城山羊の会「効率の優先」

5.ウソつきオセロのドミノ倒し(仲野マリ)

 とあるオフィス。1台の電話が鳴って、昼食から戻ってきた会社員が受話器を取る。そこから始まる、日本のどこにでもあるような会社員たちの平凡すぎる日常。ところがちょっとしたボタンの掛け違えから、暴力の連鎖する非日常へと変貌していく。

 きっかけとなるのは、「ウソ」。男性社員・秋元は、後輩の女性社員・神崎から「小松課長にセクハラされている」と告白される。だが秋元が問題解決のために小松に直談判を始めた途端、神崎は「そんなこと言ってません」と自分の発言を否定。当然ながら、秋元はあっけにとられる。この「ボー然感」が、この芝居全体を組み立てるモチーフである。これを起点に、この課の中では「さっき言ってたのと違うじゃん!」的なウソが頻発する。

 信頼していた人に、大事なことでウソをつかれるなど、普通の人間は考えもしない。秋元と同じような「ボー然感」を経験した人は、存外多いのではないだろうか。ここまで他人のプライバシーに踏み込んだ問題でないにしろ、第三者の前で「この前そう言ってたよね」と軽い気持ちで同意を求めたときの「え、何の話? 私知らない」が浴びせる冷や水。とりわけみんなの意見を代表して言ったつもりの場で、援護射撃もなくハシゴをはずされたときのショックたるや、計り知れないものがある。

 こうしてウソをつかれた方がダメージを受けるのに対し、ウソをついた方は悪びれたふうもない。「ウソをつく人」に共通するのは、その場その場で自分の都合のよいことを口にするところだ。争いごとに巻き込まれるのは面倒だから、責任をとるのはいやだから、あるいはその場を繕い、言い逃れをするために、人々は平気でウソをつく。自分の発言に最後まで責任をとるという覚悟は皆無である。

 彼らにとって、「ウソ」は「ちょっとしたコトバのアヤ」にすぎず、世の中を丸くおさめるための方便でしかない。目くじらを立てるほどのことではないのだ。無自覚に「ウソをつく」彼らは、たとえ前に言ったことと整合性がなくても、おかまいなし。逆に、「整合性」や「正しいこと」を求めてひきさがらない人々の神経のほうが、おかしいと思っている向きさえある。

 つまり「絶対的な真実」など、彼らにはないのである。存在するのは「相対性」のみ。いったん「白」と言っても自分の立場が悪くなれば、「黒」にし、「黒」がもう一度「白」になることだっていとわない。その上、困ったことに彼らは自分の立場が悪くなると知るや、絶対に引き下がろうとしない。この芝居の登場人物たちは、社内の人間関係(あるいは力関係と言ってもよい)に引きずられて矛盾だらけの「オセロ」を繰り返していくが、それぞれの胸のうちに「わだかまり」はくすぶって蓄積され、ふとしたきっかけで暴発する。言い合いは暴力に発展、最後は単なる社内でのいさかいが、ついに死人を出すまでに至る。

 自分の責任を回避し、すべての厄介事を「見て見ぬふり」をしていた彼らが、同僚の「死体」の前でやったことは何か。―「仕事」である。なぜか。―部長が「そんなことに関わっている暇はない、今日やらねばならぬ仕事をしろ」と命じたから。

 部長は女性である。この部長、題名にもなっている「効率の優先」の権化として描かれる。「仕事第一」の社内では、「恋愛」も「セクハラ」も「暴力」も、「あってはならないこと」であり、そんなことを社内に持ち込むな、仕事をしろ、仕事だけをしろ、と息巻く。そして、こうした仕事の効率に不利益なものは、たとえあったとしても「なかった」ことにするために、人々はウソを重ね、「殺人」まで「なかったこと」にするのである。

 さっきまで一緒に働いていた同僚を「殺してしまった」という意識もいつのまにか薄れ、早く仕事に戻らなくては、の一心で動き回る彼ら。まるで終わったイベントの後片付け気分で同僚の死体を片付けようとする社員たちを、観客は「ありえない」と思いながら見ている。オフィスに死体が転がっていても仕事をするという神経は、普通では到底考えられない。でも、実は私たちは、そういう「ありえない」環境に生きている。そのことに「無自覚」だっただけだ。この社会の「ありえなさ」に気付いたのは、3.11の東日本大震災以降かもしれない。

 作・演出の山内ケンジはこの劇を作る動機の一つとして、以下のように語っている。
「『相当のことが起きても、仕事はしなくちゃいけない』という実感が、東日本大震災以来、あるんですよ。(彼の活躍している)CM業界でいうと、あのときはずっと公共広告機構(AC)のCMが流れ続けたりして、異常な状態が続いていた。それでも自分が会社に行っている、仕事をしている、というのが不思議だなという気持ちは2011年3月からずっとあるんですよね」

