マームとジプシー「cocoon」

15.戦争とのキョリ (福田夏樹)

 今年で戦後68年。戦争は終わっているのだろうか。例えば、昨年度新たに沖縄で見つかった戦没者のご遺骨は103柱だという(厚生労働省発表)。未だ新たに遺骨が見つかる中で、戦争は終わったといえるのだろうか。戦争を終わらせていいのだろうか。他方、べき論とは別に、68年たった今、どれほどのリアリティをもって戦争を捉えることができるのだろうか。
 今回、マームとジプシーは、沖縄戦での女学生の悲劇を扱った漫画「cocoon」を通して、戦争の体感に真正面からぶつかっていった。

 原作である「cocoon」で目指されたのは、普遍的な等身大の少女たちの姿を描くことで、当時との距離を詰め、距離を詰めたからこそ感じられる戦争の体感を描くことにあったと考える。マームとジプシーは、少女たちの日常における心情の機微から作品を作ってきており、その意味で、原作とマームとジプシーの作品の親和性の高さが期待された。

 本作は、その原作に対して非常に真摯に作られている。マンガと演劇のコラボレーションが本作のテーマの一つであり、原作の一部のコマや、本作のために描かれた今日マチ子の絵が画像として、スクリーンに映し出されながら、現実にその場面を役者が演じるといった試みがなされている。概ね原作に忠実に物語も紡がれており(※1)、前半、学校という日常の中における女学生の一人一人のキャラクターがおよそ20人ほとんど余すことなく丁寧に救い上げられる。

 中盤、徴用されたガマの中での看護活動でその日常が壊されていき、非人間的な生活を送らざるをえなくなっていく様が描かれる。その中では、壊死した体や死体を流木で表象し、ウジを表した映像が用いられることなどによってなまなましさが加えられる。そして、軍にガマから追い出され、海のある岬を目指して戦地をひたすらに走り、逃げる姿が描かれる。

 原作の目指すべきところが戦争の体感にあったという考えからすれば、ひたすらに酷い場面からも逃げずに(※2)、これまでマームとジプシーが獲得してきた演出上の手段・手法を総動員して「cocoon」という作品を舞台化し、現前する身体をもって戦争を体感させようとしているその真摯さは、まずもって評価すべきであると考える。

 ただ、マームとジプシーの真髄は、理不尽な死への悔恨と追憶にこそある。例えば、「Kと真夜中のほとりで」にその一つの到達点があったが、一人の死を巡って、残された人々が、自らの腿を叩いて叩いて、その死を、悔恨し、追憶する姿を執拗なまでに描いたところに、マームとジプシーの作品の凄みを感じた。
 一方で、本作で描かれているのは、死に向かう人々である。つまりは、追憶と悔恨の対象は描かれていても、それを行う人間は描かれていない。正確に言えば、一人一人死んでいく中で、それぞれの場面で残されている人間がいるのだが、残された人間も生きるのに必死で、追憶と悔恨の余地が残されていない。

 マームとジプシーの特徴とされるリフレインの手法の利点の一つは、同じ場面の繰り返しの中で、異なる視点が提示されることにより、重層的に登場人物同士の関係性が描かれることにあると考える。その重層的に描かれる関係性の中で、追憶と悔恨とがなされるからこそ、その対象となる死が直接的に描かれずともあぶり出されてくる。
 しかし、本作は、作品の設定上、追憶と悔恨の余地が登場人物の中に残されていないばかりでなく、登場人物の多さから、それぞれの紹介と少しのエピソードが描かれるので精いっぱいとなってしまい、その登場人物同士の関係性が、深く掘り下げられるところまで到達していなかったように感じる。結果、マームとジプシーの真髄というべき追憶と悔恨の重みも表現しきれないでしまったのではないか。

 また、リフレインとともに、徐々に明らかされていく新たな視点や新たな事実、感情の発見も、マームとジプシーの作品に不可欠な要素の一つであると考える。悔恨と追憶を突き詰めたところに発見があり、それをさらに突き詰めていくことで、ようやく未来への一筋の光がみえるところが、マームとジプシーの一番の見どころだと感じている。

 しかし、本作では、主人公サンも、作中ほぼずっと、死から逃れる存在であった。追憶と悔恨がなかったとは言わないが、死から逃れる必死さの中に、必然的に紛れてしまうものであった。もちろん、だからこそ、他の女学生の死を請け負いながら、それでも生きていくことにするサンには、生への覚悟が見えたし、それを演じる青柳いづみのまさに迫真の演技もこれまで観てきたもの以上に唸らされるものがあった。
 しかし、マームとジプシーに期待すべきは、サンが生きていくことにするその過程なのではないか。確かに、一人だけ生き残った中で他の女学生の分も生きなければならない、という話の流れはわかるが、それだけを語る芝居やその他媒体の作品はごまんとある。そういった単純な回路の間にある過程をもっと丁寧に追うところにマームとジプシーの素晴らしさがあるのではないかと考える。

