16.少女たちの背中に礼を言う。 (宮武葉子)
戦後68年。記憶を語り継いでいかなければならない、という言葉を耳にする。確かに、経験者の数は減りつつある。記憶は風化しつつある。
彼らの書いたものを少しは見聞きしてきた。読んで目を潤ませるほど素直なたちではないが、殺すのも殺されるのもイヤだなぁ、ぐらいのことは考える。だから、自分の番が回ってきた時には、彼らが残したいと願ったことを次の人に渡すぐらいのことはしたいと思っている。
思ってはいるのだが、なんと伝えていいやらわからない。自分は戦争を知らない。否、それどころではない。自分の親の世代だって、戦争のことなど知らないのだ。
平成の世となって久しい。新しい時代に生まれた人たちが置かれている状況は、その上の世代とは、別物では無論ないにせよ、色々な部分で異なっている。十把一絡げにするつもりはなく、個人差がかなりあることも承知だが、もしかしたら平成世代は自分と同じものを見ても同じようには感じないのではないか、という気が、時々する。直接のきっかけは「戦争の話を聞いても理解しづらい、知識がないから飲み込むのに努力を要する」という発言を見かけたことだが、若者と話をしていて、どうも言葉が通じていないようだぞお互いに、と思う、あるいは書いたものを読んでいてあれっと思うことが少なからずあるのだ。
戦争の時代から遠く離れ、全く別次元の常識や悩みを抱えた平成の若人に、過去の作品を読んで分かれ見て分かれ聞いて分かれというだけで済ませるのは、もはや無理なのではないか。いい悪いの問題ではない。ただ、状況が大きく変わっている、ということであると思う。
だとすれば、上の世代と同じことをしていただけでは、バトンを受け取って次に渡したことにはならない。自分はどうやって役目を果たしたらいいんだ、という思いが、ぐずぐずと心の底に溜まっていた。
前置きが長くなった。マームとジプシーの「cocoon」である。
今日マチ子による同タイトルの漫画が原作で、女学生のサン(青柳いづみ)を語り手に、戦時下に生きる少女たちの過酷な体験と死を描いた作品である。彼女たちはお国のためとかり出され、素人の手には余る仕事を押しつけられ、最後には自力で逃げろと放り出される。爆弾、栄養不足その他諸々の理由で、少女たちは次々命を落とす。生きて終戦を迎えることが出来たのは、主人公のサンだけだった。大まかにいえばこんな話だ。
舞台版「cocoon」は終戦後の1シーン、女子校の日常、看護隊の日々そして逃走中の光景で構成される。原作ではもんぺ姿であった女子高生は白とベージュの衣装を身につけて登場し、同じ台詞を繰り返し、舞台上をひた走る。
舞台は三方に張り出しており、砂が敷かれている。舞台奥と手前を、のれんのような白い布が区切っている。また、壁にもスクリーンが置かれていた。両者には映像が映っていたようである。ようだ、というのは、評者の席からはほとんど見えなかったからだ。ゆえに、その効果については何ら語ることが出来ない。
大道具は使われず、小道具もほとんどなかったようだった。シンプルですっきりしているという印象を、作品全体から受けた。
張り出し舞台の付け根の辺りで観劇した。仕事の後で劇場に駆けつけたので、選択の余地があまりなかったのだ。
目に残っているのは、女子高生たちの「背中」である。
もちろん、本当は背中以外のものも見ている。役者は様々な方向を向いて演技していたのだし、すぐ近くに立たれて目のやり場に困った場面もあった。サンがレイプされるシーンは、手前にいた学生に阻まれて何が起こっているか見えなかった。その時見えていたのは、うつむいた女学生のつむじだった。状況は台詞でも説明されるので困らないし、それしか見えないのでつむじを眺めていた。
閑話休題。頭では違うと分かっている。だが、約2時間、背中ばかり見ていたという印象がある。そして似たような格好をした少女たちの背中は皆同じに見え、区別することが出来なかった。原作を読んで知っていた名前と、すぐそこにいる演じ手の顔が、いつまで経っても一致しない。知らない名前も沢山出てくる。ついて行けない。誰が誰だかもう全然分からない。正直なところ、皆が一斉に動き出すと、主人公のサンがどこにいるか分からないことさえあった。評者の人物認識力に問題があるのはいうまでもない。だが、ラストでずらりと横に並んだ出演者たちを見て、こんなに大勢いたんじゃ区別しにくいよなぁ、と納得もした。原作にももちろん女子高生は出てくるが、あんなに沢山いたという印象はない。