 3.11、東日本大震災が発生した夜、東京では交通機関が麻痺し、寒空の下路頭に迷う帰宅困難者が町中に溢れた。危機管理のマニュアルができていた会社や大学、公共施設や教会などが彼らの受け皿になって仮の宿を提供した一方、JR東日本は「線路を歩かれてしまうと保安点検に時間がかかる」という理由から駅構内への立ち入りを一切拒否し、冷酷にも駅のシャッターをすべて下ろした。まさに「効率の優先」である。

 JR東日本はその後、各方面から非難を浴びた。そして今後は同様のことが起きた場合、構内に人を入れることを約束した。JRは「それが正しい」と思って変更したのだろうか。それとも、「立場が悪いので」そうしただけなのか。日本という国では常に大きい声のほうが勝つ。この決定も、単なる白黒逆転にすぎないのではないだろうか。

 この舞台でも、登場人物たちは状況によってウソをついたりつかれたり、被害者になったり加害者になったり、仕事優先になったり恋愛優先になったり、と「白」「黒」が即座に逆転していく。そこに、さしたる理由はない。理由を求めてはいけない。彼らは、ただ「状況」に流されているだけなのだから。

 それは現代における、一つのリアリティかもしれない。しかし、すべての社員が「相対的な真実」しか求めていないという点が、物足りなかった。泣いたり叫んだり、暴れたり喘いだり、舞台上には一見多様な動きがあるようでいて、実はステレオタイプであり、登場人物全員が、文字通りオセロの「駒」でしかない。

 少し毛色が違ったのは、女性部長だけである。「恋愛禁止」と言っていた彼女が、最後に専務を「求めた」衝動は、「状況」ではなく、「意志」だ。しかし、なぜ彼女だけが「意志」を持たねばならなかったのだろう。もっとも堅固に、もっとも執拗に「黒」を押していた彼女なのに。彼女が恣意的に「黒」から「白」に舵を切ったきっかけは、一体何だったのだろう。自分の管轄する部署内で、2人も死人が出たという異常事態に対処しきれず、思考停止になったということだろうか。

 彼女が専務とかつて恋人だったという設定は、ラストシーンを構成するために不可欠ではある。だが、それが判明した時点で、女部長が厳格に「恋愛を持ち込むな」と言い張る理由が、ひどく矮小化されてしまった。彼女が部長に昇進したのも、彼女が「仕事だけをしてきた」からではなく、「恋愛関係によって引き上げられた」ようにも見えてしまうからである。

 「白」から「黒」つまり、自分が社内恋愛をしていたにもかかわらず今恋愛禁止を叫ぶのも、「本当は今でも恋愛を持ち込みたいのに、専務からそれを拒否されていたから、八つ当たりのようにして部下にもそれを押し付けた」ように感じられる。いずれにしても、恋愛禁止は彼女の本意ではない。組織の中で、あるいは専務との関係の中で、相対的に出てきた結論である。

 彼女が、社会での責任ある立場で自ら一貫して進めてきた「相対的な真実」を放棄し、「あとは野となれ山となれ」状態まで爆発したその修羅を、私は観劇後、ずっとひきずっている。

 日本では、女性が管理職になるのは非常に困難で、なったとしても、男性以上の努力を必要とする。だからこそ、女部長が「効率」より「セックス」を求めるラストシーンが、もし「彼女はコトの最中でも部下に電話をとれと指示する」という「笑い」をとるためだけに作られたとしたら、彼女があまりにも可哀そうに思えるのだ。

 この作品で作者が描きたかったものは、何だったのだろう。私たちは社会においては「駒」でしかなく、駒は白を黒と言いながらでも働かなくてはならず、そのくぐもった抑圧から解放されるためには暴力とセックスに走るか、それらを見ても笑い飛ばす鈍感さを身につけて自分を守るしかない、ということなのだろうか。それに賛同できないから、消化不良なのだろうか。

 作者の狙いは、逆にこうした現状を憂いつつ、もっと違うやり方があっていいのでは?という問題提起であったのかもしれない。でも私にはそうは読み取れなかった。このオセロやドミノ倒しに加わらない人物、もう少し「ふつう」の感覚の人が登場していたら、受ける印象は変わっただろうか。

 いや、テーマや結論の問題ではない。どんなに突飛な事件を描こうと、いかにいやらしい、最低な人物を主人公にしても、心をわしづかみにされる舞台は存在する。私は今回の舞台では、誰にも感情移入できなかった。きっと私は女部長の人生に自分を重ねたかったのだろう。だから、「もっとちゃんと描いてくれ!」と女部長の代わりに吼えてしまったのだと思う。
(2013年6月12日19:30の回 観劇)

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