マームとジプシー「cocoon」

8.繭から歩み出る必然のありよう (齋藤理一郎)

 2013年8月5日19時の回でマームとジプシー『cocoon』を観ました。14日19時の回に再観劇。原作のコミックは2年ほど前にこの劇団主宰の藤田貴大と原作者の今日マチ子さんのコラボレーション企画があったときの物販で購入して読んでいます。

 場内にはいると、舞台奥に天井から2層に吊り下げられた大きな幕(前方3枚、後方1枚)と投影されている戦車の画像が目に入る。3面を客席に囲まれた舞台、その中央の広いスペースには白く細かい砂が敷きつめられ、サイドにはボードウォークのようなスペース。さらには鳥や虫、風や波など、風景の音に満たされていることにも気付く。客入れの時間から三々五々といった趣でその場に現れる女性たちの姿があって。一人の女性がビデオカメラで客席を映しながら現れ舞台上の砂の上の戦車の模型の前にカメラを置いて、開演。

 一瞬の沈黙に役者が作る密度の先には、今を生きる一人の女性に訪れた朝があり、夢の余韻のように語られるのはいつかの夏の女性の記憶、天国のような島、兵隊の手当てをしていたこと、走り続けなければいけなかったこと。
 同じ時間の中に28歳の男のオロナミンCを飲むときに感じる女学生たちのまなざしの話が交わり、現が観る側に残されつつ、舞台は女性に蘇る夢の感触のままに幕に映された授業の映像へと繋がれて。幕の間からこぼれ出るように現れた先生や女学生たちに、後になってそれが繭の中と知れる空間や時間の内と外が逆転し、舞台には全寮制の女学校の風景が一気に広がっていきます。

 そのシーンの瑞々しさに息を呑む。移動する3つの窓枠と舞台に渡された紐で次々と小気味よく場が立ち上がり、角度を変え、いくつもの光景が様々なスパンのシークエンスに切り出され、リフレインと呼ばれる繰り返しの手法で感触や質量を与えられていきます。空間と時間の交差の中で紡がれていく台詞たちは、ト書きとも、独白とも、会話ともなり、時に映し出される今日マチ子のイラストにも彩られ、ロール達それぞれの、歩き、時に走り、跳び、立ち止まり、佇み、笑い、意地を張り、想い、歌い、反抗心や淡い恋心を抱き過ごす姿から日々の感触が生まれ、女性が共に過ごした時間や人の印象が紡がれていく。役者達も良く鍛えられていてそれぞれに身体に動きの強さと正確さとしなやかさがあって。場全体の空気を滲ませたり澱ませたりすることがなく、一方で全体に埋もれることなくそれぞれのロールの個性をしっかりと支えて。

 日々を描き出す精度は、やがて、戦局とともに次第ににび色に変わっていく繭の内側をも描き出していきます。無くなってしまった体育や音楽の授業、空襲、幼馴染と見上げる空、さらにはずっと取っておいてほしいと願う石鹸の匂いと一時帰宅から戻る娘を見送る母の言葉。幼馴染と走り抜ける空襲の跡。
 その変化は、看護隊として彼女たちが過ごすガマと呼ばれる洞窟のシーンで一気に顕在化する。声の響き、水音、照明、ハンディカメラに切り取られた空間の広さと閉塞感、醸しだされる出される洞窟の神秘的な美しさに女学生たちが感じる物珍しさは忽ち吹き飛んで、電動鋸の音、蛆のイメージ、爆音、常態的に訪れる患者や友人の死。場のありようが極限に近づいていくルーズな切迫感とともに観る側をその場に浸しこんでいく。でも、それとてまだ、繭の中での出来事。

 生徒たちに告げられる看護隊の解散はとても淡々としたものでした、山崎ルキノが演じる先生自らをして「私はこの子たちに何を言っているのだろう」と思わしめたその言葉は、彼女たちに、自らの判断で、前線を走り抜け、倒れた友達を顧みることをせず、ひたすらに海へと向かうことを命じます。そして夜明けとともに彼女たちは疾走を始める。

