マームとジプシー「cocoon」

11.繭を破るとき (澤田悦子)

 子どもの頃、「御蚕様」の部屋で寝ていた。母親の実家は古い農家で、戦前まで養蚕業を営んでいた。夏休みに帰省すると、子ども達は物置代わりの御蚕部屋に寝かされた。居間の直ぐ上にある6畳ほどの御蚕部屋は、梁がむき出しで天井が低かった。部屋の隅には回転蔟が置いてあり、南側にある大きな障子戸の窓を開けると、桑の木の向こうに田んぼが見えた。

 マームとジプシー「cocoon」は、今日マチ子の原作「cocoon」(秋田書店)を基にした舞台作品である。舞台上の少女たちが置かれた環境は、過酷だ。沖縄戦に動員され、友人たちやクラスメイトは次々に亡くなっていく。だがこの舞台は、戦争は主題ではない。
 今日マチ子の「cocoon」は、沖縄戦に動員された少女たちから着想を得たフィクションである。歴史的事実を少女の目線で語ることで、過去にあった悲惨な事実としての沖縄戦ではなく、少女たちを取り巻く現実としての戦争と、そこで生きる彼女たちを描いた。対して、マームとジプシーの「cocoon」では、歴史的事実である過去の「ここ」と「いま」が繋がり、今を侵食してくる。二つの「cocoon」のどちらでも、少女たちは戦争については語っていない。彼女たちの日常にある、「憧れ、初戀、爆撃、死。」すべてを同列で語る。

 舞台「cocoon」の原作との大きな違いは、聡子の存在だろう。舞台は、サンと聡子の2人の視点で語られる。2人の視点は舞台上の少女を過去として見ている。しかし、二人の視点は同じではない。サンが過去の自分を見ているならば、聡子は過去の少女たちを客観的に見る第三者の視点がある。
 聡子がクラスメイトや後輩を紹介する。聡子に紹介されるたび、少女たちは何度も同じ場面を繰り返す。たわいのない日常会話、笑ったり、怒ったり、何気ないことで傷ついたり、そんな場面が繰り返される。そのうち、制服をきた彼女たちの姿が見えてくる。サンと中世的な雰囲気のマユ、双子のマリちゃん、ユリちゃん。真面目なカナちゃん、サンと幼馴染のエッちゃん、おしゃれなタマキさんと「にゃー」と挨拶するかずは。後輩のももちゃんと、記憶に残らないまとばさん。学級委員のそじこ、思春期の憤りが見える、こうちゃん、なっちゃん。泣き虫のきっちゃんと、空気の読めない、なんば。絵の上手い、ひなちゃん。

 彼女たちは過去の可哀想な少女たちではなく、こういう子いるよねと共感できる「いま」にも存在する普通の少女たちだ。エッちゃんが空を見ながらのんびりと話す「あれは鳥かなぁ、飛行機かなあ。」、彼女たちの学校生活は、死や恐怖といった感情から遠く離れた場所にある。「いま」と同じように、日常生活を生きている。しかし観客は、エッちゃんが見ている穏やかな空が、もう少し先の未来には見上げることも出来なくなってしまうと知っている。6月になれば、繭に包まれて守られている少女たちの生活が、抵抗できない暴力によって奪われると知っている。だから、繰り返される日常はかけがえがなく、失われてしまう日々が、愛おしく思えるのだ。

 学校生活が大きく変わるのは、少女たちが戦争に動員されてからである。少女たちは当然のように兵士の看護に赴いて、戦争に巻き込まれていく。そのことについて苦悩するのは、大人の女性である先生と母親だけだ。大人の彼女たちは、戦争に動員されることの意味を理解している。だが少女たちは、学校生活が変わっても今までと同じように行動する。ひなちゃんの描くお菓子を見ながら楽しそうに話し、髪の毛の手入れをしている。兵士の看護を分担し、役割をこなそうとする。それは冷静な判断なのではなく、死への実感が遠い繭の中にいる蛹だからだ。

 曾祖母が「御蚕様」と呼んでいた蚕は、野生の中では生きていくことが出来ない。蚕が生きていくためには、人の保護が絶対に必要になる。蚕のために環境が整えられ、日当たりのよい部屋と、柔らかな絹糸にするために必要な、良質な桑の葉を与えられる。蛹になる時期が来れば、繭を作るための回転蔟に人間が入れる。蚕はそこで繭になるのだ。そして人の手で育てられた蚕は、繭を破って羽化することなく、同じ人の手によって殺される。
 劇中に何度か繰り返される、「私たちは繭に守られている。」という言葉。蛹である少女たちは、繭の中で外界から保護されている。しかし繭の中に閉じ込められ、外界から隔離されている状態とも言える。繭の中からは、外の状態を知ることは出来ない。繭の中の蛹は死が迫る瞬間まで、きっとそのことには気づかない。守られることに慣れてしまった蛹たちは、繭を失う瞬間に初めて「死」を知るのだろう。それは少女たちそのものだ。生きることの責任も、過酷な戦場へ赴くことの決心もない蛹のまま、突然繭をはぎ取られる。

