7.隠蔽が難しい時代の告発劇(米川青馬)
劇中、専務がこう言う。「ま、丸谷才一に影響を受けてるんでね、僕は」。これは、本当は山内自身のことだろう。つまり、山内はおそらく丸谷才一の向こうを張っている。もう少し穏やかに言えば、オマージュあるいはリスペクトをしている。そう読むことができる。
丸谷才一の代表作『女ざかり』は、大手新聞社が舞台である。主人公・南弓子が、あるコラムが原因で論説委員から外されそうになる。圧力をかけてきたのが政府だとわかると、弓子は四方八方に手を尽くして対抗する。
多くの人間の思惑が交差しながら行われる弓子側と政府側の情報戦が読みどころだ。「大人のコメディ」と言っていいだろう。日々、職場の人間関係に気苦労の絶えないビジネスパーソンこそ楽しめる小説だ。
『女ざかり』には明確なテーマがある。マルセル・モースやレヴィ=ストロースが展開してきた「贈与論」や「交換理論」で、ごく簡単に言えば、贈り物を贈りあうことで社会的関係をつくることである。小説中では、たとえば次のように説明されている。
この小説では、弓子の側も政府の側も、すべてが贈り物によって関係づけられていく。弓子の同僚・浦野は、弓子に自分の論説を書いてもらった代わりに、政府の動向を探る。政府は、新興宗教団体の支援を得る代わりに、新興宗教団体が問題とする論説を書いた弓子を排除しようとする。このような「贈与の応酬」が小説内に連打されている。
世界中の古代社会から見られた贈与関係や交換関係が、現代日本の経済社会システムのまっただ中でもしっかりと息づいている。丸谷はそのことを物語に仕立ててベストセラーをつくりあげた。
城山羊の会『効率の優先』は、大手メーカーの企画部とおぼしきオフィスが舞台である。その社員たちが、現代の社会的ルールから逸脱した行動を次々に行う。それに対して、部長は何とか「濁った芽」を摘もうと抵抗する。
多くの人間の思惑が交差しながら行われるオフィス内の殴り合いや痴態が見所だ。それはいつの間にか、殺人や狂気に発展していく。いわば「大人のブラックコメディ」と言っていいだろう。やはり日々、職場の人間関係に気苦労の絶えないビジネスパーソンこそ楽しめる一幕だ。
『効率の優先』には明確なテーマがある。「暴力」と「恋愛」だ。世界中の古代社会から当然ながら見られた暴力的関係や恋愛関係が、現代日本の経済社会システムのまっただ中でもしっかりと息づいている。山内ケンジはそのことを脚本に仕立ててお芝居をつくりあげた。
山内は、贈与の代わりに暴力と恋愛を持ち込んで、現代の組織に古い力が連綿と働いていることを、『女ざかり』とは違う角度から光を当てたのだ。
だが、贈与と暴力/恋愛の位置は随分と違う。お中元やお歳暮こそ減っているものの、名刺の渡し合い、接待などの贈与的行動が廃れる気配はそれほどない。日本の経済社会における贈与は、今もおおむね肯定的である。
一方の暴力は、少なくとも表面的には完全に否定されている。最近はセクハラ、パワハラなどの言葉も普及して、かなり厳しく取り締まられている。また、恋愛は決して否定されているわけではないが、マナーとして、オフィスなどでおおっぴらに恋愛行動を見せるのは御法度である。
贈与と違い、暴力/恋愛は現代の会社組織内では否定的な意味合いを持ち、オフィシャルな場では排除されるべきものだ。
だから、このお芝居の世界観は随分と異様だ。日常のオフィスを舞台に、ちょっとした暴力や恋愛沙汰をきっかけとして、殺人やセックスにまで増幅していく非日常が描かれる。舞台を観ているうち、徐々にオフィスでの出来事には見えなくなってくる。まったく違う世界の話、あるいは一種の神話世界、たとえば女性を巡る争いという意味では『イーリアス』の世界に近いのではないかとすら感じられるようになってくる。