 それまでに何度か予兆のように響いていた「いっせいのせ!」という明るい掛け声とは裏腹に、役者達の身体と、表現のメソッドと、映像と、音響が、たちまちに繭の外の戦場のありように先生と生徒たちを巻き込んでいきます。舞台奥に幕の前方3枚が落ちて繭が破れ、場は映像が作り出す銃弾の光跡で満ち、炎の揺らぎの中に彼女たちを置き、音たちの力と共に観客までも戦場のカオスに閉じ込めていく。繭の中に生きる女性たちの日常を豊かに紡ぎ出した役者の身体やリフレインの手法が彼女たちの疾走とひとつずつの死の訪れを観る側に刻み込んで。一瞬に訪れる死、傷を負った苦しみの中での壮絶な死。疲弊の先におとずれる静謐な死。投身、自決。
 その中で、傷痍兵の男に犯され女性は純潔を失います。衣装が変わり、再び巡り合った同級生たちの自決の輪からも外れ、奥の幕も落ちもはや繭が完全に消えさった中、二人の友人とともにさらに海へと走り出す。
 「夢の中で私は走っていた。どうしても走ることになっていた。正しくは走らなければいけなかった。」

 海辺に出た時には同じ繭の中で過ごした少女たちの姿も、吉田聡子や菊池明明が演じる一緒に走り続けた近しい友人の想いすら過去へと埋もれて。冒頭の女性を演じた青柳いづみがつぶやく、
「わたしは羽化した。だから生きていくことにした」
という台詞に、また朝を迎える女性に蘇る繭の中から海へと走り続けた時間が、女性が抱く少女から女性への疾走の記憶として束ねられて。

 実のところ、終演時には舞台上に満ちた様々な表現が醸すシーンたちの実存感やライブ感に圧倒されていました。学校での日々も、洞窟の空気の肌触りも、戦場の逃げ場のなさも、血に腐った水の味わいのイメージまでもが、これまでに体験したことのないような臨場感を伴って訪れとてつもなく生々しく衝撃的でした。役者達の渾身の演技に加えて照明や音響、映像にも支えらえたその世界は、演出の藤田がこれまでに育んできた様々な表現メソッドの集大成のようにも思えた。
でも、だからと言って、この舞台を戦争の悲惨さを描いた表現と受け取ることには強い違和感があって。むしろ女性がその時間を超えることで抱く、繭の中にある少女の時間から大人へと踏み出す日々の記憶のありようにこそ深く捉われてしまうのです。

 今日マチ子がコミックとして描き出した世界にも藤田貴大が織り上げたこの舞台にも戦争の凄惨さやその時代に翻弄される女性の姿があり、そのいくつもの場面に深い痛みを感じたりもするのですが、やがて、それらが作品を単なる戦争の記録にとどめない構造や寓意が裏打ちされていることに思い当たる。原作の最終章に主人公と母親が再開し家族も猫も戻ってくる中での通り過ぎた日々への俯瞰が描かれるが如く、舞台で海辺に立つ女性の「生きていくことにした」感覚が置かれることで、時代にかかわらず女性が成長の中で通過する「走ることになっていた」、あるいは「走らなければいけなかった」時間の必然がしなやかに浮かび上がって。

 舞台自体は、シーンの構成やエピソードこそ概ね原作に準じているものの、細部に至るまですべて原作に忠実にということはなく、語り口も異なり、刹那を描く表現たちは原作と異なる精緻さと多様さを持ち、磨き続けられ、より多くの感覚をあからさまに晒して容赦がない。でもその切っ先は、研がれた分だけ原作の肌触りから乖離するにもかかわらず、繭が破れて外に歩み出す感覚としてより原作に込められたものに寄り添って導き出されていくように感じられました。公演後半(14日)の舞台では初日(5日)に比べてシーン自体はもとよりそのつなぎ方や終盤に醸される印象もより作り込まれていて。初日の段階ですでに舞台として常ならぬ表現のクオリティを持ったこの作品が、その表現の秀逸に留まることなく、原作に対し真摯であり続けながら豊かに歩んでいることに感嘆したことでした。
(2013年8月5日、14日19:00の回観劇)

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