13.いちばん根っこにある、感覚としての距離について (山田紗希)
演出を手がけた藤田貴大は、戦争を知らない自分と、事実との距離を描きたいと語った。そして、そのことについて考える上で、聡子という、原作にはないオリジナルのキャラクターを登場させるとも。戦争との距離。この芝居を見て、私自身がそれを感じたかと問われれば、答えはイエスだ。しかし、それが聡子という、新たに創り出された人格のもたらすものだったかと言えば、私は、そうではない部分の方が大きかったと言いたい。
太平洋戦争末期、1945年の沖縄戦に材を取った『cocoon』は、主人公の極めて個人的、内的な経験を軸に構成された物語を、舞台化したものだ。戦況の悪化を受けて、同級生らとともに戦地に派遣され、負傷兵の看護を手伝いながら、濠で生活することになった女学生のサン。砲弾の降り注ぐ中に放り出され、学友を次々と失い、食べるものもなく、味方の兵士に凌辱されて、それでもなお、彼女は生きるためにひた走る。
聡子は、そんな主人公サンの学友のひとりとして登場してくる。途中、語り部のような役割を担うこともあれば、物語の後半では、サンやサンの親友のマユとともに戦場を命からがら逃げ延びるも、海岸に辿り着く寸前で銃弾に倒れ、力尽きる。劇中では、はっきりと語られているわけではないのだが、おそらく現代の日本を生きる彼女は、物語に登場する少女たちのうちでただひとり、夢の中で戦争を体験している。そんな聡子の台詞に、「死んでしまった人は、過去になる、記憶になる。でも、それでもいつか忘れてしまう」というようなものがあるが、それはきっと、いまを生きる私たちにとって、戦争がすでに歴史上の出来事であること、「記憶」として残されている部分は、もうそのほとんどが、失われつつあるということを物語っているのだろう。
しかし、戦争と自分たちとの距離というものを考えたとき、「過去」や「記憶」は、決してそのすべてではない。もちろん、それらは私たちが戦争に対して抱いている距離感を明確化する上で、当然考慮されてしかるべきものではある。けれども私は、実際に、私たちがその距離感の根底に抱いているのは、もっと内的で、そのうえ感覚的なものではないかと思うのだ。簡単に言ってしまえば、戦争の悲惨さを想像することしかできない私たちが、戦争を語ろうとするときに感じる、ある種の引け目のようなもの。あるいは反対に、戦争の方で、「おまえに何がわかる」とでも言いたげに、私たちを拒絶してくる(ように感じられる)場合もある。いずれにせよ、それは「過去」や「記憶」よりももっと奥深く、さらに言えば、その根っこのところに存在しているものだ。
『cocoon』で、私が感じた「距離」は、まさにそれだった。たとえば、全編を覆う主人公のモノローグ。登場人物同士の会話に比べると、それは単純に量だけを見ても、圧倒的な存在感を放っている。もちろん、元々は漫画として描かれたものを舞台化した作品なので、原作を忠実に再現しようとすれば、モノローグが多めになるのは理解できる。しかし、原作よりも多いというのは、いささか不思議な感じがしないでもない。舞台上では視覚的な効果や台詞を充実させられるぶん、状況説明的なモノローグは少なくなっていいはずなのに、この作品に関しては、それがほとんど倍か、それ以上と言ってもいいくらいなのだ。
たとえば、双子のユリとマリが死ぬ場面。二人は死ぬ直前、どこからかウージを探してきて、分け合って食べる。そこへ、兵士に襲われたサンが逃げてくるのだが、双子はサンに気づいていながらも、結局それを二人だけで食べ切ってしまう。一切の台詞はなく、説明もない。ただそれだけの場面だ。
