マームとジプシー「cocoon」

6.いかに戦争との距離を乗り越えるか(または乗り越えないか) (水牛健太郎)

 戦争ものは難しい。
 創作の題材として戦争を取り上げる理由として、日本で「正解」とされるのは「戦争の悲惨さを伝えることで、二度とその惨禍を繰り返さないように」というものだ。それが間違っているとは決して思わない。しかし映画だろうと演劇だろうと、戦争の真の悲惨さなど伝えられるはずもないことも事実で、その意味ではあらかじめ失敗が運命づけられた課題だとさえ言える。俳優が力むほど「実際はこんなもんじゃないだろう」「何をお芝居しているのか」と白けることも多い。鑑賞を終えて映画館や劇場を後にし、数時間前と少しも変わらぬ町並みが目に映った瞬間の空漠とした気持ちをどうすればいいのか。戦争体験を持つ人が減るにつれ、戦争は手の届かない極限状況になっていき、表現との距離は広がっていく。

 マームとジプシーの「cocoon」の原作となった今日マチ子の漫画は、その戦争との距離をいかにして乗り越えるか(あるいは乗り越えないか)ということを表現上の大きなテーマにしている。作品中で今日マチ子は「想像の繭」という言葉を使っている。主人公の女学生サンは、誰も壊すことのできない「想像の繭」に守られて、耐え難い状況を生き抜いていく。病院壕の中で一度も見たことのない雪の光景を思い描いたり、砂糖のにおいにヘンゼルとグレーテルを連想したりと、想像の力によって自分を守る「繭」を作り、過酷な現実の衝撃を和らげ、希望を持ち続けていく。

 この「繭」という言葉は、今日マチ子がこの漫画で用いている方法の特徴をも比喩的に表している。沖縄戦におけるひめゆり部隊に材を取りながらも、兵隊はすべて「白い影」として輪郭線のみで表され、ひめゆり部隊で生徒と行動を共にしていた教師もほとんど登場しない。顔と名前、個性を兼ね備えた登場人物は女生徒たちだけだ。まさに「繭」状の特殊なカプセルによって女生徒たちが外界から隔離されているのではと思わせる、特異な描き方がなされている。

 この「繭」状の描き方は、若い女性の繊細な感性・感情に焦点を当ててきた今日マチ子の作家性の現れでもあるが、現代においていかに戦争を描き、伝えるかという問題意識に基づくものでもあったと思われる。軍隊や教師など「制度」との関係をほとんど描かず、今も変わらぬ女生徒どうしの親密な関係に焦点を当てることで、主な読者である若い女性たちは、歴史による隔たりを越え、作品世界を身近なものとして感じることができる。戦争は、女生徒たちを外から襲う理不尽な暴力として描かれる。ここでは戦争は、飛び交う銃弾や、次々に壕に運び込まれてくる負傷兵、飢餓といった形で現れるが、その描写からは制度性や人間性は慎重に取り除かれている。誰がどのようにして戦争を遂行しているのかは一切描かれない。飛行機、戦車、火炎放射器、銃などの兵器も登場しないか、遠景として輪郭線だけで描かれる。これは紛れもなく単純化だが、戦争という本来極めて複雑な現象を、その理不尽な暴力性という一点に絞って読者に伝えるための自覚的な方法であった。

 マームとジプシーはもともと学校の同級生集団、特に女生徒の間の関係に焦点を当てた作品が多いので、今日マチ子の「cocoon」を原作としたのはうなずける選択だ。ただ、歴史的な題材、特に戦争ものという意味では全く新しい挑戦であり、若者たちの個人的な世界を表現してきたマームとジプシーの従来の作品のイメージからは正反対の題材と言ってもいいほどであった。それを思えば、マームとジプシーはよくその挑戦にこたえ、上演成果を挙げるとともに、表現の幅と今後の可能性を大きく広げたと言っていいだろう。

 演劇という表現はとても不自由なものだ。大規模で複雑な現象である戦争を取り上げる時、その不自由さはあらわになる。出演者の数は限られているし、舞台の大きさも限られている。何よりも出演者の身体がそこにあること自体が、かつての戦争との距離を感じさせる。映像であれば、スピルバーグの「プライベート・ライアン」のように視聴覚的なリアルさを追求することで、ほんの一瞬でも、そこに映っているのはかつての戦争そのものだと錯覚させることもできるだろう。だが、舞台ではこの種の錯覚はありえない。上演の最中ですら、出演者たちは現代人として観客と同じ時間・場所を共有しており、芝居が終われば観客に挨拶をして日常に戻るのである。

 マームとジプシーはもともと、いわゆる「リアリズム」を表現手法としていない(ここで「リアリズム」というのは、あるプロットを会話と演技で単線的に追っていくもの、ぐらいの意味である)。数人の俳優で、同じ場面を、そのたびに180度位置を変えてリフレインする。また、同じセリフや場面が間をおいて登場することもあり、時間と空間を縦横に行き来する多くの場面を通して、ある物語が観客の心の中にゆっくりと立ち上がっていく。

