4.恋でいっぱいの会社――ペルソナと素顔を巡って。(水牛健太郎)
城山羊の会「効率の優先」は、ある会社のオフィスで起きる出来事を描いているが、登場人物たちはまったく仕事をしない。「仕事中なんだから」「仕事しましょうよ」「仕事したいんで」と彼らが言う度に、何か悪い冗談のよう。彼らが全力を注いでいる、と見えるのは、「仕事以外の要素」。不倫を含む、社内恋愛である。
しかし、会社を舞台にした作品で社員が仕事をしないのは特別なことではなく、むしろ映画だろうとテレビドラマだろうと漫画だろうと小説だろうと、それが普通だ。このジャンルの金字塔と言える漫画・島耕作シリーズでは、島耕作が仕事する場面はほとんどなく、様々な女性の間を華麗に飛び歩いているうちに、ついに大企業の社長にまでなってしまった。仕事はたぶん、コマとコマの間でしていたのだと思われる。誰も島耕作の仕事の中身に興味はないから、それで構わない。
「会社もの」はどの媒体でも比較的マイナーな存在ではあるが、中でも演劇では珍しい。演劇人は自由人(笑)だからか。そういえば以前、知り合いの劇団主宰に「水牛さんはサラリーマンでしょ」と唐突に言われたことがあって、何が言いたかったのか分からないがエラクむかついたことを思い出す。演劇人が企業というものに馴染みが薄い、ないしは積極的に関係を持ちたがらないのは事実だろう。それに、「観劇の時にまで会社のことを思い出したくない」という観客の気持ちもあるかもしれない。
でも実は、会社という題材は演劇に結構向いている。会社ではみんなペルソナをかぶっているからで、その意味で会社という場は極めて演劇的である。スーツや制服などの衣装を身にまとい、地位や立場に応じた役割を演じて、しかるべき時にしかるべきセリフを言う。会社はシェークスピア劇なみの身分社会で、一般社会ではまずお目にかかれない「王侯貴族」から「宮廷道化」までちゃんといる(妖精や魔女だって、いるかもしれない)。それぞれに適切な身振り手振りや表情まで決まっていて、熟練が求められる。
そんな演技の場・会社でみんなが恋愛をするのはなぜなのか。私はこれまでに長短交えて5か所以上の職場を経験してきたが、社内恋愛のない会社はなかった(私自身、経験はある)。この芝居では部長が会社に恋愛感情を持ち込むなと言うが、どだい無理な話。むしろ職場は恋愛の主戦場の一つであることは明らかで、統計でも結婚したカップルのうち約3割は仕事を通じて知り合っているのである。
「会社は公の場なのに」というのは真っ赤なウソで、企業の目的は利益追求だから公の場でもなんでもない。市役所・県庁なら公の場だが、それでも職員は給料のために働いている。団体の目的としては公益ということがあるにしても、職員が働くのは第一には自分のため。だから職場恋愛とは完全に両立する。
要するに、職場は演技の場だが、ペルソナの下にはそれぞれの個人の素顔がある。それはみんな承知の上。恋愛は素顔にかかわることだから、誰も遠慮しない。むしろ仕事が忙しく拘束時間が長くなるほど、仲間意識は高まって社内恋愛の火はいっそう燃え盛る。むかしギリシャのスパルタだったか、軍隊で同性愛の恋人どうしが同じ部隊になるような編成を意図的にしていたという。その方が軍隊は強くなるのだそうだ。「恋人にいいところを見せたくてがんばるから」という理由だった。自分もかつて経験した感情だ。
人は環境が厳しいほど、素顔で支え合える関係がほしくなるのだろう。「効率の優先」の会社は急成長しつつある新興企業で、仕事は(設定上は)とても忙しく、厳しい部長の存在もあって、職場の緊張度は高い。そのことと社内恋愛がむやみやたらとはびこっていることとは関係があると思う。登場人物たちは切羽詰まると個人の顔をさらけ出し、愛する異性に助けを求める。この作品は基本的にその繰り返しでプロットが組み立てられており、演劇だからかなりデフォルメはされているが、その感情の動きはリアルだった。
よく日本人は集団主義的だというが、それはウソで、日本人ぐらい自分勝手な人たちはいない。電車で年寄りや妊婦に席を譲らない人の多いこと。モンスターペアレンツにモンスター顧客。ネットの匿名の場での荒れ方のひどさ。この国には「義(ただしさ)」というものがない。いつだって自分がいちばん大切。自分のことしか考えない。それが日本人。