 これらの、マームとジプシーの本来のよさが発揮されきっていないと考える点は、おそらく原作の構造がそのようにできていない(※3)、ということに帰すことができる。とすると、ここで改めて考えねばならないのは、原作にない登場人物であるサトコの存在だ。サトコの捉え方は様々あると思うが、2013年の現代の女学生を負った存在である。原作のあとがきを踏まえれば、現代との接続を担うサトコは今日マチ子の化身であり、さらに言えば、作演出の藤田貴大の化身であるといえる。
 サトコに、マームとジプシーのこれまでの作品にあったような追憶と悔恨を担わせることは可能だったはずであり、原作をもっと改変して、追憶と悔恨を描くことも可能だったはずである。しかし、サトコは、「誰が死んでも何も感じなかった」という。

 藤田貴大はこの公演に関して、戦争との距離感を描きたいと述べていた。このサトコの言葉をどう捉えるべきか。我々と変わらない日常を送っていた女学生たちに、戦争による残酷な悲劇がもたらされたことについて、追憶も悔恨も及ばないという断絶を突き付けることにあったのだろうか。いや、追憶と悔恨は、その対象の消化/昇華と裏腹であるということを考えれば、本作では、戦争を消化/昇華させることを選択しなかったのではないか。

 少女たちの日常から空想の戦争を体感していった必然として、消化/昇華させることで過去のものとしてはならない、現代と地続きのものとして彼女たちを捉えた。
 サトコの「誰が死んでも何も感じなかった。」という言葉は、空想の中で体験する戦争を客観的にとらえられるような距離にいないからこそ出てくるものと捉えるべきだろう。それが、藤田貴大の考える戦争とのあるべき距離感だと考えられる。自らの演出上の真髄で魅せることを選択しなかったその判断は、取り扱うモチーフに対して真摯な判断だと思う。

 ただ、観客が個々に戦争をどう捉えているかは別だ。
 他にマームとジプシーが扱った原作ものの作品として、「あ、ストレンジャー」が挙げられるが、こちらの作品では、(原作自体が具体的な時代設定や場所設定にあまり大きな意味を持つものではなかったこともあるが、)時間も場所も本作以上にあいまいにされており、原作はあくまでモチーフとして扱われていた。故に、あいまいなキョリの中で、観る側は自分と作品との間合いを適切に保つことができた。

 一方、本作は、形式として、主人公サンや、現代を背負ったサトコの記憶や空想の中の出来事という形をとっているとはいえ、その記憶や空想のいきつく先が1945年6月以外にない(※4)ことから、その距離感がある程度固定されている。すると、その固定された距離感と、自分と1945年6月との距離を対比せざるをえなくなる。私自身でいえば、あまりにもその悲劇が遠く、現実感のないものに感じられてしまったし、かといってサトコへの感情の没入はできず、追憶と悔恨の対象とならないことに戸惑いを感じた。

 これは、私自身の想像力の及ばなさによるところの方が大きいのかもしれない。行きつく先が固定されていても、想像力によって距離感を適切にもつことは可能だったのかもしれない。私自身の勝手な期待が距離感を生み出したのかもしれない。
 しかし、先述のマームとジプシーの本来のよさが発揮されていなかったと感じた点をもって、そのまま、観客との戦争への距離感への共有への丁寧さに欠けたという言い方もできると思う。消化/昇華させないまでも、戦争への距離感を共有する術はなかったのか、という点について、マームとジプシーを愛するものとして疑問なしとはしない。

 最後に、とはいえ、この戦争への距離感なんてものは共有すべきものではないのかもしれない。おそらくは観客各々が戦争への距離感を各々に感じ取ったであろうことに、8月15日を含む期間に本作が上演されることの意義はあったし、それは戦争の体感に真正面から挑んでいったことこそによるのだというのを繰り返しておく。

※1 後述する原作にないサトコの存在も、原作漫画のあとがきにおける今日マチ子の言を踏まえたものとすれば、より原作の在り方をそのまま作品とするための登場人物の追加であったといえる。
※2 映像でウジになぞらえたワームがピンセットでつままれ、分断される場面もより戦争を体感的に描くための一つの試みであったのではないだろうか。
※3 原作が、死に向かっていく少女たちを描いた作品であるという点に加えて、これまでのマームとジプシー作品で追憶と悔恨を一番に感情的に表出させていたのは男子であるが、原作において男性は白い影としか描かれない点も、構造上、追憶と悔恨をこれまでの作品と同様に描けない理由の一つと考えられる。
※4 原作あとがきにおいて、今日マチ子は、「時間も場所もあやふやな」と書いているが、これが、沖縄戦を元にしている作品であるということは、誰もが思い当たるだろう。

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