マームとジプシー「cocoon」

10.セミの鳴き声がつれてくる『cocoon』のきおく (黒田可菜)

 誤解を恐れず言い切ってしまえば、戦争を扱う芝居はあまり好きではない。
なぜかというと、戦争を描く演劇の多くは、戦争の悲惨さを伝えるツールとしての演劇だからだ。
演劇的手法の工夫とか、役者の魅力がどうとか、そういうことよりまず道徳的な、教育的な面が押し出されているものが大半であるように感じて、演劇を楽しむために見るというよりは教養のために見るようなものが多いと感じるからだ。

 しかし『cocoon』は違った。この作品においては、戦争は背景でしかなく、主軸はあくまで登場人物たちの内面にある。登場人物たちの感情の動きが戦争の悲惨さに味付けをするような構図ではなく、戦争のほうが、サンやマユたちを理解するための背景として存在している。でも不思議なことに、そのほうが、よりストレートに戦争の悲惨さやつらさを肌で感じることが出来た気がするのだ。これは大きな発見だった。

 この芝居はいつのことだかわからない。注意深くいろんな情報が省いてあって、遠い過去なんだろうけど、近い未来のようでもあり、もしかしたら今なのかも、とも感じられる。女学生、というより女子高生、という言葉のほうが似合いそうな彼女たちは、今までたくさん見てきた戦争をテーマとした作品にでてくる「清楚でひたむきで」という印象だけではなく、もっと俗っぽくて身近な存在に感じられた。実際、「あぁこれ、ひめゆりの…」と思い当たったのは「ガマ」という言葉が出てきてからだった。

 こうして考えてみると私は、戦争というものを「記号」として認識している。「南の島」+「女学生」+「ガマ」=ひめゆり。式がつながって回答が出たとたんに、過去に見たいろんな資料の記憶が引き出されてくる。本土上陸はいつのことだっけ。たしか玉砕とかするんだったよな。そうした「記号的な記憶」は、普段であれば先の展開を読んでしまうという作用しかないのだが、今回はそのただの情報や記号の一つ一つが、芝居が先に進むにつれ熱をおびて、「自分にもありえたかもしれないこと」として意味のあるものになって行った。

 と、今は冷静に書いているけれども、そうして今まで記号的に処理してきた悲惨な物事を、サンやマユたちに同調しながら次々と体験していくというのは、泣きすぎて半分ひきつけを起こすくらいショックでしんどいことであった。今回の舞台の中で一番印象に残っているのは、女学生のうちの一人のえっちゃんが、仲間たちと一緒に空襲から逃げる途中足を負傷してそれでも懸命に走って、走って、ついに心折れて「先に行って」「もう、がんばれない」「だめな子で、おかあさん、ごめんなさい」と叫ぶシーンだが、そのあとの、そばの石で自分の頭をかちわって自殺したくだりを聞いても、「私もこの状況ならそうやって楽になるかも…」などと自然に思った自分がいて、私の脳や感情もかなり極限まで追い詰められていたのだなと、いまさらながら思う。

 今回、こんなふうにいつもとは違う「戦争」の扱い方をしている舞台をみて、改めて自分の「戦争」への認識がどんなものか考えた。私は毎年のように原爆ドームを見学し、貞子の像に折り鶴を折るような地域で育った。だから私にとっての「戦争」は、ヒロシマについて先生が見せてくれるあらゆる資料を壁新聞にまとめる事だったし、折り鶴を折ることだったし、神妙な顔しておじいさんやおばあさんの話を聞くことだったし、八月六日の登校日で黙祷をすることであった。

 写真が語る事実はそれなりにショックだったし、経験者の話に引き込まれ心は純粋に痛んだ。教育の一貫で「戦争」を扱うテレビドラマや舞台も沢山観させられたけども、時系列が把握しやすい事以外は「本物」に勝る点などなく、だから『cocoon』の事も実はそんなに観たいとは思っていなかった。

 『cocoon』は、私にとっての「戦争」を「遠くない未来自分にもありうること」でかつ「なんとか回避したい、と理屈ぬきで思うもの」に昇格させた。「戦争」は私のなかに、知識や、平和教育の体験としてあったけれども、過去に終わったものとして「現在のわたし」や「私の感情」には繋がっていなかった。それを繋げたすごい作品なのだ。安易な言葉だけれど、価値観を変える芝居だったといえる。

 今回私がそこまで心動かされたのは、アプローチ方法の違いというのも重要な作用点だったと思うが、今回初めて体験した「リフレイン」と呼ばれるらしい手法も、とても効果的だと感じた。

 嫌なことからは目を逸らしがちだし、つらい出来事は受け取るのに時間がかかる。とくに大勢の女学生たちが口々に何か叫び、四方八方逃げ惑いながら走り回るシーンはもっとも辛かった。舞台の上で沢山の事が起こっていて、まずはわからないことへの不安と恐怖を感じる。何回か繰り返されるうちに、なにが起きているのかやっとわかる。わかった瞬間その事実の内容に愕然とする。状況が飲み込めたら今度は個々人の心情に寄っていく。きっと脳は辛いことを受け止め過ぎないように出来ているので、もしこのシーンが一回だけだったなら反応していなかっただろう脳細胞のひとつぶひとつぶ残らず、引っ張り出されて揺さぶられているような気分であった。

 サンたちは劇中で振り返らず、「涙もでなかった」ようだが、観客の私は振り返ってばかりだったし、控えめにいっても号泣していた。

 帰りの物販ブースや出口の付近では、セミの鳴き声がスピーカーから流されていた。誰の考えかは知らないが、いやはやここでか、やらしいこと思いつく人がいるなぁ、と心の中でつぶやいて東京芸術劇場をあとにする。案の定地上では、本物のセミの鳴き声がしている。これだけ心揺さぶられたあとで、劇中の曲でなく、夏ならばどこかでふと聞いてしまう様な音色が刷り込まれてしまったら、かなりの頻度で思い出してしまうではないか。事実、帰る道すがらでも、仕事の外回り中でも、お盆で帰省して実家の畳で寝転がっている時にも、セミの鳴き声を聞くと舞台のあれこれが思い出されて、じっと目を閉じていろいろと考えてしまった。きっと、この夏、セミの鳴き声がしなくなるまでは生々しい体験として『cocoon』のことを思い出しては立ち止まってしまうことになるんだと思う。もしかしたら来年も、再来年も、ずっと。
(2013年8月 7日19:00、11日15:00の回観劇)

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