 「cocoon」でもマームとジプシーはリフレインの手法を用いた。ただこれまでの作品では、リフレインの繰り返しにつれて物語そのものが観客の眼前で紡ぎだされていく感じがあったが、今回は原作によってあらかじめ与えられたプロットを表現していた。つまり、従来の作品でリフレインが創作の核になるものと感じられていたのに対し、今回の作品のリフレインは表現手法にとどまった感が強い。しかし、数多い女生徒たちをリフレインの繰り返しで紹介していく場面は魅力的だったし、彼女らが後半、一人ひとり死んでいく場面でもリフレインによる強調とそれまでの登場場面の想起が効果的に使われていた。

 「リアリズム」を手法としないことで、戦争との距離は自覚的な前提として浮かび上がった。作品の構造としてもサンを含む何人かの人物を2013年の現在と戦場とを移動する存在としたことで、戦場での体験を相対化した。その結果、戦争そのものが直接表現されているのではなく、戦争をテーマとした劇に挑む若い俳優たちのドキュメンタリーを見せられているような印象が生じた。

 戦争そのものとの距離を慎重に取りながらも、観客を感情的に動かしていくことに対しては貪欲な印象を受けた(それはマームとジプシーの作品が一貫して持つ特徴でもある)。敷き詰めた砂を戦場に見立てて走り回ることで、俳優にかかる身体的な負荷は大きく、感情的にも常に揺さぶられる状態での演技を強いられる。私が見た16日の昼の回では、サンを演じる青柳いづみは最後二十分くらい、嗚咽でしゃくり上げながらセリフを口にしていた。そうした俳優たちの必死さは観客に感染した。また情緒的な音楽も、観客を動かすことに狙いがあるように見えた。

 映像に関して言えば、舞台に直接立つ場合との効果の違いについて、十分に詰められているのか疑問に思えた場面もあった。人は映像を見ると、そこに映っているのは現実だと無意識に感じる。ヒットしたドラマに出演した俳優が視聴者に役名で呼ばれたり、性格や個人的な事情までも役と混同されたりといったことがよくあるのはそのためだ。

 テレビドラマや映画はその性質を利用し、「リアル」な表現を磨き上げてきた。戦争ものはその「主戦場」になった。先ほど挙げた「プライベート・ライアン」がそのいい例で、内臓が飛び出た兵士などの視覚表現やステレオを駆使した音響によって、観客が戦場に立たされた時に見るであろうもの、聞くであろうものをできる限りそのまま再現することを追求している。

 舞台「cocoon」で映像が使われたのも、映像のその「リアル」を感じさせる性質を利用したものだが、そこに映るビジュアルはどうしても、映像作品のようにコントロールの効いたものではなかった。そこに違和感が生じる余地があった。特に病院壕の場面がそうで、メーキャップした俳優の顔が大写しになったり、舞台のばたばたした感じが伝わる画面があったりと、映像以外の場面より粗い印象を与えた。それはある種の「異化効果」を作品にもたらしていたが、他の場面の作り込み方から判断して、それを意図したものだとは思えない。

○「繭」とは何か

 上述したように、今日マチ子の原作「cocoon」では「想像の繭」のイメージが打ち出されている。一方、舞台版ではこの言葉は登場しない。「繭」は、雪のイメージなどと結び付けられているが、それは原作にもあるセリフだ。また、学校という集団を意味しているように受け取れる場面もある。原作と異なり、登場人物としての個性を持つ教師を一人登場させ、生徒たちを守れない苦悩を描いていることも、そうした印象を強めているが、繭=学校とはっきり言われているわけでもない。原作のプロットを比較的忠実に舞台化している中で、タイトルでもある「繭」の意味を明確に打ち出していないところが原作との最大の違いと言える。

 作品の最後で、サンと親友のマユが海岸を逃げている時に、マユが撃たれて死ぬ。原作では、撃たれたマユを介抱しようとしたサンは、マユが実は男性だったことに気づく。その場面に続いて、米軍の収容所で生活していたサンを母親が迎えに来て、家に帰る場面があり、それに重ねて羽化したカイコガのイメージが描かれる。

 サンは男性を恐れ、女学校における「王子様」的なアイドルであるマユの親友として、疑似恋愛的な感情を育んでいた。マユは常にサンの身近にいて、サンの「想像の繭」の守護者だった。そのマユが男性であったという現実に直面し、またマユの愛に気づいた時、サンは「想像の繭」を破り、成長を遂げるのである。

 一方、舞台版では作品はマユの死によって終わり、戦後の生活は描かれない。このため、サンは作品の最後まで戦場にとどまっているととれる。また、マユが男性であると発見する場面も、初日(5日)にはあったが、16日に見たときにはなくなっていた。

 思うに、舞台版「cocoon」における「繭」とは作品そのものではなかったか。作り込まれた作品世界は登場人物たちをすっぽりと包み込んでいる。サンの成長はこの作品の中では起こらず、作品の外に委ねられているのである。
(2013年8月5日19:00時の回、16日15:00の回観劇)

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