ところが、これが芝居になると、サンがすべてを説明してくれるのだ。そしてそれは、戦争の悲惨さや痛々しさを通り越し、事物を事物として私たちの眼前に提示する。サンは、自身の極めて内的な経験を、ありのままを写し取るかのごとくに、淡々とした口調で語るのだが、私たちは、それを聞きながら、ただただその前に立ち尽くすことしかできない。そこには確かに、安易な同情や哀憐を拒絶する何かがあった。
この突き放されたような感覚が、戦争との距離なのかもしれない、と思った。過去とか、歴史とか、記憶とか、そういうものを頭で考えるよりもまず先に、漠然とやってくるどうしようもない感覚。その感覚が、結局のところ、過去とか、歴史とか、記憶とか、そういう理論で語ることのできる距離の根底にも、流れているような気がする。
加えて、この芝居の、言ってみれば「寄せ付けなさ」は、モノローグ以外の要素にも起因している。同じ台詞や動作を何回も繰り返して行う独特の手法にしても、まったく同じことが言えると思う。否、畳み掛けることによって、舞台上に切迫感、疾走感が生まれるぶん、それを客席に座って見ている観客との距離は、より一層広がっていくと言ってもいい。
この作用が最も端的に表れていたと思われる例をひとつ挙げたい。解散命令が出た直後、濠から海に向かって逃げる途中、サンの幼馴染のえっちゃんが、足を撃たれて動けなくなってしまう場面である。彼女は自ら命を絶つ直前、一緒に逃げていた仲間たちに向かってこう叫ぶ。
「先に行って。もう、頑張れない。ダメな子で、お母さん、ごめんなさい」
痛みと疲労が極限に達する中で、振り絞るように発せられるこの台詞は、初め何と言っているのか、正確には聞き取れない。ただ、耐えがたい苦しみの中で、彼女が間もなく死ぬという予感が、悲しみが、憐れみが、舞台全体に立ち込める。
ところが、彼女もついにこれまでかと思われた瞬間、舞台はそれより少し前、砲弾が雨あられと降り注ぐ中を、少女たちが逃げ惑う場面に巻き戻される。そして執拗に、何度も何度も繰り返される、少女たちの疾走と先の台詞。それらは次第に、モノローグの場合と同じく、事物を事物として提示する役目のみに特化していく。胸をえぐられるような言葉なのに、繰り返されればされるほど、言葉は乾き、舞台上の湿度は下がる。切迫した雰囲気も、この絶え間ない繰り返しによって舞台の上にのみ凝集し、私たち観客は、ただその外側に置かれているだけのような感覚に陥る。
この場面の反復は、実はモノローグと並んで、藤田作品で殊によく用いられる手法であるらしい。私は彼の演出した舞台をほかに見たことがないので、この手法の用いられ方を、彼や、彼がこれまでに発表した作品の文脈に即して論じることはできないのだが、それでも今回の舞台に限って言えば、このふたつは、戦争という巨大、かつ繊細なテーマを、もはやそれを知る者の少ない現代の日本で扱うにあたって、実に効果的な手法だったと思う。
私たちは、戦争やその被害について、ある程度想像を巡らせることはできる。「かわいそう」と同情したり、「ひどいことを」と憤慨したりすることだってある。しかし、もしかするとそれは、物事が「そういう見せ方をされている」からにすぎないのかもしれない。何ら意図的でない、ありのままの戦争、あるいは結果そのものに直面したら、私はきっと、怒りや悲しみがやってくるよりも先に、ただ、どうしたらいいのかわからず、戸惑ってしまうような気がする。
『cocoon』は、戦争の悲惨さや生々しさを跳び越え、戦争と私たちを隔てている、感覚としての距離を前景化する。藤田がこれまで培ってきた演劇の手法と、彼の現代人としての意識が、それを舞台上にあぶり出したのだ。劇中で、どう捉えていいのかわからないような場面に遭遇し、そこから突き放されるような感覚をおぼえたとき、私たちは、そこに投じられた聡子というキャラクターと、彼女の唐突な2013年への言及よりも、よほど直接的かつ本質的な問いを、この芝居から受け取っている。