マームとジプシー「cocoon」

9.リフレインが浄化するもの(落雅季子)

 開演前のロビーには、藤田貴大が6月に取材に行った(※1)という沖縄の蝉の声が流れており、劇中で使用されるイラストの原画が飾られていた。マームとジプシーの『cocoon』は、今日マチ子の原作マンガをもとに、藤田貴大が二年をかけて構成、演出を手がけた作品である。原作は、死者24万人と言われる1945年の沖縄戦を舞台に、日本兵の看護隊を務めた女学校の生徒たちを描いている。舞台化にあたり、藤田は物語を2013年の現在に接続させる試みを、いくつか施していた。

 1945年が舞台であることは、明確には語られない。どこか遠くの昔の戦争の情景が、夢の形で、青柳いづみの演じるサンという少女の中に立ち表れるところから物語は始まる。サンが飼っていた猫は16年生きて死んだばかりで、友達のさとこがその亡骸をサンの家まで見に来る。駅のホームには電車を待つ16歳の女学生たちと、それを執拗に見つめる28歳の男性を登場させたりして、「16年」という歳月の絶対値のイメージを、徐々に観客とすりあわせてゆく。

 砂の敷き詰められた四角い舞台は、やがてサンの夢の中の女学校に姿を変える。椿組の教室にも、さとこという名前の少女がいる。さとこが紹介する女学校の日常は、十代の少女たちのきらめきと鬱屈をそのまま映し出す。吉田聡子が演じたこの「さとこ」は、原作のマンガには存在しない。現代と1945年を結ぶ存在としての彼女は、若いクリエイターたちが太平洋戦争を描いて行くための、ひとつの方法を指し示しているのではないかと思う。

 『火垂るの墓』『ひめゆりの塔』などの悲惨なリアリティの前で、戦争を知らない世代は、どのように戦争を描くべきか立ち尽くす時代が長く続いた。今日マチ子は『cocoon』において、戦時下の少女たちの細やかな心情にフォーカスを当て「過去の可哀想なひめゆり隊」として閉ざされていないものを描きたかったという。(※2)これは、沖縄戦の実体験を語り継げる人がいなくなった後を見据えた、新しい創作の形に思える。実体験は何にも勝る強い言葉の源泉であるが、その経験が悲惨であればあるほど、体験していない世代・地域との圧倒的断絶を生じさせずにはおかない。出来事を、その伝承者が絶えたあとも残るものとするためには、後から生まれた人間の想像力が、歴史的事実の余地に枝葉を広げることが必要になる。舞台版『cocoon』は、現代と1945年の橋渡しをするさとこというオリジナリティによって、戦争を描いたものとしては画期的な軽やかさをもって、その断絶に対抗する力を持った作品になっていたと思う。

■少女の純潔

 戦況が悪化し看護隊の解散命令が出たとき、それまで少女たちをくるんでいた繭が破られるように、文字や映像を投影するスクリーンの役割も果たしていた紗幕がばっさり落とされた。それを契機に、少女たちは海を目指して走り始め、砲弾と飢餓にさらされて死んでゆくことになる。

 野戦病院だったガマを追われた少女たちは死ぬ。次々に死ぬ。サンは美しい同級生、マユと手を取り合い、海を目指して走る。菊池明明演じるマユは、女学校のアイドルたりうる高い身長と真っ白な肌、あごのラインでそろえられた黒髪、切れ長の目を持っており、まさしくいつの時代も少女が憧れる王子を体現したようであった。サンの心の奥にあるものは、王子に選ばれた少女の伸びやかさだ。

 王子に守られてサンは海まで辿り着く。その途中、彼女の世界が「色を失う」という描写が、二度あった。一度目は、耳に蛆のわいた兵士に襲われて犯され、仰向けになって満月を見上げたとき。椿組の生徒のうち、純潔ではなくなったサンだけが生き残った。彼女は、少女のまま死ねなかった。そして二度目はラストで、守ってくれていたマユが撃たれ、死んでゆくときだった。少女はゆっくり成熟するのではなく、否応なく大人にさせられる。それは、これまでマームとジプシーが何度も扱ってきた、ある日突然訪れる初潮というモチーフにも象徴的である。

 暗い夜、ひとりぼっちで襲われたサンはどんなに怖くて苦しかったか、兵士を演じた尾野島慎太郎の荒っぽい口調、青柳に躍りかかるときの身体のうねりに私は震えた。でも本来、処女喪失や出産に象徴されるように、女は死に直結しない痛みを持っている。純潔を失ったサンの身体から、何か壮絶な生命力がにじみ始めたのはその痛みを乗り越え(させられ)たからだろうか。そういえば、恐怖に駆られた錯乱状態だった兵士は、耳に蛆がわいて、(色ではなく)音を失ってゆくところだったが、彼にとっての喪失はただ絶望に支配され、他人への暴力の形でしか表れなかった。

