」「だが空気を読む力に長けた日本のオトナは、それをわざわざ口にしたりはしない」社内での不適切な関係に対する態度としては、こちらの方が自然なのではないかと思うがどうだろうか。この感覚も古いのだろうか?

 考えてみれば、三人登場する女性全員が社内の男と関係を持ち、話の途中で唐突な言動を示す、というのも極端である。こういう女性ばかりが採用されているのか、ここで働いていると皆そうなってしまうのか。
 いずれにしてもパーセンテージが高すぎる。それとも、これも世間的スタンダードなのだろうか。「オマエが知らないだけだ」「これだから中年観客は柔軟性がなくて困る」などと言われてしまうのだろうか。であれば、スミマセンと頭を下げて引っ込むより他ないのであるが。

 考え方もバックグラウンドも異なる人たちがたまたま一緒になり、長い時間を一緒に過ごすことになる。当然、感情的な不和も発生する。ストレスも溜まる。それでも本音を出し合えない。そういう人たちが何となく発した言葉や行動が思わぬ方向に転がっていく、というところがこの芝居の面白さであると思うし、その点では十分楽しめた。
 ただ、この設定は「一般企業」を舞台にせずとも成立するように思われる。話の前提となる「職場」にリアリティを感じられず、どうもノリ切れなかった、というのが正直なところである。

 こう書くと「細かいリアリティを求めるのは演劇の本質から外れる行為である」「舞台上に本物を再現する必要はないだろう」と反論されそうな気がする。もちろん、本物の会社員を連れてこいというつもりは評者にもない。描かれた内容に比して、舞台上にあったものがそれらしく見えないのが惜しい、といいたいのである。

 さすがに現場に踏み込んだことはないが、職場での情事ならいくつも知っている。パワハラで精神(と、その後の社会生活)を壊された人も、過労で命を落とした人も、残念なことに何人も知っている。「ウチの会社、前にこういう人がいたらしいよ?」というような噂のレベルではない、直接の知人の話である。
 確かに人は職場で発情するし、殺されもする。だからといって、他の人たちがそれを理由に辞めたという話は聞かない。自分の身に降りかからない限り、目をつぶって流しているのである。そういう意味で、この芝居は評者にとって「リアル」だ。けれども、日がな一日周囲と喋っている会社員は、オフィスワーカーとしてリアルではない。言いたかったのはそういうことだ。

 「オフィス」ではない「職場」も、この世には沢山ある。もう少し作り手あるいは演じ手に近しい世界が設定されていれば(例えば劇場のオフィスとか?)、あるいはもっとすんなり受け入れられたのではないかと思うと、旧式会社員としては惜しい気がする。
(2013年6月7日19:30の回 観劇)

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