でも、だからこそ、その場その場で表面上合わせるのは得意だし、そのためのペルソナは強い拘束力を持っている。「場」が形成されるとみんな一気におとなしく、お互いを気遣う。少なくともそのふりをする。そうしない人は罰せられる。聖徳太子の「和を以て貴しとなす」にしても、本当にみんな仲良かったら出てくるはずもない言葉だ。当時どれだけ豪族間の争いが熾烈だったか。「和」とは、そんな日本人の強い我を抑え込むために課された、「場」の拘束。この言葉はつまり、素顔とペルソナの間の強い緊張関係を表しているのではないか。
そして、その緊張関係に耐えられず、ペルソナの着脱がうまくいかない人たちもいる。この作品の登場人物は程度の差こそあれ、ほとんどそんな側面があるが、中でも作中で死ぬ二人の男性(添島、佐々木)、そして二人に絡む女性・高橋はその傾向が強い。
添島は体育会系の肉体を誇り、仕事も優秀。そうした自信ゆえに、自分の身を守るペルソナを簡単に脱ぎ捨てる。その判断が誤っていたために、死という高い代償を払うことになる。
この芝居の冒頭、企画室に新しく配属されてきた佐々木が、あいさつで「命をかけて、この部屋のためにがんばります」と言って、妙な空気が漂う。佐々木はもともとクラブでドラッグを売買していた不良で、コネ入社。要領がいい人間だと自分では思っている。「命をかけて」と言ったとき、心にもない、うまいことをペルソナの口先で言ったつもり。しかし、「命」は素顔の領分、仕事はペルソナの場だから、「仕事に命をかける」というと、その境界を侵すことになる。だから、よほどの覚悟がない限り、そんなことを言ってはいけないのである。言っていいのは、本当に命さえ賭ける仕事人だけだ。佐々木は明らかにそうではなかった。
「命をかける」と言った佐々木が職場で本当に死んでしまう、というのが劇的アイロニーになっているわけだが、佐々木の死は、単純化して言えば、高橋に対するねじくれた執着を明らかにしたためだ。本来素顔の領域に秘すべき感情を職場で開陳したために、高橋に思いを寄せる秋元に殺されてしまう。あまりにもペルソナを軽んじたから、ペルソナの逆襲を受けたのだ。素顔とペルソナの境界が分かっていない佐々木らしい死であった。
添島の恋人でかつて佐々木とも何かあったらしい高橋は、感情失禁気味の不安定な女性で、すぐにピンチに陥り、屋上から飛び降りてお詫びすると言う。職場で「命」のことを口にするのが境界侵犯であることは佐々木の場合と同様だ。だが、この、すぐ素顔をのぞかせる不安定な女性は、その不安定さゆえに、職場の男性たちを惹きつけている。添島、佐々木、そして結婚したばかりの秋元までも。それが混乱のもとになる。
そして、一応はちゃんとペルソナを着けることが出来ている面々も、それゆえに歪み、苦痛を味わっている。上司の前で頑なにペルソナを外さない神崎は、時々噴出する激情に苦しんでいる。作中で唯一社内恋愛と無縁の田ノ浦は、離婚で金銭的な不安に陥っているが、それを誰にも理解してもらえない。この作品の中ではいちばんバランスのとれた常識人に見えていた田ノ浦が最初に添島を殺してしまうことになるのも、私生活が破綻し、上司に従順に振る舞って出世する以外に将来展望が見いだせないからだろう。
そして社内秩序の守護者として現れる部長と専務は、外せなかったペルソナゆえに破滅する。自分たちの管理する職場で短時間のうちに、社員の手による2件の死亡事件が起こり、しかも積極的にその隠蔽を図ったとあっては、実行犯もろとも逮捕は免れない。
専務はいつも社員たちの前でリラックスし、高尚な文学趣味の話をするなど余裕ある人物に見えていた。しかし隠蔽を指示した瞬間、それ自体、「大物」のペルソナに過ぎなかったことが明らかになる。死亡事件が起きただけでも打撃なのに、隠蔽は会社の傷を深める。昨年一部上場したばかりの新興企業では、このスキャンダルを乗り越えられまい。
隠蔽に専務(通常、代表権がある)までかかわった以上、会社は社会的信用を失い、破綻することになるだろう。専務は経営者としても致命的な判断ミスを犯したのだ(この場面では、ペルソナをうまく着けられない高橋がいちばん真っ当な判断をしていたことになる)。追いつめられた専務と部長は最後にペルソナを外して、素顔の性愛の世界に逃げ込むのだが、既に遅し。
適切な時に着けなくてはならない、しかし、必要な時には外さなくてはいけない、厄介なペルソナ。あまり大げさな話にするつもりはないが、昔から、日本で起きる問題のかなりの部分は、ペルソナの着脱の問題だったりもする。「効率の優先」は、演劇という、ペルソナを本質とする表現によって、この問題を取り扱った。軽妙な見かけに似合わぬ、ずしりと重い内容を持った作品だった。
(2013年6月14日19:30の回 観劇)