しかし、ルネ・ジラールをはじめとする人々が明らかにした通り、本来、共同体はその存在そのものが暴力的である。また、ゾンバルトが『恋愛と贅沢と資本主義』で示した通り、資本主義経済システムの中には恋愛のエキスがどっぷり注入されている。うわべは暴力や恋愛が排除されているように見える資本主義経済の会社組織は、その実、システムの内部に暴力や恋愛を色濃く秘めている。
一歩引いてみれば、そもそも企業による従業員の労働対価の「搾取」(労働者の仕事分から一定の金額を引いた上で給与を支払うこと)が、現代ではあまりそう思われていないが、暴力的である。このように考えていけば、現代の企業組織は、やはり立派に暴力に染まっている。
組織の暴力性は、一定以上の年齢の人たちは肌で感じて知っていることかもしれない。30年も遡れば会社内に暴力は歴然と存在していた。私は幸運にしてリアルタイムではほぼ経験していないが、上司に殴られたとか、取引先からひどい扱いを受けたといった噂は、様々なところで聞いたことがある。そのほとんどは世に出ることなく隠蔽された。
恋愛については言うまでもない。恋愛は単に仕事をする場で隠されているだけで、今も昔も、一皮めくれば組織内にはいくらでもある。
つまり、現代の職場でも、「隠蔽された恋愛」はもちろん「隠蔽された暴力」だって、様々な段階でそこら中にあるということだ。それ自体に暴力を内包するシステムから、暴力がなくなることなどありえない。
このように暴力や恋愛(や贈与)が古代から連綿と続く一方で、古代と現代では決定的に違うことがある。古代は情報の占有が容易だった。またつい最近まで、それはあまり難しいことではなかった。しかし現代は、一気に情報の隠蔽が難しい世の中になりつつあるということだ。
監視社会が強化される一方で、組織内からの内部告発も頻繁になり、ウィキリークスのような告発組織さえつくられている。そして、インターネットは暴露情報を一気に広める役目を果たす。情報の隠蔽は常に起き続けるだろうが、その失敗のリスクは一昔前に比べて格段に高まっている。
劇中では、それまでの日常では隠されていたと思われる登場人物の好悪の感情、恋愛関係、不倫関係などが次々に暴露されていく。これは極めて現代的だ。
その現代的な過程で、特に暴力が依然として会社組織に深く根を張っていることまでも明らかにされていく。たとえば、専務と部長は2名の死を警察に通報しないように命ずる。さらに、人が死んだのにも関わらず、専務と部長は仕事を優先しようとする。
そうして組織の暴力性はいびつに強調される。従業員の死といった異常事態に至っても、会社というシステムは暴力的情報を隠蔽した上で、冷たく仕事を命じ、搾取という名の暴力を続けようとする。会社とは本質的にはそういうものなのだ、ということを、情報暴露時代の私たちは否が応でも見せつけられる。
つまり、『効率の優先』は単に神話的なブラックコメディというだけでなく、情報を隠すのが難しくなってきた時代にふさわしい「告発劇」でもあるのだ。その告発は、登場する面々の暴力的関係や恋愛関係を通して、現代資本主義の会社システムに内在する暴力と恋愛の存在を抉り出す。
古代的な世界に属する専務と部長は、極めてずさんな情報の隠蔽を済ませてから、最後に2人でセックスをする。それは祭りの儀式のようだ。2名の「身代わりのヤギ」が捧げられたB会議室という名の祭壇には、以前なら神が宿っていおり、ルネ・ジラールによれば、この「身代わりのヤギ」と供犠の儀式こそが古代共同体の基礎となったのだが、今やとっくに神は死んでおり、儀式はただただ逸脱した行為と化している。
私たちはそれを観て、この芝居だけが異様なのではなく、実は現代の経済社会にこそ、異様なものが潜んでいることを知る。
(2013年6月8日15:00の回 観劇)