 繭に包まれた少女たちを殺すのは、抵抗できない暴力だ。暴力は敵から振るわれるだけでなく、少女を保護する存在である「私たちの兵隊さん」からも振るわれる。
サンが「私たちの兵隊さん」と呼んだ兵士は、蛆に自らの肉を食べられている音が聞こえている。尾野島慎太郎、28歳。自分の顔が蛆に食べられていることに気が付いた彼は、何度も叫ぶ「想像できますか。」と。想像なんて出来ない、共感なんてもっと出来ない。彼を看護する少女たちも、彼の恐怖に気が付かない。彼の体に付いている蛆を取り除いてあげることで精いっぱいだ。彼の存在は、暴力とその結果の悲惨さに満ちている。しかし尾野島慎太郎は、普通の青年でもあるのだ。少女と会えることを、楽しみにしている青年。28歳はおじさんだろうかと密かに気にしている青年。きっと「いま」なら、合コンで盛り上げようとして失敗するようなタイプだろう。彼のこれまでの日常生活には、死の恐怖を感じる瞬間などなかったのだ。自分の顔が蛆に食べられることなど、一度も想像したことはなかったのだ。彼も少女たちと同様、繭に守られたまま戦場に来てしまった。覚悟も決意も何もない。だから彼は、恐怖を和らげる一番簡単な方法として弱い者へ暴力を振るったのだ。

「私たちの兵隊さん」に穢されたサンは、それでも海を目指して走る。生きたいと切望し続けて手を伸ばし続ける。だからサンは、ウージを食べてしまった双子のマリちゃんとユリちゃんに苛立つ。純潔を守るために集団自決しようとする友人たちに、自分は穢されても生きていると伝えることをしない。彼女は穢れても卑劣でも生きていたいと走っていく。こうちゃんとなっちゃんが、男性に立ち向かっては振り回される。暴力に立ち向かっていく彼女たちは、大きな波に向かっては押し戻される木の葉のようだ。そして2人は、波にのまれていく。それでもサンは立ち止まって振り返らない。聡子はサンに言う「誰が死んでも泣けなかった。泣いたらみんな過去になる。」と、サンはわかるよと言いながら涙を流す。みんなを過去にしても自分が生きていくために、サンは泣いているのだろう。立ち止まらず、振り向かず、海へ必死に走る彼女の肉体からは、生命が溢れている。息を切らして涙を流す姿は、「ここ」で生きようとする彼女の願いが見えてくる。

 繭を破るとき、それはサンが生きていくと決めたときだ。自分の近くにいて常に自分を守ってくれる存在だったマユが死んで行ったとき、サンはそれでも生きていくと決めるのだ。生きたいと願うのではなく、自分の責任で生きていくと決心したとき、彼女は繭を破り羽化する。それは大人になることだ。
現実社会が重く苦しい場所であっても、繭の中に留まって生きることは不可能だ。保護し、慈しんでくれた存在から離れ、大人にならなければ生きていくことはできないのだ。繭の中に留まれば、いつか大きな存在によって繭がはぎ取られ無防備な蛹のまま、外界に放り出されてしまう。そして蛹のままでは、外の世界では死んでしまう。
 繭を破るとき、それは喪失を伴う成長のときだ。いつの時代であっても、喪失と成長は簡単なことではない。彼女たちの喪失と成長の物語を、可哀想と泣いて過去の物語にしてはならない。彼女たちの生きる世界は、私たち観客の世界と地続きだ。少女たちは、悲しい過去の思い出を話しているのではない。少女たちは、現実世界の「ここ」で「いま」を生きている。その物語が舞台では語られたのだ。

 舞台中央の砂の上で、波は寄せては返す。同じ波は二度と来ない。しかし海は過去から続いているのだ。サンの語りを聡子が見守り繋いでいく。彼女たちが生きていくと決意した瞬間を私も誰かに伝えなければならない。それが繭を破った大人の責任だ。

 子どもの頃に寝ていた、「御蚕様」の部屋はもうなくなってしまった。御蚕部屋で寝ていた、少女になる前の子どもだった頃の気持ちを思い出すことは難しい。でも、私は繭を破って大人になったことを後悔したことはない。繭の中の少女たちの成長を懐かしく、愛おしく思えることは、幸福だと思うのだ。
(2013年8月14日19:00の回観劇)

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