ケチをつけたいのではない。ただ、遠かったのだ。舞台上の人たちは、自分に背中を向けている。顔が見えない。彼らの世界が遠い。そんな思いを、最後までぬぐい去ることが出来なかった。
漫画では冒頭14p程度で片づけられている女子校での日常生活が、芝居ではそれなりに長く描かれる。その効果は否定しない。たわいない日常が実は貴重なものだった、というのは、とてもわかりやすいメッセージだ。だがその後の展開を知っている上に、出てくる生徒たちが誰だか分からなかったので、「悪い、話が始まったら教えてくれ」という気分になったりもした。
人の区別がつかないと書いたが、唯一の例外は転校生のマユで、彼女は舞台上のどこにいても分かった。特徴ある身体を持つ彼女を目印のようにして観劇していたのだが、原作では最後に明かされる彼女の秘密が、舞台からは全然伝わってこなかったことにびっくりした。あれは単に「見えなかった」だけなのか、あるいはカットされたのか。前者であれば見切れもいいところで、全席自由というシステムを採用するならそういう席を作るのはやめて貰いたいと思うし、後者であれば彼女の一人称を最後だけ「僕」に変えるのは余計だろう。全体的に、マユのキャラクターは漫画と比べてだいぶ弱いものになっており、出番もあまり多くはなかったように思う(というか、他の人の出番が多いのだ、多分)。演じ手の菊池明明は原作のマユの雰囲気をよく捉えていて、ああ漫画みたいな女優が実在するんだ! と感動した(本当は「女優が漫画のキャラを巧みに演じた」のだろうが)ので、この最後は個人的に残念なものであった。
だが、そんなことよりもっと強く感じたことがある。
ここで描かれているのは平成の戦争ではないか、ということである。
原作は沖縄戦を描いている。といっても具体的な地名は出てこないし、年代も明らかにはされない。ところどころで使われる「ガマ」「ウージ」といった単語が、沖縄であることを匂わせるだけだ。登場人物は標準語で喋るし、さほど暑そうな顔もしない。白い部分の多い絵を眺めつつ、これって沖縄かね、と思っていたものだった。
一方、舞台はというと、全くもって今風で、大人である教師すら「ら抜き言葉」を使っている。過去を忠実に再現することは演劇の主たる目的ではないが、「はぁ? ~~ですけど?」「っていうか」「ウザい」「早っ」などと喋る戦時下の女子高生、といわれれば正直引く。だが、目の前にいる「女子高生」たちが平成の16歳だとしたら? 彼女たちの国が戦争を始めたら、この芝居のようになるのではないだろうか。女子高生、「お国のために」なんて言うのかなぁ。言うかも知れないなぁ、言わないかなぁ。今アベちゃんがやりたがってることが実現してしまったら、女学生はこういう目に遭うのだろうなぁ。
ぼんやり思いながら舞台と、人でいっぱいの客席を見ていて、ふと気づいた。
国が戦争をするということは、死にたくないと思っている16歳の女が飢え、傷つき、犯され、殺されるということである。兵隊にとられた28歳の男が生きながら蛆に喰われるということである。評者の胸には伝わってこない少女たちの平成コトバは、『ガラスのうさぎ』にはぴんとこないという若人に、こうした「現実」を実感をもって伝えているではないか。
これはすごい方法かも知れない、という思いが、むくむくと湧いた。
そうか、こういうやり方があったのか。
これなら伝わるじゃないか。
ひめゆりや特攻隊、ヒロシマ等を題材とした、いわゆる「夏のお約束反戦公演」を、一度ぐらいは見た方がいいのかもなぁと思いつつ、未だ出かけたことはない。真面目でストレートで結論丸わかりのこうした芝居を、一体どういう人が見ているのか、と、失礼ながら思ったりもする。だが、間違いなくああいった反戦芝居を見ない人々に、もちろんそれ以外の人々にも、劇場へ足を運ばせ、戦争について考えさせる力を、「cocoon」という芝居は持っているのだと思う。あいにく自分は乗れなかったけれども、こういう芝居が存在するということが、素直に嬉しい。
戦争ものを取りあげてくれてありがとう、マームとジプシー。
本気でそう思った。
記憶に残るベージュの背中に手を合わせつつ、今この文章を書いている。
(2013年8月13日19:00の回観劇)