 二枚目の紗幕が落ちたのは、サンとマユのふたりが海まで辿りついたときだった。死んでいった同級生たちは、ふたりの頭上に一列に並んで立っていた。観客からは足だけが見え、彼女らが鎮魂のベルを鳴らす様子は、長崎の二十六聖人のレリーフのようでもあった。彼女たちを聖化し、『cocoon』への殉死者のように扱うことで、少女たち個人の死は相対的に軽くなってしまった。本作に問題があるとすればそこで、サンは、生き残るべき特別な女の子として重く位置づけられすぎたのかもしれない。海にたどり着いたところでマユの一人称が変わり、彼が本物の少年であったことが示唆される。その直後、マユは撃たれて死ぬ。かくして少女は王子を忘れて大人になり、少年は思い出になる。

■覚めなかった夢

 マーム作品における青柳は、たびたび死者に置き去りにされ、浜辺でラストシーンを迎える。『塩ふる世界。』では母親に死なれて海へ浮かぶ島へ墓参りにゆく。『あ、ストレンジャー』では友人たちを殺したあと、自殺しようとして死にきれないまま幕が下りる。

 作品を越えてその場面が今回も繰り返されたわけだが、私には、青柳が波打際を行ったり来たりするあのしぐさが、繭から出られずにもがいているようにも見えた。サンの夢は、あのあと覚めたのだろうか?

 私は初日と6日目の土曜日の公演を観たが、初日から改変された演出がいくつかあった。それらはいずれも現代と1945年の接続の仕方を試していたもののように思われる。たとえば、舞台後方の紗幕に「今はいつの時代か」という文字がノートに書かれて、より鮮明に映される場面が増えたことの意味は、2013年と1945年の境界が、ゆるやかに消失していった後半にこそ効いてくる。生き延びたサンのその後が冒頭のシーンに加わっていたことも、初日とは違っていた。捕虜になってから再会した母との会話や、未来の恋人になる男の子と話す場面は、2013年のサンの夢のその先にあるものだ。

 現在との媒介であったはずのさとこは、海へ向かうまっすぐな道で死んでしまった。その独白のシーンで、彼女は「これはいつの海?」「2013年の海」としきりに呟いていたが、さとこが死んだとき、物語は”安心な”(※3)2013年に戻る術をなくしたのだった。

■リフレインの効能

 端的に言って、今作品でのリフレインの用い方を私は「(これまでの)マームとジプシーとは異なる」と感じた。原作のコマ割、台詞などのさりげなさを、俳優の声と身体によるリフレインの過剰さが塗り固めていたように見えた。

 果たしてリフレインによって起こることとは何なのか。たとえば、藤田貴大はこれまで多くの作品で、14歳の少年少女を描いてきた。私の独断で、14歳の子どものイメージを書くと以下の通りだ。14歳はずるい。14歳はやかましい。14歳は必要以上に孤独ぶる。14歳はけっこう残酷。14歳は自己中心的。14歳は人を傷つけても平気。14歳はみえっぱり。14歳は意味不明なことに一生懸命で笑える。14歳のころの悩みは世界一深刻。これらを執拗なまでに、様々な視点と角度から繰り返すことで「それゆえ14歳は美しい」というように、観る者の感情を波立たせ、反転する瞬間に到達させることができる。藤田がこれまでリフレインによって行ってきたことの最大の効果は、この反転であると私は思う。思春期や喪失の醜さもどうしようもなさも、リフレインは鮮やかに浄化する。

 『cocoon』でのリフレインが「これまでと異なる」と感じた理由は、それによる浄化が、きわめて題材にとって「スムーズな」形でなされてしまったからである。リフレインによって生まれる観客の感情のノイズが、戦争を主題とした『cocoon』には入る余地がなかった。これにより、喪失の感傷の範囲を超え、遠い昔の戦争という、これまでとは違う位相の浄化が初めて行われた。リフレインによって増幅し、その感情のたかぶりによって浄化すべき忌まわしさに、マームとジプシーは新しく出会った。

 今作品で繰り返された場面をいくつか挙げてみる。少女たちが看護隊になる前の女学校の風景。いつも守ってくれたマユの言葉。サンが幼馴染のえっちゃんと飛行機を見上げる場面。爆撃に遭ったえっちゃんの負傷。さとこが撃たれるところ。それらは、決定的な何かが失われゆく予兆である。失われる直前の姿を徹底的に見せつけることが、リフレインでは行われる。

 そしてその後、いずれも一度しか訪れないシーンの重要性を見逃してはならない。それこそが印象深くあるべきものだ。さとこのギター伴奏による合唱。最初に砲弾を浴びて死んだ同級生。兵士に犯されるサン。担任の教師の自決。それらは、崩れた日常の断面であり、徐々に深まる傷口のようでもある。予兆としてのリフレインは、やがて来る一度きりの破壊力を増幅させる。海へ向かう道の一方通行の時間と、リフレインの重なりによって、戦争の傷跡は少しずつ浄化されてゆく。それはもはや物語の浄化ではなく、物語る方法の深化と言ってよい。
(2013年8月5日19:30の回、10日15:00の回観劇)

※1)音楽を担当した原田郁子、出演者たちと総勢20名以上の取材だったとのこと。
※2)「劇団マームとジプシーとの52日間。今日マチ子の稽古場日記。cocoon」第15回参照。http://www.1101.com/cocoon/2013-08-13.html
※3)『塩ふる世界。』で、吉田聡子が演じたはなこという少女の台詞に「わたしたちは、、、いつも安心な、、、コドモ、、、なのである、、、」というものがある。

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